私は、健やかな人から買いものをしたい

「知性のある消費」を掲げていると、エコやエシカルの観点からの意見を求められることがある。エコもエシカルも、たしかに大切だし「知性ある消費」にも欠かせない観点だと思う。

けれども、同時にあまりに急速にトレンド化してしまったがゆえに、信念なくただ流行りに乗っかっているだけのように感じるケースもある。むしろエコやエシカルを標榜しながら、従来のアパレルの延長でブラックな働き方をしているブランドもある。

もちろんブランドを立ち上げた本人はどれだけ働いても苦ではないだろうし、どうしても年何回かある繁忙期にはブラックな働き方をせざるをえないこともある。

しかしブランドのクリーンなイメージと実際に働いている人の雰囲気のギャップから「知性」は感じられない、と私は思う。

それは単に労働条件の問題ではなく、働くことの納得感の問題でもある。特に現場の販売員には、どうしても売上のノルマがついてまわる。売上のために心にもないことを口にしなければならないことがある。作り手側も、数合わせのために嫌々世に送り出したモノがない人はほとんどいないだろう。そして売れなかったものをどうにか売るために、不本意なWeb広告やインフルエンサー施策をしなければならないこともある。

資本主義が生み出した「余剰」をどうにか消化させるための歪みが、少しずつ人の心を蝕み健やかさを奪っていく。

私が理想とする「知性ある消費」は、この輪廻から抜け出すことにある。

どこにだしても恥ずかしくない、妥協のないものを作り、気に入ってくれそうな人に届け、関係を紡いでいく。その健やかさのサイクルを回していくことにある。

お店でふと手に取った商品を見ながら、果たしてこの子はみんなから望まれて、愛されてここまで辿り着けたのだろうか、と思いを馳せることがある。札束に変える前の資産として適当に作られ、嫌々ながら仕事をしている人たちに雑に扱われてこなかっただろうか、と。

エシカルやトレーサビリティというと発展途上国にある工場の環境や素材が育てられた過程といった遠い話ばかりが語られがちだが、そのブランドで働く人たちが健やかに愛を持って商品を扱っているかどうかも同じくらい重要な問題であるように思う。

しかも現代は、それらがすべてSNS上で可視化される時代だ。辛そうに仕事をしている人よりも、日々を健やかに生きている人から買い物をしたいし、愛されて育ったモノを手元に置いておきたい。

そしてブランドに宿る健やかさは、大切なものとそうでないものを見分ける知性によって育まれるのだと信じている。

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