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現代音楽が平和をもたらすという説

*ある人とクラシック音楽のコンサートに行ったことがある。よくあるパターンで1曲目は短めの序曲。2曲目は協奏曲。3曲目は交響曲という構成だったが2曲目はプロコフィエフのピアノ協奏曲3番だった。20世紀の音楽をコンサートでやるのは比較的珍しい。同行者の感想は、ソリストは大変熱演で感心したが現代音楽はどうしてこんなに変なんだろう?雑音の中にメロディが途切れ途切れに聞こえる、どうしてメロディがもっと続かないんだろう、というものだった。

今は21世紀であるが20世紀の音楽は今だに理解しにくいと感じる人が多い。日本に限らずクラシック音楽のファンで現代音楽は聞かないという人は多い。コンサートではチャイコフスキー、ドヴォルザークあたりが最も頻繁でそれにベートーヴェン、ラフマニノフ、シベリウス、シューマン、そしてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲あたりが題目の主要なものだ。

私はといえば、昔から繰り返し聞いてきたせいでプロコフィエフやショスタコーヴィチは、昔は違和感があったが今はロマン派と地続きのような気がする。ハチャトゥリアンやブリテンなんてロマン派に分類されないのが不思議なぐらいである。私が普通に「すばらしい」と思って聴くものだが多くの人は気持ち悪がり、どうしてこんなものがいいのか理解できない。

音楽の好みでこういうことがあるので、他の分野、人生観とか美的感覚でもお互いに理解できないということは多いだろう。最近ではLGBTQに積極的に理解を示す動きがある。私はこの方面のことは感覚的にまったく理解できないが、しかし自分がまったく理解できないものでも他人がそれがいいというのであれば許容すべきだという考えはいいことだと思う。人が、感覚的に理解できないものでもそれを賞美する人がいるのだという配慮は、たぶん世界から争いの種をかなり減らすと思う。地味で微妙でそれほど重要でないことに思えて実は社会のあり方を根底からひっくり返すようなことかもしれないと私は思う。

アフガニスタンだったかバングラデシュだったか忘れたが、自分の親族にLGBTQの人がいた場合、家族の名誉を守るために殺してしまうことがあり、それはかの国では犯罪にあたるが、裁判になると情状酌量がかなりの程度あるという。

チェチェン共和国という国、首長がプーチン大統領に忠誠を誓っているロシアべったりの国があるが、たしか去年ぐらいに、国内で発売される音楽のテンポは速すぎても遅すぎてもいけない、と具体的に数字を示して法的規制をした。この国の伝統的な民族音楽の精神を守るためという。

昔はキリスト教も、地動説を唱えるだけで犯罪とみなした例もある。こういうところでは宗教戦争なるものが起こるし、戦争が起こらなくても違う価値観を唱える人たちにリンチを加えたりする。アメリカの南北戦争の頃にKKKという秘密組織が出てきて、彼らは黒人をリンチして殺したことで有名だが白人でもカトリックだと殺したという。

でもLGBTQを理解できなくても容認していこうという社会は、少なくとも「自分たちと価値観や感じ方が違う」ということを理由に戦争を仕掛けたりしないだろう。

クラシック音楽でロマン派の後に「現代音楽」なる動きが出てきたのも、同じ価値観の中にとどまることが不健全であるという感覚があるような気がする。そういう音楽が出てきた頃というのは西洋とかが外部の価値観に触れ始めた頃だと思う。たとえば米国に奴隷として連れて来られた黒人が西洋の楽器で自分たちの音楽を奏でたことからブルーズが起こり、それがR&BやR&Rやジャズになっていき、それがクラシック音楽にもポップスにも、数十年をかけて影響を与え変質もさせた。

