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村上春樹の大衆性

「村上春樹にハマれない」。

いち読書人として、村上春樹への苦手意識は長らくコンプレックスとして私の中に澱のように蓄積されてきた。他の作家ならば諦めたかもしれないが、村上春樹だけは異なる形式の作品に何度もチャレンジし、ハマる努力を重ねてきた。というのも、彼は作家として「特別な存在」だからである。

「ファンではない」と伝えると、どうにかファンの沼に引きずり込もうとあの手この手で「入門の仕方」をレクチャーされる作家は村上春樹くらいではないだろうか。私もこれまで何度もおすすめされてきたし、それを素直に受け取って読んできた。彼のよさがわからないのは読み手側の感性の問題であり、読書人として何かが欠けているのだと感じずにはいられなかったからだ。

日本中どころか世界中の人たちが陶酔し、絶賛する本を同じような熱量で褒め称えられない私は、文学を理解していない劣った人間なのだと思い込んできた。海外の本屋で「Haruki Murakami」を見かけるたびに、日本人である私が彼の文学の魅力を理解できないのはなぜなのだろう、とため息をついてきた。

彼の文章が一部の本好きだけではなく、普段は本を読まない層にまで支持されていることもずっと不思議だった。村上春樹の海外文学っぽい言い回しや独特の世界観を好む層がいるのは理解できるし、イメージもできる。しかし普段は小説を読まないけれど「村上春樹だけは読む」という人も意外と多い。東野圭吾や伊坂幸太郎、池井戸潤作品のように話の筋がはっきりしていて娯楽性の強い小説がベストセラーになるのはよくわかる。しかし村上春樹作品は基本的に純文学であり、文体の癖も強い。彼がベストセラー作家でなければ、普段あまり本を読まない人に勧める類の作品ではないように私は感じてきた(ここに関しては人によって感じ方はそれぞれだと思う)。

村上春樹には、文学好き以外も魅了する何かがある。しかしその「何か」を私だけが理解できていない。村上春樹の話をするとき、私はいつも世界に一人取り残されたような気分だった。

まわりに本好きが多いので、年に数回ひょんなことから村上春樹の話題が出る。そのたびに何かをおすすめされては読み、挫折してコンプレックスを深めるの繰り返しだったのだが、あるとき友人から「職業としての小説家」を勧められた。

村上春樹がいかにして小説家となり、どのように執筆活動を行い、海外への売り込みに成功したかを語ったエッセイである。私は彼の書くエッセイもあまり好みではなく読了できた試しがなかったのだが、この本は2日ほどで一気に読んだ。私が村上春樹に対して抱いていた疑問への答えが、すべてそこに書かれていたからである。

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