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近況と雑感

私のような音楽家稼業(というよりアーティストさん)にとって、いわゆる会議ってさほど縁の無い存在だったりします。

勿論、ミーティングと題して音博のブッキングについて話し合ったり、その他諸々の連絡や報告の会議は行うことがあります(あと、大学では普通に教員の会議があります)。

ZOOMなんかを使ってオンラインで会議をすることも増え、意味ないなぁ、とか、ダルいなぁ、と思っていた会議の質が上がると期待していたりもしたのですが、今ひとつピンと来ないまま、2022年の春を迎えています。

「会議 進め方」などでGoogle検索してみると、「会議の効率化」という表現をよく目にします。

私なんかは基本行き当たりばったりで、思い付いたことを整理せずに話したりするので、会議の場を混乱させることもしばしばです。ビジネス用語で「ブレスト」という言葉をご存知でしょうか。アイデアをどんどん出し合って、新しい考え方や課題の解決策を出していくやり方のことですが、これは私が「理想として」思い描く会議のスタイルです。ただ、それをしようとすると、結局私しか喋ってない、ということになってしまいがちです。

多分、それは私が周囲にとって気を遣う立場だということと、私が出すアイデア自体、瞬時に周囲が理解出来るようなもの(解り易いもの)とはかけ離れた、未整理な思いつきの発言に見えるからなのかも知れません。要は伝え方が良くないのでしょう。

私たちは新作のリリースタイミングなどに雑誌やWEB媒体、TVやラジオなどマスコミのインタビューを受けることが多いのですが、そこでも「伝え方」について四苦八苦することがありました。

1990年代末期にこの仕事を始めた私たちは、音楽雑誌ロッキング・オンのインタビュー・スタイルで話すのが通常のスタイルでした。

ロッキング・オン的なスタイルというのは、新聞メディア系のいわゆる「記事」とは違うものでした。訊かれたことに対して事実を述べる、というよりは、アーティスト自身のコアなパーソナリティを引き出すようなスタイルで、時にはアーティスト自身の産みの苦しみや自己矛盾をインタビュアーが解いていくかのような、いわゆるカウンセリングに近い要素もありました。

また逆に、いわゆるファン向け会報やプロ野球のヒーローインタビューのようなものとは違って、アーティスト側に都合良く造られた理想像の提示でも、編集側の予定調和的手抜きでもありませんでした。どちらかと言うと、アーティストの根源的なパーソナリティ(時折編集側の思い込みのようなものが事実を捻じ曲げてしまうこともありますが)を炙り出すものでした。

芸術作品、特に音楽のような「曖昧に自由に受け取れるもの」について、その作品の在り方を説明することは結構難しいことです(だから、音楽評論、というジャンルが存在するんだと思います)。

この楽器はどうだとか、この調律はどうだとか、この周波数帯域がどうだとか、作り手がこだわっている部分を話しても殆どの聴き手にとってはどうでも良いことなので、あまり理解はされないどころか、興味を持ってはもらえません。インタビュアーや編集側にも、専門知識やそれに基づいた言論が必要なことだったりするので、そのような話は基本的には忌避されがちです。

私を含め、多くの音楽家たちはそんな小難しいことばかり考えながら音楽を作っているわけではありません。ざっくり説明すると、パッと桜が満開になった瞬間とか、ふとひとり夜風に吹かれたりとか、そんな感覚を音楽に変えているだけなんです。

ただ、それをどんな風に音楽の具体に変換するかというと、春っぽい陽射しを表現するためにスネアドラムの2KHzを強調してみたり、maj7や減5度の和音を使ったり制作過程においてあらゆる試行錯誤を試みます。私は普段、割とそんなことばかり考えて生きています。

インタビューの場で自分自身が思っていることを相手に、そして不特定多数に伝える、ということはとても難しいです。

逆にインタビュアーがノリノリで話してくれるように、向こうペースで話を膨らませながら進めよう、と思うこともありました。向こうは編集のプロだったりもするので、こちらが聞き手に気を配って臨んだものの方が、実際記事になった時の仕上がりが良かったりもします。

普段の会話なんかでもそうです。相手の話を聞く力、というのはやっぱりすごく大事なんだなぁと思います。私が苦手とするところだったりもします。

最近思うのですが、聞く力が無い人は、伝えることも苦手なのかも知れません。私はいつも逃げ口上のように「だから私は音楽をやってる」ということを周囲に伝えてしまいます。「音楽家なんだからそれでええやん、と言われることも多いですが、コミニュケーションはとても大切なことです。「聞く力」は「伝える力」と繋がっています。言語と感覚をリンクさせて会話をする能力、ということですね。

遠い国で起こっている(がしかし、いつ何時私たちの住む国に起こり得るかも知れないこと)戦禍の惨状に、感情が揺さぶられる方々も多いと思います。リアルな体感いうよりは、道徳的、感情的な世界として、私も実際とても憤りを感じています。

感じる力、と、伝える力、もまた、親和性をもってリンクしています。ただ、この時代、言葉の持つ力と決定力、言葉の伝える力の強さに驚くとともに、ウンザリすることも多いのです。

私は言葉にならない気持ち専門の人間なので、寧ろ擬音語や顔色、匂いなどでコミニュケーションを取りたいと未だに思っているのですが、大事なことを決めたり、私はこう思っている、あの人はこう思っているのか、ということは、明快な言葉と、理性的な意思表示に勝るものは今のところないなぁ、と思うわけです。

話は戻りますが、会議において大切なのは、言語能力か、と思ったりもするのです。無理ゲーやな。

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