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SNSを通した情報収集は、積読に似ている

最近、久しぶりにPinterestを使っている。

世はInstagram全盛で、さらに「コレクション」機能ができたことでビジュアルの収集はInstagramという風潮だけど、やっぱりチームで共有するならPinterestが使いやすいなと思っている。

Pinterestの「ピン」であれ、Instagramの「コレクション」であれ、Twitterの「いいね」であれ、そこには自分が「いい」と思ったものを残しておきたいという意識が働いている。

でも、自分一人で使っている時は、そうやってカジュアルに集めたものたちを見返す機会はめったにない。

テーマに合ったフォルダにいれて、それでおしまい。

私はもしかして、「いいね!」と心が動いた瞬間を把握するだけで満足なのかもしれない。

あれ、この感じ、なにかに似ている…。

そうだ、これはきっとAmazonで本をポチった時点で一度「満足」を得る心の動きに似ている。

本を選ぶということはこの先自分がどうありたいかを選ぶということだから、それが言語化された時点で、一度満足してしまうのかもしれない。

今の自分に足りていないことは何?
次に学ぶべきこと、知っておいた方がいいことはどれだろう?

そんな問いを持って私たちは本を選ぶ。

そう考えると、読書というのは読む本を選んだ時点でその意味の半分は終わってしまっている気がする。

本棚は壮大な私の「ボード」で、そこに並んでいる本たちは、読了したかどうかに関わらず私が「こうありたい」と思っている精神世界を表している。

だから、ときどき本棚を見返してみると「ふーん、最近の私はこんな感じなのね」と思う。

それ一種の私自身の「コンディション」なのだと思う。

これは本棚に限らず洋服がいっぱい詰まったクローゼットもそうだし、自分のカメラロールだってそうだろう。

そこには「何を撮ったか」以上に、「何を撮らなかったか」が如実に表れている。

私たちは時々自分のことがよくわからなくなる。

「べき」に押されて、純粋な「したい」が見えなくなってしまう。

しかし、人が「選ぶ」とき、必ずそこには自分自身のフィルターがかかっているはずだ。

自分自身のことがわからなくなったら、本棚を見る。SNSのいいね欄やカメラロールや、「お気に入り」に設定した曲や、集めたアクセサリーをじっと見る。

きっとそこに「私」がある。

「私」はそうやって、作られている。

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