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高久和男と昌宅由美子の「シルバーではなく、輝き続けるゴールド人財への道」

第1回:高久和男の波乱万丈人生プロローグ

「輝き続けるゴールド人財への道!」
と題して、入社以来同じ会社一筋で働き、定年退職後は継続再雇用を続けながら、セカンドキャリアとしても働いている昌宅由美子(18歳で生命保険会社入社、一般職⇒総合職、人事異動10回、部長職を56歳で役職定年、60歳定年を昨年経て、継続雇用2年目。現在61歳 家族構成は夫と大学2年の娘)と、高久和男(情報システム会社に22歳で入社。数々の大型プロジェクトに参画した後、57歳で人事部に異動。今年定年退職を迎え継続再雇用で勤続中。妻と娘2人(ともに社会人)の4人暮らし)の二人が、人生の先輩として、私たちの経験からの気づきを、対談形式でお届けします。まずは私たちの人生の最大のトピック、今回は高久和男のがん闘病についてです。

由美子:今日は高久さんの人生の最大の谷、転機についてお伺いします。高久さんは、がんサバイバーではなくがんファイターとご自分でおっしゃっていますがもう少し詳しくお聞きしてもいいですか?

和 男:最初に悪性リンパ腫と診断されたのが42歳の時でした。朝起きるときにお腹を触ったら腸が腫れてる感じがしたんですよね。日中お腹を触っても何ともなっていない。でも翌朝触るとまた腫れている。それで思い切って病院に行ってみました。医師からは生検して組織の一部を検査してみないとわからないと言われて、1週間検査入院しました。その結果が悪性リンパ腫でした。
痛みがあるとか発熱が続くとか自覚症状が全くなかったので、「何かの間違えだろう?」、「放って置いたら治るんじゃないか?」とか、いろいろ考えましたね。それで「治療しなかったらどうなりますか?」って聞いてみたんです。
はっきりと「治療しなければ、死にます。」と言われました。不安で何日も眠れませんでした。やはりガン宣告って言うのはずっしりと堪えます。42歳って働き盛りじゃないですか。上司にがん治療で入院が必要だと報告に行ったときは結構勇気がいりました。今抱えている仕事はどうしようかとか、治療が終わって戻れる職場があるんだろうかとか・・・。でも、子どもがまだ小学6年と3年生だったし、まだ死ぬ訳にはいかないなぁと思って入院治療を決断しました。

由美子:働き盛りの時期のがん宣告は、ご自分のことだけでなく、仕事やご家族のこともあり、治療を決断された・・・・ そして、無事治療を終えて職場復帰されたんですね

和 男:退院してすぐ職場復帰しました。有給休暇は全部使い切ってましたからね。しかし、3か月に渡るベッド生活で筋力は衰えているし、抗がん剤の副作用で手先はしびれてるし、髪の毛はまだ十分に生えていないし、と最初はモチベーション最低でした。それでも体力が回復してくると、だんだん今までと同じくらいに夜遅くまで働く生活に戻っていきました。 毎日22時が仕事終わりの定時でした。家に帰ってお風呂に入り、ごはんを食べながら晩酌をして、寝床につくまでわずか1時間という日々が長く続いていました。
定期的に病院で血液検査は行っていましたが、特に問題もなく12年が過ぎました。それが55歳の8月に受診した人間ドックで引っ掛かり、精密検査の結果、再発だと診断されました。

由美子:再発・・・ですか。そのときの気持ちはどうでしたか

和 男:そうですね。12年間何の問題もなく仕事もして、お酒も飲んで、旅行もして、と普通の暮らしをしていたので、「再発?? また入院? 勘弁してくれよ!」って感じです。先生からは早めの入院を勧められていたんですが、ちょうど9月末納品のプロジェクトのリーダーをやっていたので、10月まで入院は待ってくれと先生にお願いして、通院で抗がん剤の点滴をしながら仕事していたんですが、血液検査の値が通常の3倍になってしまい、ドクターストップです。すぐに入院しなさいと。プロジェクトリーダーの責任を全うしないままの入院になってしまいました。
何とかごまかしながらも、プロジェクトが終わるまで持ちこたえてくれ!って言う気持ちでした。誰でもやりかけの仕事は最後までやり遂げたいですよね。本当に残念な気持ちでした。しかも、翌年の業績評価では給与テーブルが1ランク落とされてしまいました。プロジェクトは赤字にならずに終わったんですけどね。病気が原因としか思えないです。病気になると評価も落とされるんだぁって、もうしらけた気分ですよね。

