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自分にとって「どうでもよくないこと」こそが生きがい

多様性を認め、「人それぞれ」を尊重することがよしとされる時代。違和感を抱いたり、もっとこうしたらいいのに、と思うことがあっても、わざわざ口に出さず一度受け入れるのが大人なのかもしれない。

そんな時代の変化に適応するためなのか、気づけば自分のなかで「まあいいか」と受け止める範囲がずいぶんと広がった。

SNSで巻き起こる論争を眺めながら、「そういう人もいるよね」「そんな考え方もあるんだな」と、意見をジャッジせずひとつの意見として、知識としてインプットしていく。

一見すると大人の振る舞いなのかもしれないけれど、あらゆるものごとを客観的に見て受け止めていると、少しずつ自分がこの世界から乖離していくような気がする。一歩引いて全体を把握しようとすると、自分の感覚や意見が霞んで見えなくなり、自分なりのスタンスを確立する暇もなく、世間は次の話題へと移っていく。

私は誰よりも考えているつもりで、実は何もきちんと考えられていないのではないか。この心もとなさは、「人それぞれ」のお題目のもと、「どうでもいい」という態度に逃げていただけなのかもしれない。

soarの記事に出てきた西村佳哲さんの言葉を読んで、そのことに気付かされた。

でも全力でなくてもできることや馴染みのあることは、「まあ知ってる」「ただ生きてる」という感覚になりやすい。そっちの世界の方が重力があって、そうなると、生きていることの輪郭がちょっとぼやっとしてきて、「どうでもいい」という方に人生がちょっと揺れるんです。

「どうでもいい」の対極にある「どうでもよくない」という方が、生きている甲斐があるというか、そんな感じがします。

ここで西村さんが言っている「どうでもいい」と「どうでもよくない」の意味は私が上記で言及した話とは別ものだと思うけれど、自分の方向性に納得がいかないとき、人は「どうでもよくない」を手放してしまっている状態なのかもしれない、と気付かされた。

人にはそれぞれ、譲れないものがある。優先順位も違うし、何を目的とするか、善とするかの価値観も違う。

その違いを乗り越えて一緒に生きていこうとするとき、私は自分が諦め、譲ればいいやと考えてしまいがちなところがある。そうやって譲りつづけていると、自分にとって譲れないものがなんだったのかが段々とわからなくなっていく。

一時期、書くことが何も浮かばなくなってしまったことがある。書きたいテーマまでは浮かぶのだけど、そのテーマに対する自分のスタンスを定めようとすると、さまざまな立場や視点が思い浮かび、自分をどこに置けばいいのかがわからなくなってしまうのだ。

この「何を書いていいのかわからない」迷いもまた、自分の「譲れないもの」が徐々に溶け出し、削られていった結果なのだろう。さまざまな正義を目にすればするほど、自分なりの正義の軸もぶれ、どこに自分の譲れないラインがあったのか思い出せなくなっていく。

自分以外の立場や意見を知ることは、とても重要だ。しかし、ただ漫然と知るだけでは、「どうでもよくない」からこそ懸命に声を上げた人たちの意見を相対化して眺め、自分にとって「どうでもいい」ものとして処理してしまうことになる。

譲れない、「どうでもよくない」ものが自分のなかにも確立されているからこそ、他者の譲れなさにも共感ができる。お互いに譲れないからこそ争いも生まれるし傷つけあうこともあるのだけれど、わかったふりをした無関心よりもよほど健全なのではないかと思う。

もちろん、すべてのジャンルに関心を持つのは不可能だし、それぞれが別の分野に「どうでもよくない」を持っているからこそ、譲り合うことができる部分もある。

けれど、私たちが「私」を生きるためには、何かしら譲れないものを持つ必要がある。そしてそれこそが、「生きがい」と呼ばれるものなのではないか、と思うのだ。

多様性を受け入れること、他者を尊重し受け入れることは、決して自分を放棄することと同義ではない。それぞれが譲れない生きがいを持ったうえで、相容れなさごと引き受けながら、それでも共に生きていこうと足掻きつづけることなのではないだろうか。

これからものづくりやお店の世界でも、個人の思いの強さや一貫性、そこに共感できるかどうかがますます重要になってくる。集まった人々の「譲れなさ」が少しずつ異なるなかで、どう関わり合っていくか。そのスタンスもまた、今後重視されていくポイントとなるだろう。

先日ご招待いただいたイベント「Lifestance EXPO」で書いた言葉には、そんな思いを表現したつもりだ。

Lifestance EXPO」で私が書かせてもらった色紙。
※イベントはすでに終了しています


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