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乙武洋匡さんと中学生が考えた。「心をひとつに」ってありえるの?【 itami lab後編】

身近な感覚なのに、実はあまり向き合ったことがない「いたみ」。その奥深さを研究する「itami lab*」(いたみラボ)の活動に、中学生が研究員として参加しました。所長は、作家の乙武洋匡さん。

そもそもどんな「いたみ」があったっけ。他の人はどんな「いたみ」を感じているんだろう。自分が考えたことのない「いたみ」を感じる人もいるんだ……様々な「いたみ」を探索するなかで、自分と他者の「違い」というテーマも見えてきました。

研究活動の締めくくりとなる交流会で、研究員と乙武さんが一緒に考えました。その対話の様子を前後編に分けてお伝えします。

今回は後編です。


*itami labは「いたみ」を手がかりに、多様性について学ぶ探求型のプログラムです。自分やクラスメイトが思う「いたみ」について、対話したり考えたりしながら「多様性」や「人と人の違い」を体験的に学び、自分事化していきます。日本財団が推進する「True Colors 探求学習プロジェクト」 の一環で、教育と探求社がカリキュラム開発に協力し、2021年度に静岡と広島両県の4中学校で実験授業が行われました。この記事では、itami lab の締めくくりとして開催されたオンラインの交流会(2022年3月3日)での、生徒と乙武さんとの対話の様子をまとめています。

意見の異なる人と、どう付きあう?

浜松市立可美中学校の研究員は、itami labの研究で、見えない「いたみ」の存在を初めて考えたそうです。見えない「いたみ」を気遣うことができるようになれば、他人に「いたみ」を与えることも減るだろうと、研究員。ただ、全員が同じ思いにまとまるのは簡単ではないとも感じています。そこで「自分と意見の違う人とうまく付き合うためにはどんなことが大切だと思いますか」と乙武所長に聞きました。

乙武所長:ありがとうございます。本当に、難しいよね。もちろん自分と意見が同じ人とばかり一緒にいたほうがラクだし、楽しいし、ケンカにもなりづらいし、そのほうがいいなとは思うんだけど、世の中ってそううまいこといかなくて。

「クラスにだって、当然考えが合わない人、自分とは思っていることが違う人もいっぱいいる」。そう語った乙武さんは、かつて小学校の教員をしていたころの話もしてくれました。2007年〜2010年、3、4年生を担任していたそうです。

乙武所長:小学校の時って、だいたい先生が「みんな仲良くしろ」と言うでしょ?でも、僕は担任のクラスの子に「先生は《みんな仲良く》とは言いません」と言っていました。学校の先生としてこう言うことが「正解」だったのかは分からないけど、僕はそう思っているんです。

なんでかと言うと、たまたま偶然い合わせたなかで、合わない人とも仲良くするって難しいと思うから。でも、仲良くしないことと、相手を批判したりすること、仲悪くすることは違うと思っていて。「そんなに仲良くする必要はないけど、ほどほどの距離感でいいんじゃない?」と思っていました。
今の話、どう思った? 

研究員:今まで「仲良くしよう」とは言われてきたんですけど……。

乙武所長:この話、さっき話した「共感はしなくても、理解はしてほしい」にも通ずるのかなと思っているのね。「理解」と「共感」という言葉が結構違うのは、何となくみんなイメージできるかな?

「理解」は、相手と同じ気持ちにならなくてもいいけど「なるほど、相手はそう考えているんだ」と知って認めてあげること。「共感」は、相手と同じ気持ちになろうとすること。この二つ、僕は結構違うと思うのね。

例えば、さっき話した、一段の段差のせいで僕が店に入れなくてすごく悔しいという話でいうと、自分で歩ける人が「そうだよね、本当にこの一段があることって悔しいよね、傷付くよね、お店に入れないなんてとんでもないよね」と思うことって、むしろ難しいと思うの。

でも「確かに車椅子に乗って、長い距離を自分で歩けない人にとっては、店の入り口に段差があって入れないって、確かにそれは悔しいかもしれないな」とは思える。それが「理解」と「共感」の違いだと思うんですよね。

「みんな仲良くしろ」というのは「みんなに共感しよう」と言っている気がするんです。「意見の違う人とも仲良くしよう」「意見が違う人にも共感できるようになろう」まで求めるのは、僕にはしんどいし、難しいし、自分にはできないなと思っていて。

でも「なるほど、僕とは意見が違うね。自分はこう考えているけどあなたはそう考えているのね」というぐらいなら可能になってくるのかなという気がします。

これはあくまで私の考えなので、「絶対」ではありません。担任の先生も含めて、みんなでこのことを話し合ってみるといいのかなと思います。

「心をひとつに」なんて、そもそもありえる?

