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「アンラーニング」と「修行」の違い

英語がある程度身についてくると、日本語能力の高さが英語の成長を妨げることに気づく。日本語を直訳した英語ではなく、「英語らしい英語」で話すには、頭のスイッチ自体を切り替えなければならない。言語化変わると単語や文法のみならず、ものごとの捉え方ごと変化させる必要がある。

何を主語に置くか、どの順番で話すか、どこを強調するか。言語がまとう文化的コンテキストや笑いのセンスも踏まえながら、英語を「英語」として話す。英語学習者がぶつかる大きな壁のひとつだ。

しかし日本語能力が高ければ高いほど「英語らしい英語」の習得に時間がかかる。日本語によって習得した言語が織りなすリズムへの感受性や精緻に表現するための構成力は、英語とは異なるものだからだ。むしろ言語野を日本語によって豊かにしてきた人は、体にまで染み込んだ日本語の感覚からなかなか抜け出せない。

だからある程度学習が進むと「日本語のアンラーニング」が必要になる。あえて日本語の感覚を抑え込み、「英語の自分」を育てなければならない。

こうして日本語のアンラーニングに取り組みながら、ふと「アンラーニング(unlearning)」は日本語にはない概念なのではないかと気づいた。

日本語では「学習棄却」「学びほぐし」といった言葉が当てられているが、日常生活で馴染みのある言葉とは言い難い。おそらく「アンラーニング」に対応する言葉として新たに創られたものだろうと思う。つまり日本には存在しない概念を言葉ごと輸入したということだ。

「アンラーニング」という言葉には、学習したものをあえて能動的に忘却するニュアンスが含まれている。日本語訳として「学習棄却」の言葉が当てられているのも、一度得たもの(学習)を捨てる(棄却)行為だからだろう。

一度獲得した知識や技術を、あえて手放すことで新たな学びの余白を作る。「アンラーニング」という概念は、自分の持つ能力が新たな能力の獲得を阻害する可能性があることを示唆している。

この認識自体は英語圏以外にも共通する普遍的な考え方のはずだ。しかし日本語には「アンラーニング」に該当する言葉が存在しなかったのはなぜなのだろうか。

直訳ではなく概念として「アンラーニング」に相当する日本語がないか思い浮かべる。一度獲得した力を手放すのは、その力が先入観につながったり新しい知識と誤って結合したりするからだ。つまり既存の能力を捨てることで「無意識」の自分を創り出す。これこそがアンラーニングの本質ではないか。だとすると、日本語にもたしかに「無意識を獲得するための行為」を表す単語がある。

「修行」である。

修行には何度も同じ行為を積み重ねるニュアンスが含まれており、一見するとアンラーニングとは真逆の言葉のようにも思われる。しかし修行の本質は何度も繰り返すことによって自意識を手放すところにある。意識せずともできるまで突き詰めるのが「修行」の考え方だ。

アンラーニングと修行は、最終的には同じ境地を目指している。しかし両者のアプローチは真逆だ。既存の持ち物をおろしてまっさらな空間を作るか、ひとつのものを突き詰めることで行為への意識を手放すか。このアプローチの違いが、言葉の違いに表れている。

ただ一点違いを感じるのは、両者の「身体性」への意識だ。「アンラーニング」は脳が主体となっている印象を与える一方で、「修行」には身体性をまとうニュアンスが込められている。日本は身体に重きをおく文化であることを感じさせる。

無意識の状態を得るために鍛錬を重ねる考え方は、日本的なプロ意識ともつながっているような気がする。ひとつの道を極める達人がもっとも尊敬され、自身の根幹となる技能や知識を軸としてすりばち状に新たな分野を開拓していく。求道者はやがて普遍的真理にいきつくという考え方が根底にあるように思える。

もちろん両者に優劣があるわけではなく、それぞれのアプローチは単に宗教観や地政学的な違いから生まれたものにすぎない。私たちに必要なのは、お互いの差を優劣として捉えるのではなく、持ち得なかった新たな概念を交換することでよりよいものを生み出していくことだろう。

修行によってしかたどり着けない境地もある。修行では手に入らないものもある。何かを学ぶ醍醐味は、自分の中に新たな概念を取り入れ選択肢を増やすことにあるのではないかと思う。

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