見出し画像

All about quiet funk (#6)

懐古主義ではないつもりだが、古いものが好きである。

クラシックやビンテージというには微妙かもしれないが、1960年代のモノに惹かれる傾向がある。奇しくも自分が生まれ育った年代でもある。幼少期の記憶に関係しているのかもしれない。

しかし、思春期や青年期を過ごした70〜80年代のものにはあまり興味がないことが多い。車、洋服、音楽、インテリア、釣具、サーフボードに至るまで(実際に作られた時代に関わらず)、そのベースが生まれたのは60年代である。

特に意識したことはないが、僕という人間のベースが生まれたのが63年製ということだろうか。リーバイス501に1963モデルがあったら欲しいなと思ったりするのだ。

バス釣りについて語ると昔話が多くなる気がする。繰り返すが懐古主義ではないつもりである。その証拠にコンビニで新商品を見つけると必ず買ってしまう、新しモノ好きである。。(笑

昔は良かっただのと曰うつもり(バス釣りに関して)はさらさら無いが、釣り場にしても釣具にしても、ある意味エキサイティングだったように思う。あくまで個人の主観であるが。

池原ダムのバス釣りが雑誌やテレビで紹介され、琵琶湖でバスが釣れ始めた頃の話である。池原ダムと琵琶湖のフィーバーには数年から10年程の時間差があったように思う。

中学生だったか高校生だったかは忘れたが、サンテレビ(関西ローカルTV局)の釣り番組で池原ダムのバス釣りの放送を観た。立木群をダブルスイッシャーでジャボジャボ引いて沢山のバスが釣れていた。

『立木にバスが葡萄の房みたいに付いてる!』番組内でキャスターが語って、実際にその様子が映像で映された。衝撃的だった。

放送後、兄(車を持っていた)に連れていってと頼んだけれど『また今度な。。』と言われてそのままだった。当時、フライマン(トラウト系)の兄はバス釣りにはあまり興味がなかったのである。

数年後、兄を口説いて池原にバス釣りに行った際には立派なレンタルボート屋が出来ていた。フットコントローラーのエレクトリックモーターが付いた小さなバスボートを借りて釣りをした。

驚くほどの透明度と荒涼とした絶景、どこまでも続く緑色の水面。ひとたび沢(ワンド)に入ると、クネクネと曲がる湖面と立木で、ディズニーランドのジャングル・クルーズさながらである。ボートで走るだけで楽しいのだ。

テレビで観た立木群(備後谷)にも行った。ダブルスイッシャーを皮切りにペンシル、ポッパー、クランクベイトなどを投げるが一向にストライクは無い。痺れを切らした兄が、赤のジェリーワームを立木の隙間に落とし込む。途端に竿先が引き込まれた。35cm位の綺麗なバス。

ワームはそれまであまり使ったことが無く、釣れるイメージもなかった。トップウォーターの釣りが好きで朝夕はトップ、昼間はクランクやシャッド、どうしても釣りたいときはブレットンのスピナー。そんな時代だった。

兄が2匹3匹と立て続けに釣るのを横目で見ていたが、『おまえも使ってみたら』とワームの袋を遣してきた。ブレットンのスピナー(緑玉シルバーブレード)は必要ないと思っていたが、まさか初めての池原でワームをするとは・・そんな心境だった。

兄はその後も釣り続け、背に腹はかえられないとワームを借りた。池原ダムまで来てボウズで帰る訳にはいかなかったのである。期待どおりというか、期待以上にバスは釣れて短時間で7〜8匹釣ったように思う。

その後、数年の間に何度か池原に訪れたが結果はあまりパッとしない(トップで数匹)感じだった。10年ほど経ってトップオンリーになってから何度かいいバスも釣れたが、テレビで観たバス釣りには程遠いものだった。

池原より七色、釣ることに関しては、いつしかそう認識するようになった。(フロリダバスや60upなどで騒がれるずっと前の話であるが、その頃には下北山村を訪れることは少なくなった。何より人の多さが尋常でなくなったからである)

そして合川ダムや風屋ダム、七川ダムに足を伸ばし、バスの存在を確認しないで紀伊半島のリザーバーを地図を頼りに網羅した。なかには近寄ることさえ出来ない悪路のダムや、水の増減が激しいポンプ式?のダムなど、バスは居ても釣れないところも多かった。国道とは名ばかりの地道で行き止まりの道に辟易したりした。

琵琶湖の釣りは別物だと(良く釣れたが)リザーバー巡りは続き、兵庫県から紀伊半島、その後、岡山から山口へと行動範囲は広がっていった。時々、四国や北陸にも行ったりした。旅先の旅館で大阪(兵庫)からバス釣りに来たというと大抵『近くでブラックバスは釣れないの?』と驚かれた。

『立木にバスが葡萄の房みたいに付いてる』テレビで観た池原ダムの記憶はいつしか薄れていたが、95〜96年頃だろうか、岡山と広島の県境に位置するリザーバーで目にすることになる。

当時、一躍注目を浴びていたダムで、立木の数は多くはなかったが、ダムの中央部に島が幾つかあって、そこに立木群があった。30m以上の距離をとってインナーハンドを立木の隙間にキャストした1投目に派手なストライクがあったが針にのらず、2投目で立木に引っ掛けてしまった。

ジョンボートを立木に寄せてプラグを回収する際に『立木にバスが葡萄の房みたいに付いてる』を初めてみた。立木に5〜6匹いるのは見たことがあったが、50〜60匹?だろうか、大きな立木一本ごとに無数の40upのバスが付いていた。まさに葡萄の房である。

往年の池原の再来だと喜んだが、開放的でコンディションの良い状態は3年程で終わり、他のリザーバーと同じく気難しいバスを相手にするサーフェイスゲームへと趣を変えていった。その後、マナーや事故の関係でスロープが閉鎖されて足が遠のいた。

後日、ロッド&リールのロケでそのダムを訪れる際、ダム管理事務所に雑誌の取材で釣りをしても構わないかと問い合わせた。釣りをしても構わないが、雑誌にダムの名前は出さないで欲しいと言われた経緯がある。今はどうなっているか分からないが、一応名前は伏せさせていただく。

懐古主義で始まった話が、回顧録になってしまった。どちらも “カイコ” で始まるのも何かの示唆だろうか。僕にとってのバス釣りの歴史でもある。

以前、業界関係者(バス釣り)の方と釣り道具について雑談を交わした際に『歴史を感じるものが好きなんですよね。。』という彼の言葉を、いまふと思い出した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?