由美子: 治療方法は以前と同じだったんですか

和 男:前回の治療方法では再発してしまったので、違う治療方針になりました。「大量化学療法併用自己末梢血造血幹細胞移植」っていうやつだったんですけど、強い抗がん剤治療を行うと、多くの悪性細胞が死滅しますけど、正常の造血幹細胞、…造血幹細胞っていうのは白血球・赤血球・血小板などのことなんですけどね、これも死んでしまい自力では回復できなくなくなっちゃうんです。そこで、あらかじめ自分の細胞を採取し凍結保存しておいて、大量化学療法の後に輸血のように体内に入れ、骨髄の機能を元に戻す治療法なんです。移植と言っても心臓移植とか肝臓移植みたいにお腹を切るようなものじゃないんです。
抗がん剤によって白血球の値がほぼゼロになっちゃうんですよ。この治療中は無菌室に入るので売店とかにも行けなくてね。4人部屋でしたけど面会できるのは家族だけに限定されてました。食事もすべてラップで一回チンされて出て来るんです。箸やスプーンも全部熱湯消毒の上ラップで包まれていました。これが生着と言って白血球の値が上がってくるまで続きました。でも、副作用の影響で1日中二日酔いみたいな感じで食事が取れず、10Kg近く痩せてしまいました。それと、入院前はあの勉強をしようとか、あの本を読もうとか思って病院に持って行くんですけど、ダメですね。全然その気にならない。やっぱり自己啓発は仕事で忙しい時間を縫って勉強しないと進まないです。時間があるからやろうと思ってもできるものじゃないと痛感しました。

由美子:そのあと、また再発されたのですね。

和 男:最初の発病から再発まで12年あいだがあったので、今回の治療も願わくは一生、再発するにしても10年以上は大丈夫だろうと思っていたのですが、たった4年で再発してしまいました。この時も結構仕事が忙しくて半年以上通院で抗がん剤治療を続けていました。治療後は腫瘍が小さくなるんですけど、何か月か経つとまた大きくなり、抗がん剤の種類を変えてみるとまた小さくなる。だけれどまた、数か月後には大きくなる。この繰り返しだったので、医師からはもう入院治療が必要だと告げられました。今度は抗がん剤治療と、ドナーから末梢血をもらう移植をしましょう、と言われました。自分のは一生に1回しかできないそうです。「ドナー?」、「骨髄バンク?」。自分には縁のないと思っていた言葉を聞いてびっくりしてしまいました。骨髄バンクを通じて末梢血をもらうには、移植コーディネーターがいる病院でなければ治療できないということで、がんの専門病院に転院して治療し、今年の5月に退院してきたばかりです。今も体力の低下と副作用が続いています。でも、4月に定年になり、雇用延長とともに、縁あってQUEの所属講師になりました。このメルマガの編集長にもなり、やりたいことが沢山あって、未来に向かって道がどんどん開けている感じがします。また、会社には退院後すぐに在宅勤務で復帰しました。医師からは職場復帰まで最低半年はかかると言われていたのですが、コロナを味方に付けました。

由美子:がんと3回も闘ってきて今どんな気持ちですか?

和 男:まぁ、自分ががんを患うなんてことは考えてませんでしたから、がんの告知は信じられない思いですね。「このまま死んでしまうのか」「残された家族は大丈夫だろうか」とか、いろいろな思いが駆け巡ります。しかし、3回がんに掛かって3回復活してくると、もう何か生かされている気になりますよね。「まだ精進が足りない!」と言われているような感じです。がんは私の人生の一部です。がんと闘い、乗り越えて現役でイキイキと働き続けている私の人生をお見せすることで、少しでもモチベーションアップしてくれる人がいれば良いと思っています。


次回の由美子と和男の共同コラムは、「プロローグ その2(私の人生こんなんです・由美子編)」をお届けします。


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