「姉というもの」

『姉というもの』
 
 
 血縁関係としては兄なのだけれど、姉になった姉が目の前で揺れている。
 僕が昼食に作ったプレート皿に盛ったオムライスとサラダを食べ終えた姉は、無言でプレート皿を左肩に乗せた。「なにしてるの?」と尋ねると、「のるかな思って」と無表情に言った。姉は小刻みに左右に揺れ続け、プレート皿は姉のいかり肩の上で安定していた。

 それから姉は部屋に籠って、夜遅くまで漫画を描いていた。睾丸が主人公の漫画を読めと言い、原稿用紙を手渡してきた。内容は擬人化した睾丸と女がラブホテルに行くという話で読むのが辛かった。
「なあー、どない」
 感想を求められたけれど、逃げるようにトイレに駆け込んだ。姉がトイレの扉の前に居座っている気配を感じながら用を足し、トイレを出た。「まだぜんぶ読んでないから」と返答すると、膨れて口を尖らす姉。漫画に人生を捧げていくと豪語する姉だが、人生を捧げた物語の主人公が金玉だなんて、どういう了見なのだろう。なんてオリジナルな漫画なんだろうと思う反面、誰が読むのだろうとも思う。
  
 眠る前に漫画原稿を返そうと、姉の部屋をノックした。「はいれよ」と言う偉そうな態度で襟足だけ伸ばしている角刈りの姉が勉強机に座っている。背中がおっさんだ。スウェットのパンツはずり下がり、お尻が半分くらい見えている。近付くと背中からカブトムシのような匂いがした。漫画に没頭して余り風呂に入らない姉。「どんなかんじだ?」と漫画を描きながら聞いてきた。「いいとおもうけど」僕は姉の背中に言った。姉が漫画を描く手を止め、振り返って僕を見た。
「いいとおもうけどってあんた、いつもそうやん」姉が屈伸しながら言った。運動不足なので時折こうして屈伸して運動という事にしているようだ。「眠たいから横になる」と言い、大きく欠伸した姉は布団の中に潜った。蛍光灯を消してあげると、一分も経たない内に大きな鼾をかいて眠った。
 
 姉は今年で二十歳。学校には中学までしか行かなかったし、働いたこともない。僕はもうすぐ十八歳。高校を卒業したらフリーターとしてやっていくつもり。両親は交通事故で死んだ。隣町に住む祖父母の仕送りで生計を立てている。姉は漫画家になれるとは思わないから働いて欲しいけれど、幾ら姉のことでも自分以外の事を考えるのは心苦しかった。先の事を考えるのがまず嫌だった。姉は頑固だし、働かないと生きられないと示唆するといつも怒るし、手をあげられたこともある。でも、僕は姉を必要としているし、これからも一緒に暮らしていきたいと思っている。

