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ドキュメンタリー映画の編集の在り方について

先達て、あるドキュメンタリー映画を観た。
お気に入りの十三第七芸術劇場でだ。
最近比較的ドキュメンタリー映画を観る率がなぜか高くなっている。NHKの影響もあるのだろうか。NHKがどうもドキュメンタリー推しの様な気がして見る率が高いのだ。
ともかく、ここ数年の映画のジャンル的にドキュメンタリー映画の率が増えてきている。本でもルポタージュ的な現代ものをよく読むし、年代的な影響もあるのかもしれない。

従って、ドキュメンタリー映画を観る目がやや肥えてきたきもする。自意識過剰かもしれないが。多分そうだろうが。

ドキュメンタリーだからと言って撮影したものをただ時系列にだだだだあ~と映像を流されては観る方も辛い。それなりの意図をもって、その意図を基に編集、遡って撮影をしないといけないだろう。普通の映画と同じように脚本が必要であろが、必ずしも監督の意図通りに撮影される側が行動したり、発言したりするわけではない。その時には脚本は変更されるべきであろうし、編集で監督の意図通りに組み立てるのはドキュメンタリー映画としていかがなものだろう。
一方、ドキュメンタリー映画作家は映像を淡々と映す「防犯カメラ」ではないという主張があり、観る側の解釈する力を問うという言い方は凄く酷いが「騙されるアンタも悪い的」な上から目線な作家様見解もある。

ボクが言いたいのはこうだ。
問題提起するなら、
現状を見てもらいたいなら、
いい点も悪い点(現状)も一旦平等に映像に挙げた上で映像作家さんの意図を組み立ててみればいい、と。
悪いところを一切見せないで良いところだけを見せて、賞賛だけをするドキュメンタリー映画なんて、ただの宣伝映画だ。

初めからこの映画は「宣伝映画です」って言ってくれれば見に行かなかったのに。

普通の映画も当たりはずれがあるようにドキュメンタリー映画もあるのが普通。勉強になりました。

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