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休日の基本は「1日休養、1日教養」。

伊勢丹時代、社会人の基本として教えられたことのひとつに「1日休養、1日教養」という考え方がある。

これは、松下幸之助が週休2日を導入を労働組合から反対された際、「教養がなければいい仕事はできない」という導入理由と共に語られた有名な言葉だ。

特に百貨店は常に自分のセンスを磨き続ける必要があるため、この「1日教養」は先輩たちからも口すっぱく言われていた記憶がある。

本を読む、美術品に触れる、私の場所に足を運ぶ、素敵な場所で食事をする…。

それも仕事のうちだと叩き込まれたことは、私の社会人生活に大きな恩恵をもたらしてくれたように思う。

とはいえ、フリーランスになってからはなかなか一切仕事抜きの休日を作ることは難しくなってきたのも事実だ。

自分で仕事量をコントロールできる働き方そのものは魅力的だが、仕事が楽しくなってしまいがちだからこそ、つい働きすぎてアウトプット過多になってしまう。

しかし、何かを作り出すには材料の供給が欠かせないように、良質なものをインプットする時間は、長期的に良質な仕事をするためには絶対に必要なものだ。

独立して半年は目の前のことに追われていっぱいいっぱいだったが、今年は意識して休日を作ろうと思ったのも、このままでは仕事を「こなす」人間になってしまうという危機感をもったことが大きい。

忙しそうなふりをして「こなす」仕事ばかりで身を固めていると、少しずつアウトプットのクオリティも下がっていく。

思考を一段飛躍させるもの、それが体のメンテナンスとしての「休養」であり、心の栄養としての「教養」なのだ。

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私が「知性ある消費」をテーマに掲げているのは、自分自身の経験を通して「稼ぐ」だけでは人間としては片手落ちだと考えているからだ。

稼ぎ続けるためには、上手なお金の使い方、つまり消費における知的レベルを上げることがセットになる。

なぜならば、事業規模が大きくなればなるほど思考の抽象化レベルを高める必要があり、そのためにはアートや歴史、文化といった即効性のない学び、つまり「教養」が必要になるからだ。

ただ学ぶだけではなく、人類が長い時間をかけて蓄積してきた美学の最先端を知り、買い支えることを「知性ある消費」として私は定義している。

何かを買うということは、自分が着飾ったりおいしいものを食べるだけではなく、自分がお金を払うことでその土地や作り手、文化の発展に寄与するという投資的な側面もあるからだ。

つまり、「1日教養」には、賢く豊かなお金の使い方を学ぶという意味があるのだと思う。

しかし、お金を「稼ぐ」ために大切なことはあちこちで語られ、学ぶための場が飽和するほどたくさんあるにも関わらず、「使う」ために大切なことを学ぶ機会はほとんどないと言っても過言ではない。

特に文化や歴史、アートといった分野は敷居が高いと感じさせるものも多く、初心者を中級まで引き上げる水先案内人が圧倒的に不足している。

これから、そういった感性を刺激する分野が求められていくにも関わらず、だ。

これから確実に今の仕事がAIに置き換わっていく中で、人間に残された仕事は「美学をもつ」ことに帰結していくと私は思っている。

合理的に考えたら選択しないこと、最大公約数ではなく自らの意志を持って選ぶこと。

そのための判断軸、つまりセンスと呼ばれるもののを育成するのが、感性を刺激する体験だ。

歴史や伝統が蓄積すればするほど、「間違った知識で参加したら恥ずかしい」と感じてしまいがちなものだからこそ、その敷居を下げる仕組みや機会、水先案内人が必要になる。

今後はより多くの人の「1日教養」の市場をいかに取りにいくかが重要になっていくのではないかと思っている。

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というようなことを、昨日ANAインターコンチネンタルホテルで開催された「嬉野茶時」のイベントに行ってみて改めて考えさせられた。

「嬉野茶時」について以前取材した記事はこちら:http://motokurashi.com/saga-ureshino-1/20180114

美しい空間は人の思考を飛躍させ、新たな視点を与えてくれる。

つい目の前の仕事を優先してしまいがちな日々の中で、改めて「1日休養、1日教養」という教えを思い出した1日だった。

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