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「反論」は、自分の「オピニオン」に変換しませんか?

最近話題になり、いまだに賛否両論を巻き起こしつづけている
日本が中国に完敗した今、26歳の私が全てのオッサンに言いたいこと
という現代ビジネスに掲載されたルポルタージュ。

記事としてのオピニオンが強烈だったこともあって反発も多いようですが、私も
私たちがこれから、中国に勝てなくなっていく理由
という記事を書いたことがあるので、中国への急激な成長に衝撃を受けた気持ちにはとても共感しました。

一方で、この記事をきっかけに派生した「反論」からも、学ぶところが非常に大きいと感じています。

例えば、文春オンラインの「『日本が中国に完敗した今、26歳の私が全てのオッサンに言いたいこと』にオッサンが答える」という記事は、長年ジャーナリストとして中国を見てきたからこその深い考察が多く、私自身も中国のほんの一部の顔だけを見て「もう中国に勝てない」と単純に捉えていたことを反省しました。

たしかに、ITリテラシーは格段に上がっていっているけれど、中国全体で見れば急成長しているが故のゆがみや、クオリティが担保されていないなど様々な問題が山積みで、一枚岩で理解できるものではないと思います。

ただ、ほとんどの「反論」はこうした学びが得られるほどまとまっておらず、記事への反応に止まってしまっていることに、純粋にもったいなさを感じています。

今回の記事で言えば筆者は26歳で、中国への渡航経験が豊富にあるわけではありません。

さらに、記事の中で「中国」と大きな主語で語ったことによって
「そうじゃない地域もたくさんある」
「ここに書かれているのはほんの一部の話だ」
という指摘をする余白を持たせてしまい、人の反論欲、つまりマウンティング欲を必要以上に誘ってしまったように思います。

専門分野であればあるほど、この記事に対してあれこれ言いたくなる気持ちはとてもよくわかります。

しかし、その反論や批判は、何のためにあるのでしょうか。

自分のストレスを発散するため?
自分の方が詳しいという自己顕示欲を満たすため?

根底にある感情は人それぞれだと思いますが、友人同士の居酒屋トークならいざ知らず、公に発信する場合においては、「人に有益な情報を届ける」ことを意識する方が、自分もまわりもみんながハッピーになるはずです。

どれだけ実績を重ねた専門家でも、何かしら知らない知識や抜け落ちている視点はあるはずで、「違うな」と思った時にそこを直接指摘するよりも、元の意見や情報をベースに「こういう見方もあるのではないでしょうか」ともっと広く伝える方が、社会全体でみたときに利益が大きいように思うのです。

みんな目指す方向は同じで、何かをよくしたいと思っているはずなのに、足を引っ張りあって疲弊するなんてまったく意味がありません。

それよりも、
「こんな考え方もあるよね」
「もっとこうしたらいいかも」
というポジティブな集合知こそが、世界を前に進める原動力なのだと思います。

私が尊敬している小林秀雄は、「褒めることのみが創作につながる」と言いました。
そして「対話とは、相手を説得することではなく共通のトピックをより深く理解しようとお互いが協力すること」なのだと。

私は、相手と1対1でやりあって疲弊するよりも、お互いに未来を見ながら自分のもっているものを出し合って思考を深めていきたい、と常々思っています。

もちろん直接のご指摘をいただくことも嬉しいのですが、「なるほどこれは勉強になったな」と感じるのは大抵「私」に向けたものではなく、私の意見や視点をもとに「みんな」に向けられたものばかりです。

自分の正義は人にぶつけるものではなく、自分の中で磨き続けるものであり、それは本当の「対話」によって磨かれるもの。

人を動かすのはきっと、そんな磨きぬかれ、削ぎ落とされた信念のようなものなのだと思うからこそ、私はこれからも、淡々と自分の姿勢や思想を自分の言葉で書き続けていきたいと思っています。

僕は何かについて、こういうことが正しいなんて言ったことはない。(中略) 僕は、自分の経験したことを通じて、こうだと思うことを書いているのです。そんなふうに書いた文章が人を動かすことがあると信じているだけだ。

(Photo by tomoko morishige

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