21世紀の今でもクラシック音楽のコンサートの演目が19世紀の音楽だということは現代社会の難しさを示していると思う。一方で現代音楽面白いという人がいて、他方で現代音楽はまったく理解できないという人がそれ以上の数いる。昔はヴェルディのオペラの初演の翌日には街でそのメロディを鼻歌で歌う人がいたというけど、今は現代音楽の初演って一般人から乖離して普通の人には理解できないものってなってる。それでも「世の中ってこんなわけのわからないものと共存していかなくてはいけないのか」って思われるだけでも意味あることだと思う。
(追記)以上を最後まで書いてこの説の説得力に欠ける点に気づいた。現代音楽の例として上でプロコフィエフとショスタコーヴィッチを挙げたが両方ともロシア(当時はソ連)の作曲家である。現代音楽が平和をもたらすならなぜロシアは今率先して世界秩序を壊してるのか?それにソ連だって全然平和というイメージがない。プラハで民主化の運動が起こった時には軍事力で潰しにかかったりとむしろ好戦的だ。
それに対しては、プロコフィエフは社会主義ソ連を嫌って亡命したし、ショスタコーヴィッチが亡命しなかったのは彼が故郷レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)からほぼ一歩も出たことがなくこの古都との離れがたい絆のせいで彼自身は社会主義に抑圧され鬱屈とした思いを抱え続けてきたことが死後明らかになったということがあるのでかの国の体制とは相性が悪かったので、彼らが自身が社会主義ソ連以降の体制を作ったわけではなくむしろその中で抑圧された人たちだったこと。それと新しい価値観が外から来たほうが「平和をもたらす」という効用があるかもしれない。たとえばストラヴィンスキー「春の祭典」は当時非常に前衛的だったけれど、彼はエストニアにルーツを持つ家系だったがエストニア系の人にとってはストラヴィンスキーの音楽はどこか懐かしい響きがあるという。彼の音楽の変さ、「こんな音楽と共存しなくてはいけないのか」という思いはエストニア人にはあまり起こらないけれど我々日本人には違和感ありまくりである。
でもロシアにしてもアメリカにしても、新しい20世紀音楽を生み出したけど両者とも帝国主義的戦争を20世紀にずいぶんやったではないか、ということがある。「あいつらキモい」という情緒的な動機で戦争はしないけれど、もっと大規模なイデオロギー色の濃い戦争については現代音楽のご利益は限られるかもしれない。でもせっかく書いたからこの文章はこのまま残そう。
(追記2)再び追記するが、上の文章を書き始めて途中から少し論点がズレてしまった。当初は「我々はお互いに好みを理解できない社会に住んでいる」ということを書くつもりだった。つまり国際社会の戦争のことではなくて国内の普段の生活の中で好みの行き違いが、理解不能なほどありえる、ということを書くつもりだった。たとえば結婚なんて望んでいないのに周囲の人からやたら結婚をすすめられる、みたいな。周囲は、結婚することが当たり前だし幸せだと思っても、それを人生の墓場だと思う人もいるし。そんなことを書こうと思って書いているうちにそれを忘れてしまっていたので追記しておく。
私の大学時代のことだが、これからある女の子と会う約束をしていた時、大学の敷地内でクワガタを見つけた。これは持っていったら大喜びすると思った。小さい箱に仕舞って「プレゼント」って渡す。俺ってセンスいい、おしゃれだ、都会的ですらある、と思った。実際渡したら「わ!」と声をあげて箱ごと放り出した。相手はいちおう「ありがとう」と言ったが、それはゴキブリを渡された時の反応だった。「そうか女の子はクワガタ嫌いなんだ」というのをその時初めて学んだ。世の中ってそういう学ぶべきことが多いと思う。私の高校はいちおう共学だったがなんだか男子校のノリがあって、女子の数も少なかったし、男女が口をきくという習慣がなかったので高校時代に女の子の感覚に触れるという機会が乏しかった。世の進学校には男子校が多いけれど、彼らは勉強は学ぶだろうが女性の感覚を学ぶ機会が少ないから、世に出て職場の女性に触れた時、私が女の子にクワガタをプレゼントしたようなことをする機会が多いのではないかと思う。それにひとひねり加えればセクハラ問題に容易に発展すると思う。悪意なんか全然なくっても。
動物園の猛獣が飼育係にじゃれるつもりで大怪我を負わせるということがある。飼い猫が、飼い主を喜ばせようとして小動物の死骸をくわえて持ってきてプレゼントしようとすることがあるという。それと同じことが人間同士でも起こる。一緒に住んでいる人がクラシック音楽が好きでチャイコフスキーばかりかけてたら私は鬱病になるだろう。でも私の好みのショスタコーヴィッチばかりかけてたら相手がノイローゼになるかもしれない。
この文章は本当はこんなことを書きたかったのだと思う。

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