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神様は救うけど、意味は創らない

「宇宙があることに意味はない=ぼくが生きていることには意味がない」というのが、ぼくの基本的な考えだ。

これは、ぼくが特別そう思っているわけではなくて、普通に考え詰めていけば誰でも到達する結論だとぼくは思っている。

ただ、そこに到達した結果、その先をどう考えるかが問題だ。


「そう、この世界は仮のもので、天国という本当の世界があるんだよ。その世界に生まれ変わるために、この仮の世界を生きているんだ」

というのが、ひとつの考え方だと思う。

ほとんどの日本人は神様を信じてなさそうだから、「自分はこう考えてない」と思う人が多いだろう。

でもポイントは、それが一神教的な神様や、天国という世界観かどうかではなくて、何か、この世界の外側に、この世界の意味付けをしてもらおうとする考え方だ。


ちなみに、「天国」はこの世界の延長でしかない、とぼくは思う。

というのも、「天国が良い」「地獄は悪い」という評価はどうやってされているだろうか。

例えば、地獄に落ちたらずっと拷問され続けるから嫌だ、という考え方はよく理解できる。

でも、拷問が嫌なのはなぜだろう。

それは、生きている今、体に痛みを感じる経験が、死んだ後もそのまま延長されるだろう、ということが前提になっている。

天国が心地よさそうなのも同じで、この世界の快楽と同じように、死後もぼくたちは快楽を感じ続けられるだろう、ということが前提になっている。

死んで戻ってきた人がいないから、これが本当だとか嘘だとか言っても仕方がないし、それを証明したって何の意味もない。

問題は、天国や地獄がこの世界の延長なのであれば、「宇宙に意味がない」というのと全く同じ考え方で「天国や地獄にも意味がない」と言ってしまえることだ。

つまり、生きる場所が「地球」から「天国」に変わろうと「地獄」に変わろうと、生きること自体の無意味さに変わりはない。

たしかに、「天国に行くため」という理由で、この仮の世界での人生に意味付けをすることはできる。でも、それは無意味さをひとつ先延ばしにしただけで、「じゃあ、なんで天国に行く必要があるの?」と聞かれたらそれまでだ。

「なんで宇宙があるの?」という疑問が「なんで天国があるの?」という、本質的には同じ疑問に上書きされるだけ。

「天国に行くとずっと幸せに暮らせるんだよ」と言われたところで、「なんでずっと幸せに暮らす必要があるの?」という疑問に上書きされるだけだ。この上書きは無限に続いていって、最後は「その必要はない。意味はない」という結論に達するしかない。

「別に宗教なんて信じてない」という人もいるだろう。それでも、「夢」とか「希望」なら信じている人が多いんじゃないかと思う。

「天国」という空間が現実にあるかどうかが問題じゃない。そういう話じゃなくて、ここでいう「天国」というのは、今この瞬間には知りえないが、自分はそこに行くべきだと感じられる場所のことだ。

だからこの話は「今この瞬間=仮の世界」「希望に満ちた未来=天国」という風に置き換えられる。生きながらに到達できる天国のことを「希望」とか「夢」というのだと思う。

「今頑張っているのは、将来こういう人になるため、こういう生活をするため」と考えることで、今の生活に意味付けをしていく。これは「今まじめに生きているのは、天国に行くため」と考えるのと同じことだ。

「なんで天国に行く必要があるの?」という疑問が通るなら、「なぜ夢を叶える必要があるの?」という疑問も通るはずだ。

それが死後の世界だろうが、生前の達成だろうが、そこはあまり問題ではない。問題は結局、それが無意味さの先送りでしかないということなんだ。


神様が自己実現になったり、聖書が自己啓発本になったり、礼拝がライフハックになっても、それは無意味さを先送りするだけで、意味を創り出すわけじゃない。

希望があると救われる。

でもそれは、意味が創り出されることとは全然違う話だ。