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「経験」しても、同じことが言える?

こんにちは。

最近、noteで記事を書いたり読んだりすることが、私にとって大きな楽しみのひとつになっています。

面白い記事がたくさんあること、私の書いた拙い文章を気に入ってくれる人がいること…

それを知ってしまったから、私はもうこの場から離れられないかもしれません。(笑)

そんな自分を鑑みてふと思ったのですが、やっぱり人って、それまで知らなかった幸せを知ってしまったら、もうそれがなかった頃の自分には戻れないものなんですかね。

たとえその幸せが、今まで嫌悪感すら抱いて、必死に避けてきたようなものであっても。

最近読み返した『レトルトパウチ!』という漫画の中に、こんな台詞が出てきます。

「個人的には"無知ゆえの強さ"みたいなの振りかざしてるようにも見えるわ
経験してからも同じコト言えてたら認めてあげるよ」

これは、風紀が乱れた学園内でなんとか貞操を守ろうとする主人公たちに、学年で一二を争うモテ女が吐き捨てた台詞です。

大勢の人たちが夢中になるような快感や幸せ。それに自分達だけは侵食されていないんだと偉そうにしているけど、私から言わせれば、あなた達はただ"知らない"だけよ、……ということです。

この台詞に私はかなりの衝撃を受けました。
なんだか、これまでの自分が論破されたような気がしたんです。

ブランド品なんかより、安くて実用性がある商品の方がずっといい。
流行りのものにすぐ乗っかるのは、ミーハーでバカっぽい感じがするから嫌。
SNSのフォロワー数にこだわる人って多いけど、自分一人で楽しめればそれで十分。

私は今まで、色んなものに対してそんな風なことを思ってきました。

世間的に価値があるとされるものから、あえて距離を置いてきたんです。

そうすることによって、「自分は他の大勢の人たちとは違う」「自分は汚れていない」「自分は特別だ」と思い込もうとしていたのかもしれません。


だけど今考えてみると、私はただ意地を張っていただけなんじゃないかと思えてきます。

だって、私が頑なに避けていたものは全て、それを享受する幸せをそれまで味わったことがないものだったから。

味わったことがないのに、どうやって好き嫌いを判断できるんでしょうか。

そんな私は、noteを始めて、誰かから「スキ」やフォローをしていただくことの喜びを知りました。

今までSNSで自己主張する人達のことを心の中で散々軽蔑していたにも関わらず、です。

それで思ったんです。
今まで私は、その喜びがどんなものなのか全く想像がつかなかったわけではなくて、無理やり気づかないようにしていたんじゃないかって。

自分がその立場に手が届かないことの僻みや、自分が他の人達と違うことを証明したいという焦りから、私は無意識のうちに安全な場所に逃げ込んでいたんじゃないか、って。

周りの世界から切り離されているために誰からも攻撃されることはなく、ひたすら自分を正当化できる、「無知」という安全な場所に。



そこでなんとか自己保存しようとしてたんですね。
無知から脱しようともせず。

自己嫌悪に陥りそうになりますが、こういう心理状態って、割りと起こりやすいような気もします。

ロクに知りもしないのに、自分よりすごい人のことを「どうせ大したことない」とつい思いたくなってしまったり、自分が選ばなかった道のことを「あっちはきっと荒地だっただろう」と自分に言い聞かせようとしたり。

勇気を出して無知から脱し、それまで知らなかった幸せを知ることで、人はどんどん変わっていきます。
その変化を楽しむのも、確かに人生の一興。

だけど、何かに嫌悪感を抱いてそれから距離を取ってしまう前に一度、「それを味わえる立場に立ったとき、私は同じことが言えるだろうか?」と、自分に問いかけてみるのもいいかもしれませんね。

そんなに無理して自分を守らなくても、個性というのは自然と生まれてくるものなんじゃないかな。

少なくとも私はそう信じたいです。

私にまだまだ絡まっている無知の鎖も、いつかほどける日がくるかな。😌

今回はここまで。
読んでくださりありがとうございました!

あ、『レトルトパウチ!』は、心理描写や台詞は秀逸なのですが、ややエロ要素があるので、苦手な方は調べない方がいいかもしれません…(笑)

ではまた次回。
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