 姉が漫画を描かなくなった。
 どういう心境の変化だろう。僕はダイニングに落ちていたスクリーントーンの滓を摘んでゴミ箱に捨てた。少し気になったので、姉の部屋をノックした。「はいれよ」と声がしたので入ると、部屋は高温の暖房がかかっていて、何故か姉はハイビスカス柄のビキニの水着姿で直立不動していた。乳房が膨らんでいるので水着が似合っていた。床一面に原稿用紙が散らばっていて、部屋は汗の匂いがした。「ど、どうしたの?」「こいした」姉が真剣な眼差しで僕を見て言った。「くつした?」と聞き返すと、姉は巨体を揺らして笑った。開いているのか閉じているのかわからないくらいの細い目を完全に閉ざして、いかり肩を上下に揺らした。そういえば珍しく先週姉が一人で出掛けた日があった。誰かと会っていたんだろうか。「こないださ、めずらしく出掛けてたじゃん?誰かと会ってたの?」姉は、はにかんで「でーと」と呟き、立て続けに「あんたにも会いたがってた」と言って、水着姿で屈伸した。「え?僕のことも話したの?」と聞くと、近付いてきて抱き締められた。姉と初めてハグをした。姉の上半身の生肌の汗が付着して、通り雨を浴びたくらいに汗で濡れた。何年ぶりかに至近距離で姉の顔を見ると、吐き気を催しそうになって噎せた。
「気持ち悪いの?」ときつく抱きしめながら聞いてくる姉の汗が気持ち悪かったから、不意に姉を突き飛ばした。姉はよろけて身体を壁にぶつけて踊り出した。
「だいえっとする」とだけ口を開いて、何を聞いても踊り続け、無視された。仔細なことは何も分からないまま姉の部屋から出て、首筋や耳に付着した姉の汗をバスタオルで拭いてからテーブルの上に置いていたアルバイト情報紙を見た。何もやりたいような仕事が無かった。
 桜の蕾がほころび始めた卒業式の日、姉が校門前で僕を待っていた。一ヶ月前より五キロ痩せて美人になったと勘違い甚だしい姉は厚化粧を施して、踝まで丈のあるトレンチコートを着ていた。「おめでど」と言われたので、ありがとうと返すと姉は不気味な笑みを零した。何が可笑しいのだろうと思っていると、何者かに背後から声を掛けられた。
「おとうとくん!」突然、話し掛けられた。振り返ると背広を着てサングラスを嵌めた中年の男が立っていた。姉が男の腕を取り「わたしのぱぴ」と僕に男を紹介した。ぱぴ?パパ?と困惑していると、男が僕に五千円札を裸で渡してきて「これでコロンを私にくださいね」と言い、男は両手でジャケットを広げ、裏地を見せつけてきた。効果音を加えたようなファサ、という重たい音がした。裏地には水着姿の姉が洞穴のような所で寛ぐ写真が何枚も貼り付けられていた。僕の知らない活き活きとした表情の姉だったが、男の胸の中で姉が飼われているかのように見えて慄いた。「これはコロンが慈眼寺に修行に行ったときのです」と男が言った。男の顔が不気味で視線を逸らした。「無料で一枚差し上げますよ」と言われ、怖くなった僕は不意に右手に持っていた紙袋を地面に落とした。姉が紙袋から飛び出た一輪のチューリップを拾って僕に手渡そうとしてきたが、手は差し出さなかった。
 僕は二人の前から立ち去りたくなったので、走り出すと姉が追いかけてきた。男の叫び声も聴こえた。迫ってきた姉が「一緒に卒業旅行いごう」と僕の腕を掴んだ。姉の力は強く、振り解け無かった。「卒業旅行ってなんだ!行きたくない!離せよ!」叫んだ僕に怯んだ姉が腕を離したので僕は闇雲に走り、姉と男から遠ざかった。少しの間追いかけてくる姉の化け物染みた顔の記憶だけ残してこの日から姉は家に帰ってこなくなった。
 
 あれから桜が二度散り、僕は働き始めた。姉が居なくなり、約一年間仕送りで生活していたが、仕送りが止まった。昨年の冬に祖父が亡くなり、祖母も入退院を繰り返している。
 姉という存在を考える余暇もなくなっていた日、姉から手紙が届いた。『徳島で男と暮らしてた、つらい、たすけて』とだけ一筆書かれていた。暮らしていた。ということは別れたのだろうか。
 一枚の便箋の裏に一枚の写真が貼ってあった。姉が吊り橋に宙吊りになっているところだった。その姿は姉でも兄でもなく『もの』のようだった。姉は昨年より肥えていて、ベージュ色の全身網タイツを着て、縄で縛られていた。まるで橋に吊るされているハムのように見えた。あの男が撮影したんだろうか。衝撃的な構図で、見たくはない筈なのに写真に目が釘付けになった。心がざわつき、姉のことが心配になった。
 時計に目を遣ると、バイトに向かわなければならない時間が迫ってきていたので、支度をして家を出た。勤務を終え、タイムカードを押して姉に会いに行くため帰宅はせず、その足で徳島に向かった。勤務中に姉から二十回近く着信があったので掛け直すと「助けて、あいたい、助けて」と切羽詰まった声で懇願された。              

