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ブラックホール時空がもつ熱的なエントロピー

古典的な一般相対論の記述では、ブラックホールは時空に開いた黒い穴であり、吸い込まれた物体は二度と外には出られません。ところが場の量子論を考えると、ホーキング博士が指摘したようにブラックホールは全くの黒色ではなくなり、様々な波長の光などから作られる熱輻射を出すと考えられています。この熱輻射はホーキング輻射と現在では呼ばれています。

スティーブン・ホーキング(1942-2018)

熱した鉄から出てくる光の温度を測ると、その鉄そのものの温度が分かるように、ホーキング輻射の温度はブラックホールの温度に等しいと考えられます。(ただし輻射を出すブラックホールの一部分の温度であって、全体の温度であるとは限りません。この可能性については機会を改めてnoteに書こうと思います。)

するとブラックホールは温度を持たない時空としてではなく、温度やエントロピーなどの熱力学的性質を持ったモノとして理解されることになります。物質の容物として理解されていた時空も、物質のように温度やエントロピーを持てるのだという考え方を、ホーキング博士の理論は示唆していたのです。これは全く新しい時間や空間の捉え方を理論物理学にもたらしました。

そこでホーキング輻射の温度をブラックホールの温度としてみます。そしてブラックホールの質量Mに光速度の2乗をかけて、それをブラックホールのエネルギーとします。するとブラックホールはその地平面の面積に比例をする、以下の熱力学的なエントロピーをもつことが結論づけられます。(以下ではプランク定数ℏ、光速度c、ボルツマン定数を1とする自然単位系で書きます。)

(1)式:ベッケンシュタイン=ホーキングエントロピー

ここでGは重力定数です。このエントロピーは2人の物理学者の名前に因んで「ベッケンシュタイン=ホーキング エントロピー」と現在呼ばれています。一人はもちろんホーキング博士ですが、もう一人はヤコブ・ベッケンシュタインさんです。

ヤコブ・ベッケンシュタイン(1947-2015)

このエントロピーを提案した頃のベッケンシュタインさんは、ブラックホールという名の命名でも有名なジョン・ウィーラーの大学院生でした。当時のベッケンシュタインさんは有名な思考実験を提案します。ブラックホールに熱いコーヒーの入ったカップを放り込むと、それが持っていた熱力学的なエントロピーは宇宙から消え去るのか?という思考実験です。時空が熱的な性質をもつとはまだ考えられていなかった当時に、エントロピーが減少しないことを意味する熱力学第2法則を尊重するとブラックホールはその面積に比例をした熱力学的エントロピーを持つはずだと、革新的な仮説を論じたのです。

まだ大学院生だったベッケンシュタインさんのこのアイデアを強く批判したのは、他でもなくホーキング博士自身でした。ベッケンシュタインさんは、ブラックホールの面積は決して減少しないというホーキング博士の最新の研究結果を使って、ブラックホールが熱力学的性質をもつと主張したのですが、博士はベッケンシュタインさんが自分の結果を間違って使っていると考えたのです。当時のホーキング博士は時空自体が熱的性質をもつとは考えていませんでした。

そこでホーキング博士はベッケンシュタインさんの仮説の間違いを証明しようと計算を始めます。ところが運命の皮肉が起きます。自分の計算でホーキング博士はブラックホールが熱的な輻射を出すことを発見してしまったのです。その結果を使うと確かにベッケンシュタインさんの仮説は正しいように思えました。そしてエントロピーと地平面面積の間の比例定数は1/(4G)であるとホーキング博士自身が確定をしたのでした。そのため上の(1)式のエントロピーはベッケンシュタイン=ホーキング エントロピー(以下ではBHエントロピーと省略)と呼ばれるようになったのです。

ところで最近では量子重力理論の研究が進んでいます。超弦理論やループ重力理論を用いて、熱力学的なエントロピーであるBHエントロピーを、統計力学のエントロピーのようにミクロな状態の数の足し上げから導くことが部分的に可能となってきました。特に超弦理論では、特殊なブラックホールの統計力学的なエントロピーが比例係数1/(4G)も含めて確かにBHエントロピーに一致することを示しています。このような結果は、超弦理論の成功を意味すると強調をされることもあります。

