芸術は作者の死によって完結する、のか?
昨日ピースオブケイクの加藤さんのnoteを読んでいて、毎週更新を楽しみにしている「コンテンツ会議」ってハッシュタグ(#コンテンツ会議)をつけて参加もできるのか!と気づき、参加してみたくなったので最近ちょうど「コンテンツ」について考えていたことをつらつら書いてみたいと思います。
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文字が書いてあればなんでも読みたがる活字中毒の私ですが、一番好んで読むのはいわゆる純文学と呼ばれるジャンルです。
特に明治〜昭和初期にかけて書かれた、教科書に載るような古典的作品を愛しています。
三島由紀夫、川端康成、吉行淳之介、夏目漱石、谷崎潤一郎…。
ベタだけど、いわゆる文豪と呼ばれる人たちの作品が好きなのです。
そんな好みを事前に伝えていると、最近読んだ本の話などしている時に「作者がまだ存命だから好みじゃないと思うけど…」と一言添えてご紹介いただくことも多く。
ちょっと待て、別にそういう縛りがあるわけではないぞ。
と思ったものの、よくよく思い返してみれば好きな作家を聞かれた時、存命の作家で思いつくのは2、3人。
人からのおすすめや書店の棚を見て作品単体が気になって買うことはあれど、作家名指しで買うのは辻村深月と湊かなえくらいだなと気づきました。
私はなぜ無意識に「死んだひと」の書いたものを読みたがるのか?
そもそも時代背景として明治〜昭和にかけてが一番好き、というのはひとつの理由かもしれません。
細雪や斜陽のような大正末期の華族も好きだし、驟雨や檸檬などの退廃的な雰囲気も好き。
現代の作家でその時代を描く人は少ないので、どうしても過去の文豪の作品に偏ってしまう気はします。
そこで現代の作家が鹿鳴館や美徳のよろめきのような作品を書いたとしたら?と想像してみたのですが、やはり "作家"としての興味がわかない。
なぜなのだろう?と自問自答した結果、生きているうちは "作家"という作品が完結していないから興味がもてないのだ、と気づきました。
ひとりの作家のファンになるということは作品単体の面白さだけでなく、書かれた時期やすべての作品に共通する思想や哲学、その作者ならではの呼吸、といった連続性すべてを愛するということだと思います。
私は特に三島由紀夫が好きなのですが、やはり初期に書かれた仮面の告白と最後の作品である天人五衰(豊饒の海)はそれぞれ作品自体もさることながら、彼の人生そのものと照らし合わせて読むとより深く作品世界に入り込める気がするのです。
はじめと終わりが決まっていて、まるで答え合わせをするように年表を見つめながら思想の変化や表現の変遷をたどっていく。
これからいかようにも変化する可能性のある存命作家にはない楽しみではないでしょうか。
読み手を動く点Pだとするならば、すでに他界した作家の作品は表の軸であり、常に同じところに鎮座している羅針盤のような存在なのだと思います。
存命作家の場合は相手も動く別の点であり、近づきすぎたり遠のいたり、距離感の取り方が難しい。
そしてもうひとつ「死によって完成される美」について思うのは、作家本人の意思を無視して自由な解釈が可能になるということです。
このツイートを拝見して改めて蓮實重彦先生の会見書き起こしを読んでみたのですが、まさに「すべては作品によって語られている」という意思表示を感じました。
作品が世に出た瞬間、それはすでに書き手のもとを離れて読み手のものになります。
――何について書かれた作品なのでしょうか。この中で、自分は何を書いたと…。
まったく何も書いていません。あの、お読みになって下さったのでしょうか。そしたら、何が書かれていましたか。
作家・作品・読者の関係性は、この受け答えにすべてが集約されているような気がします。
とはいえ書き手が生きて耳をもち口をもつ以上、読み手としては "正解"と異なる可能性がある解釈を口には出しづらいものです。
そう、つまり、作家が死んだ瞬間に "正解"は消失し、誰の解釈であれすべては想像の域をでない、という状況になる。
解釈の "正解"から解き放たれた時、作品は真に完結し、芸術に昇華するのではないか、と思うのです。
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私は学生のころから、センター試験の国語で小説を取り上げることに違和感をもってきました。
評論の要点をまとめる能力とはことなり、小説の読解には正解がないからです。
小説は読み手の経験と思想を映す鏡でしかありません。
場面の解釈も、主人公の心情も、自身の経験(読書による疑似体験を含む)の範囲内でしか想像することはできないのです。
であるにも関わらず、無理に解釈の正解を押し付けることは人格の否定ですらあると思っています。
読書の楽しみは、自分勝手な解釈にある。
作者の死によって正解から解き放たれた作品は、己の感受性を信じて勝手に解釈して楽しもう。
「他界した作家の作品が好き」
なんて、あまり理解されない嗜好をもっともらしく語ってはみたけれど。
難しいことは抜きにして、ただただ美しい言葉のシャワーを浴びるつもりで手に取ってみてほしいなあ、と思ったりもします。
ということで、最後に私の好きな三島作品の一節をご紹介して終わりたいと思います。
「白百合の如く清楚、しかも夕日をうけたあの日の御宅の庭の桜の如き、艶やかさは、小生の如き、桜の散り際のいさぎよさを重んずる者は、ひとしお胸迫るものがあったのであります」(恋の都/三島由紀夫)
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(Photo by tomoko morishige)
私のnoteの表紙画像について書いた記事はこちら。
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