 徳島駅でまちあわせた姉は酷く見窄らしかった。手紙に貼られた写真の時よりも更にぶよぶよに肥え、髪の毛は背中まで伸びて黒色の全身タイツ姿だった。体臭が酷いので、風呂屋に行こうと誘ったが、姉は「全身がタトゥー」とか細く言い、首元に手をやってタイツをずらした。『かずらばしのたま』と、横書きで彫られていた。姉は突然泣きじゃくり、抱きつこうとしてきたけれど、僕は姉の身体を交わした。「ひどい」と言って、その場に倒れた。コンクリートに俯けに倒れる姉を見た。『かずらばしのたま』とは手紙に貼られていた姿のことだろうか。
「こんなとこまで呼んでごめん。わたしは、おどごから逃げてきた。おどごはひどいやつ。でもずき。私をもの扱いしていろいろさせられた。げいじつ家とか言ってた。くやしい。わ、わだしの作品集を徳島で作っていろんな所に連れてかれた。お前は名産品になれ。と何度も何度も言われた。わけわかんないよ。ひ、ひぃ〜でもずきなの」と号泣し始めた。僕は丸まった姉の背中を摩った。姉の背中は温かくて柔らかかったので、思い切り背中を摘んでみた。姉は無反応で泣き続けている。皮と脂肪を自由に捏ね回しながら、泣く姉の傍で含み笑いをした。姉は泣き止みそうにもないので、慰めてあげたくて肩に腕を回そうとすると、何者かの足先がぬすっと僕の前に現れた。顔を上げると、卒業式の日に一目見た姉の男だった。「おまえの姉は俺から逃げられない。GPS搭載肉饅頭だ」と不気味な顔で言い、顔を寄せてきた。
 姉を助けにきた筈の僕は怖くなって卒業式の日と同じようにその場から立ち去り、姉を置いてきぼりにしてしまった。男は追いかけて来なかったので、遠ざかった物陰から二人を窺った。男が姉の前髪を掴みながら叫んだ。
「お前は今日セメントになるんだろうがあーー!」
え、コンクリート詰め?男が姉を折檻でもし出すのかと心配していると、姉は躊躇わず大きな声で「はい!」と返事し、体臭の酷い姉と男は抱き合い、お互いのおでこを擦り合わせて目を見つめ合った。それから濃い接吻をし始めた。            
 僕は溜息が漏れ、「好きにしてくれ」と呟いた。      

 霧雨が薄く煙る夜の駅前をあてもなく歩いた。まだ徳島に来て一時間程しか経っていない。このまま日帰りしてもよかったが、どこかに一泊しようと素泊まりのホテルに泊まった。早朝くに姉からまた電話があり、まだ徳島にいるなら会ってほしいとせがまれた。
「また男が追いかけてくるんじゃないの?」
「心配すんな、いなくなったよ、もう」と言って電話越しに姉が笑った。
「どうして?」と聞いても教えてくれなかった。
 
 姉は遠くから手を振り、水玉のワンピース姿で駆け寄ってきた。昨日とは違う獣のような臭いが流れ込んできたけれど、清々しい表情で僕の名を呼んだ。
「あすたむランドでネモフィラ見たい」そう言って一人で歩き出す姉の背を追った。バスの中で姉は一言も話さず、口を開けてひたすらぼうっとしていた。
 あすたむらんどに着き、風車の丘まで向かっていると小雨が降ってきた。
「ついてないね、雨宿りしようよ」姉に声を掛けたが、姉は「しない」と呟き、小走りして風車の前まで行き、雨雲を見上げて雨を顔面で受けた。「恵みの雨!」と僕に向けて声を発し、ワンピースを脱ぎ捨て、赤いボクサーブリーフ一枚姿になった。姉は股間をパツパツに膨らませて、遠い目をして東屋に居る僕を見つめてきた。
 姉がちょこんと赤ん坊のように地面に尻餅を搗くと、雨脚がいっそう強くなり始めた。僕の横で一緒に姉を傍観している初老の男性が姉に向かって「風邪ひくえ」と言った。僕は「あれ、姉なんですよ」と姉の居る方向を指差した。男は黙って頷いて、傘を差して立ち去った。
 姉は何を思ったのか地面に寝転び始め、泥塗れになっていった。横たわる姉はもう見飽きていたけれど、雨曝しの姉とネモフィラとの対比が艶めかしく成立し、姉というものを初めて美しいとさえ思った。
 暫く眺めていると、姉が僕に向かって猛突進してきた。
「今日だけは、今日だけは、あんたといたい。私と居て?お願い、今日は遊んで?」とぐちゃぐちゃな顔で訴えてきて、僕の腕を掴んだ。「な、なに?ちょっと!ちょっと!」掴まれた腕を振り解くふりをした。先程まで姉が横たわっていた風車の前まで連れて行かれ、まるで姉の舞台に立たされたような気持ちにさせられた。姉はすぐさまのしかかってきて、僕はそれを受け止めてあげた。

                   〈了〉

百円ください。お願いします。