次は広島県福山市立城東中学校の研究員二人が、巷でよく聞く言葉への疑問を乙武さんに投げかけました。「学校の行事でよく《心をひとつに》と言われることが多いんですが、そもそも《心をひとつ》にしたほうがいいのか。また、心はひとつになるものなのでしょうか?」「心ではなく、志や方向性を揃えていくことが必要な場面があるとは思うのですが。日本の社会や学校では、それが混ざってしまっている感じがあります。心は自由で、志をひとつにしていくには、何が大切だと思いますか」

乙武所長:二人ともありがとう。めちゃくちゃ面白いし、まさにさっき「理解と共感って違うよね」と言ったけど、お二人の話にめちゃくちゃ共感します。

東日本大震災があったのは知っているよね? 日本全体が大きな被害を受けて、みんなが心を痛めて、原発事故も起きて、多くの人が家族や家を失って大変な思いをしました。

その時に語られていた言葉が、まさに《心をひとつに》だったの。なんか、きれいに聞こえるじゃない?《心をひとつに》って。

でも僕は、この言葉に結構違和感があったんですよ。二人が今言ってくれたように「心をひとつにできる? する必要がある?」と思っていて。
例えば、もし津波で君の家が流されちゃった時、元あった場所に家を建て直したい?それともちょっと高台の安全な場所に家を建てたい? どっちを選ぶ?

研究員:確かに家はそこにあったから名残り惜しい気持ちはあるけど、もう家を流されたくないから、自分だったらもうちょっと高いほうに建てると思います。

乙武所長:なるほどね。いま「確かに家はそこにあったから、名残り惜しい気持ちもあるけど」と言ってくれたように、たぶん元の場所に家を建てることを選ぶ人もいる――と考えただけでも「いや、これ、《心をひとつに》にならないよね」と思うわけ。だって、どっちが正解で、どっちが間違いでもないじゃない?

愛着のある家が流されてしまいました。もう一回家を建てなきゃいけない。どっちに建てるか、という時に「自分の想い入れのある同じ場所に建てたい」と思う人も正解だし「また津波に流されたらたまったものじゃないから高台に建てるよ」と思うのも正解だし。

どっちも正しいから統一するのは難しいよね、という意味で、僕は《心をひとつに》って、すごい難しいことを言っているなと思ったの。(もう一人の研究員の質問に)「志」という言葉が適切かどうか分からないけれども、「方向性」を揃えていくことは大事だと思うし、そのためには何が必要だと思いますか、と言ってくれたんですよね。

ちなみに、みんなの話し合いの中で、そのために必要だなと思うこと、こうやったらいいんじゃないかと思う意見って、何か出た?

研究員:最初に提示されていた「自分の意見も他人の意見も否定せず、とりあえず意見をどんどん出してみる」ということが、何をしていくにしても大事だなと思う点だ、と。

乙武所長:本当におっしゃるとおりだなと僕も思います。さっき言ったように、意見がぶつかることを恐れて意見を言わなくなること。これが一番怖いなと思うんだよね。

本来意見が違うのに、その意見を言わなくなるとどうなるか。僕らって弱いので陰で「あの人たちさ、ああ考えているけど意味分かんないよね」なんてグチグチ言い出す。これが一番最悪のパターンだなと思っていて。

意見が違うなら違うでいいから、ちゃんとテーブルの上に出して「私はこう考えている、なぜなら、これこれこうだからだ」と言う。相手が「いやいや、でもこう思っている、理由はこうだからだ」と言う。出た意見にはそれぞれメリットやデメリットがある。

だから、この質問に答えるならば、とにかく衝突を恐れずに、それぞれの意見をまずは出し合うこと。それぞれの意見のいいところと良くないところを、みんなで多角的に考えて落としどころを探していくこと。これがすごく大事になってくるのかなと思います。

「好き」と「嫌い」の間にいる人とどう接する?

