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なぜ人は「幸せ」や「夢」を避けようとしてしまうのか

人は皆『幸せになりたい』『夢を叶えたい』というけれど、よくよく観察してみると自ら不幸になりにいったり、夢が叶わないように遠回りする道を選んでいることが少なくない。

特に顕著なのが、目の前の時間をわかりやすいタスクで埋めてしまう行動ではないかと思う。

5年後、10年後を考えたら空いた時間にやるべきこと、考えるべきことがたくさんあるはずなのに、つい目の前のわかりやすいことに飛びついてしまう。

根本的な幸福の阻害要因がわかっているのに、ついそこから目を背けて対処療法に逃げてしまう。

それはすべて、人が根本的に持っている『幸せになることへの恐怖』に起因するのではないかと思う。

毎週楽しみにしているスイスイさんのお悩み相談コラムを読んでいると、毎回のようにそう思う。大半の人の悩みの原因は、『幸せになることへの恐怖』だと。

かくいう私もともすると幸せや夢を回避してしまいがちなのでその心理を見つめてきて思うのは、人が積極的に幸せになろうとしない理由は2つの要素が複雑に絡み合っているということだ。

まずは、将来の幸福という価値を現在に割り引いて考えると、目の前の快楽や楽しみの価値が勝ってしまうことがひとつ。

以前「私たちが短期的視点で決断をしてしまう理由」という記事でも書いたのだけど、私たちは先の話になればなるほど自分の意思決定に自信が持てなくなっていく。

さらに未来の幸福は不確定要素が増す分、そのゴールは薄ぼんやりと霞んでいて、まるで砂漠に浮かぶオアシスのように、なんとなく目指しているけれどなかなか到達できないものになってしまう。

それに比べれば、週末のおでかけやドラマ、漫画、ゲームといったコンテンツを消費する方がわかりやすく確実に幸せになれる。それが例え、一瞬の快楽に近いものだったとしても。

これは仕事でも同じで、そもそも仕組みを変えたり将来のために新しい事業を起こしたりすることは、いわゆる『緊急ではないけど重要なこと』に分類されてしまう分、日々のタスクという『緊急度が高くて重要なこと』にどうしても負けてしまう。

以前本田直之さんの本に『あなたは本を読まないから本を読む時間が作れないのだ』と書いてあって衝撃を受けたのだけど、これはあらゆることに言えると思う。

幸福や夢に向き合うということは、それだけの時間自分の意志を試され続けるということだ。

本当に自分は解決したいのか。叶えたいことなのか。10年、20年のスパンでその問いと対峙し続けるには、人の存在はあまりに弱い。

ではその弱さは何に起因するのかというと、一番大きいのは『言い訳がなくなってしまう恐怖』ではないかと思う。

そして、こちらの方が、人が幸せに恐怖を感じる理由として大きい。

以前、石川善樹さんに勧められて河合隼雄先生の『現代人と心の問題』という講演録を聞いたのだけど、その中でこんな話があった。

河合先生のもとには心の問題を抱えた人が大勢やってくるけれど、果たしてそれをすべて取り除くことが本当に本人のためになるかどうかはわからない、と。

普通に考えれば病気は『治す』のが当たり前だと思い込んでしまうけれど、逆にその病気があることで本人は『これさえなければ自分はもっとできるのに』という希望を抱けているということも多い。

もしその人が病気という障害を取り除いた後の自分の能力が大したことないと気づいてしまった場合、それは本当に幸福と言えるのだろうか。むしろ病気や障害を言い訳にして理想の自分を夢見続ける方が幸せな場合もあるかもしれない、と。

私は、あらゆるアドバイスや相談が徒労に終わる理由は、この自分への言い訳を持っておきたいという気持ちが大きく作用しているのではないかと思っている。

幸せへの道も、自分の不幸の原因も、みんなきちんとわかっている。ただ、『ちょっと不幸』でいつづける方が楽なのだ。

何かのせいにしつづけていれば、ちっぽけな自分に気づかずにすむから。

自分と向き合うことは辛い。だから人は何かを身につけたり環境を変えたりと外に原因を作って、自分と対話する時間を作らずにすむように日々を忙しさで埋めようとする。

私が前述のスイスイさんのお悩み相談を好きな理由は、スイスイさんが徹底的に相談者を自己と向き合わざるをえないほど悩みの本質に切り込んでいくからだ。

スイスイさん自身が自分の幸せから目をそらさない人だからこそ、どのコラムからも幸せになるための痛みを示唆しつつも幸せになっていいんだよという受容がにじみ出ていて、読みながら私自身もまったく違う悩みを解決してもらっていたりする。

サクちゃんの「しあわせになることへの許可」の話も、根っこは同じ話をしているような気がする。

人が幸せになれない原因は、常に自分の中にある。

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ただ個人的には、別に全員が幸福を目指さなくても、『薄ぼんやりした不幸』の中で生きる自由があってもいいんじゃないか、とも思う。

あまりに強烈に自己と向き合い続けると人は死に近づく。それを回避するためにインストールされているのが『外部要因のせいにする』という思考回路なのだから。

困難を克服して何かを達成するとか大きな幸せを掴むことだけが善だと思われがちだけど、問題を抱えつつもささやかに日々を過ごす人生だって肯定されるべきだ。

一番よくないのは自分が目指す方向や心地いいあり方を誤解してしまうことで、『ああ、自分は今幸せを回避しようとしているんだな』と自覚がないままずっと幸福にたどり着けないストレスを抱え続けることだと思う。

人は、幸福に耐えられるほど強くない。

そのことを知っているかどうかで、生きやすさは随分と変わるんじゃないかと思うのだ。

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