ただし超弦理論がBHエントロピーをミクロから導いたからといって、超弦理論が正しいとまでは言えません。正しい量子重力理論ならば、確かにBHエントロピーを導かなくてはいけないのですが、その逆は言えないのです。

実際にこのことは繰り込み群的に理解ができます。レオナード・サスキンドという超弦理論の研究者は以前に次のような議論をしました。仮にミクロな領域、つまりプランクスケールくらいに高いエネルギーや運動量の領域まで正確に説明をする量子重力理論があったとします。それは超弦理論かもしれないし、またループ重力理論かもしれない。または未知の理論かもしれません。ともかく何かそのような理論があったとします。

一方で現在までの観測や実験では、プランクスケールよりはるかに低いエネルギーや運動量の領域で、アインシュタインの一般相対論が正しい記述を与えていることが知られています。ですので、そのような量子重力理論は必ず低エネルギー領域でアインシュタインの理論を導く必要があります。経路積分を使った繰り込み群的な説明で言うと、高い運動量の自由度の積分を先に全部して得られる低エネルギーの有効理論の作用が、一般相対論のアインシュタイン=ヒルベルト作用になる必要があるのです。そしてその低エネルギー領域において重力定数Gが作用の中に現れます。高エネルギー領域での複雑な量子効果は、低エネルギーではこのGの繰り込みの効果に吸収をされてしまうのです。

もう少しだけ具体的に考えてみます。正確な量子重力理論は、温度の逆数パラメータβの分配関数がなんらかのミクロな自由度uを使って下記のような経路積分で定義されているとしましょう。

この経路積分の積分パラメータを運動量pのモード自由度u(p)に分解できるとして

と書きます。この式では運動量に上限があるように書いていますが、そのような上限が無くても良いです。高い運動量モードの積分を実行してしまい、低い運動量のモードに対する経路積分を下記のように残します。

この時に出てくる有効作用では、高い運動量モードの量子効果は全て繰り込みとして、その低エネルギーの相互作用の結合定数に含まれてしまいます。
そしてこの低エネルギー経路積分は、有効理論として観測や実験から下記のような一般相対論の経路積分になるはずだというのが、サスキンドさんの議論の肝です。

(2)式:低エネルギー領域での経路積分

重力定数Gは低エネルギー領域で計測されますので、この有効作用の中の結合定数を用いて理論的には定義をされます。作用の第1項目は有名なアインシュタイン=ヒルベルト作用になっていますが、第2項目に表面項が付いています。この表面項は、重力相互作用が長距離力を出すことが原因で現れます。この表面項の具体形には不定性がありますが、この表面項の役割はどれでも共通です。体積項であるアインシュタイン=ヒルベルト作用の変分をとってアインシュタイン方程式を出すときに、表面領域から運動方程式の解を不要に狭める余分な条件が出てこないように、この第2項目の表面項が調整をしてくれます。

このような有効作用が現れるというサスキンドさんの自然な仮定を信じると、(2)式の経路積分は下記のように評価されます。(なおこのあたりのユークリッド経路積分での計算自体は、サスキンドさん以前にホーキング博士と彼の共同研究者によって既に行われていました。サスキンドさんの議論は、その計算に繰り込み群的な意義を与えたものです。)

(3)式:経路積分で得られる分配関数

ここでβはブラックホールの質量と下記の関係が成り立つことも、経路積分の鞍点法の議論から示されます。

ブラックホールの質量Mからは、その地平面の半径が下記のように得られまます。

そして地平面の面積も下記で与えられます。

従って地平面の面積をβの関数として与えることが可能です。ここで分配関数Z(β)から熱力学的エントロピーを計算すると、(3)式から下記のようにちゃんとBHエントロピーが導かれます。

この結果を得るのに、サスキンドさんは量子重力理論の詳細を使っていません。超弦理論とかループ重力理論とか指定をせずに、これを導きました。従ってBHエントロピーを導くことは、正しい量子重力理論の必要条件に過ぎず、特定の量子重力理論の正しさを保証する十分条件ではないのです。


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