広島県福山市立城東中学校の研究員二人からは、こんな質問がありました。
意見が違う人、合わない人は嫌いと感じ、意見が同じ人、一緒にいて過ごしやすい人は好き、と自然に感じていると思います。そういう極端ではない存在、好きや嫌いの間の人たちは、乙武さんにとってはどんな存在ですか? どんなことを意識して、その人たちに接していますか? 『みんな違う』を受け入れるには『強く意識しない存在の人たち』への思いも、はっきりさせる必要があると思います。

乙武所長:ありがとうございます。ちょっと自分勝手な意見かもしれないけど、平均寿命で考えても80年以上の長い人生、できたら楽しく生きたいし、楽しく生きていくには、今二人が言ってくれたように、自分と意見が違う人に囲まれて生きていくよりは、意見が似ている人に囲まれて生きていったほうがラクだし、たぶん楽しいよね。

そう考えると、今言ってくれた「全く考えが違うなと思う人」と「この人たちは考えが似ているなと思う人」の間に、多くの人がいる。その人たちとも意見が似てきたほうが、たぶん居心地が良くなってくると思うんだよね。そうなるには二通りの方法があると思ってます。

まず、その人が何を考えているのか、どういう考えなのかを知って、自分がそこに近づいていこうとすること。もうひとつは、自分自身の考えを知ってもらって、自分の考えに近づいてもらうこと。

この二つを繰り返していくことで、今までよく分からなかった「間の人」の考えを知って「そういう考えなら、自分も似たような考えになれるかもしれない」と思って近づいたり。逆に「自分はこういう考えなので、理解してもらえませんか?」と言って味方になってもらったり。そうすれば「友だち」と呼べる人も増えていくし、自分自身も心地よく生きていけるし、「真ん中」の人といい関係を築けるんじゃないのかなと思っています。

それができてくると、もしかしたら「意見が違うと思っていた人たち」にも、「この人とこの点で意見は違うけど、こっちの事柄は意外と意見があうな、この意見が違うことさえ目をつぶれば、楽しく話せるな。だからそんなに嫌う必要はないのかもしれない」という話題が見つかるかもしれない。そんな風に、うまくやっていける人が徐々に増えていくのかもしれないな、なんて思っています。

誰かに理解してもらいたい「いたみ」

お別れの時間が来ました。研究員との対話を、乙武さんは「ちょっとびっくりした」と振り返ります。

乙武所長:皆さん、ありがとうございました。短い時間でしたが、いろんなやり取りができて、僕自身はすごく楽しかったです。同時にちょっとびっくりしました。

正直、itami labの研究って、難しいと言うか複雑と言うか、本当にやりたいと思って取り組んでくれないと、目的に達することがすごく難しいプログラムだったと思うんです。

でも、こうして皆さんとお話をさせていただいて、僕らのねらいにちゃんと気づいてくれたり、僕らが想定していた以上の学びを得ていたり、疑問を感じてくれたり、広げてくれたんだなと、すごく驚いています。

なぜそこまでできたかと言うと、たぶんみんなが真剣に取り組んでくれたからだと思うんだよね。「なんで真剣に取り組んでくれたんだろう?」と考えると、たぶんみんなにも、それぞれ、本当なら誰かに気付いてもらいたい「いたみ」があるからかな、と思ったんだよね。

itami labを始めるまでは、自分の心に「いたみ」があっても、それをどう処理していいのか、どうやったらそれが解決するのか、皆さんの年齢だと、まだあまりいい考えって浮かばなかったと思います。

いざ始めてみたら「なるほど、そういうことか。他人を理解することも大事だけど、そもそもこの自分の抱えている『いたみ』を誰かに理解してもらえるチャンスかもしれない」と思った人も多かったんじゃないのかな。

それぐらい、みんな何かしら心に「いたみ」を抱えているし、「『いたみ』を一緒に抱えてくれる人、『いたみ』に気付いてくれたり理解してくれたりする人が出てきたら、心の荷物がちょっと軽くなるんじゃないのかな」と感じてくれた人が、僕が思っている以上に多かったからこそ、真剣に取り組んでくれたんじゃないか。真剣に取り組んでくれたからこそ、今日やり取りさせてもらったような深い質問がいっぱい出てきたのかな、と感じました。

僕にとっても、素敵な時間になりました。皆さんといろいろやり取りができて、itami labを立ち上げてよかったと思いました。皆さんにも「やってよかった」と思ってもらうには、今回学んだことを生かして、他の人に対して「この人、言っていることがよく分からないからいいや」じゃなくて「何がこの人の『いたみ』なんだろう、何がこの人を苦しめているんだろう、その『いたみ』を解消してあげるのに、何か自分にできることはあるのかな」と考える癖を付けてもらえたら、所長として非常に嬉しく思います。

またどこかでお会いしましょう。今日はありがとうございました。

【参考】
教育と探究社の探究学習プログラムの詳細
探究学習はじめの一歩!【実例】探究学習のテーマ16種
「探究学習」の最先端 教育と探求社の総合パンフレット
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