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南朝正統皇位継承論20-大宝天皇(美良)その参

💟大宝天皇(美良)その参

三浦芳聖の著書によれば、「最後の内伝の天皇である大宝天皇(美良親王)は、応永元(1394) 年、遠州京丸に於て松良天皇とその皇后綾子姫の第一皇子として降誕し、応永17(1410) 年、三州萩に於て松良天皇より譲りを受けて践祚、永享10年戊午(1438)年、三州切越に隠棲し、爾来16年間大般若六百巻を念書し、至誠通神、享徳3(1455)年、天照大御神から御神諭を賜って牧平大門に移住し、三種の神器を地下深く埋蔵して天之岩戸籠りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫と称した」とあります。

1、牧平大門に移住、三浦藤太夫と名乗る

三浦芳聖の著書によれば、大宝天皇は、享徳3年(1454年)、天照大御神の御神諭のまにまに、三種の神器を地下深く埋蔵して神皇正統家の天の岩戸篭りとし、皇后三浦佐久姫の姓を名乗り、三浦藤太夫と称して純然たる百姓となり、愛知県岡崎市牧平町大門に移住されました。

牧平大門
愛知県岡崎市牧平町大門(地図マピオン)

大宝天皇は牧平大門に移住したのち、牧平町大門に5人の皇子を住まわせて、どの三浦家も男系相続であることを掟とされました。

すなわち男子孫が絶えた時には、この5軒の三浦家の中から養子をもらって大宝天皇の男性遺伝子を継承することができるように配慮されたのです。この掟は明治37年(1904年)三浦芳聖が降誕するまで続いていました。

2、牧平大門について

天照大御神をいつきまつる皇大神宮内宮から、天照大御神の神定の蒙塵の地「牧平大門」への角度は罫線緯線に対して45度の方角に当たります。測量技術の未発達な享徳3年(1454年)当時、これは人為的には不可能なことだと思います。

牧平町大門についての詳細は下記をご覧下さい。
【参照】牧平町大門(愛知県岡崎市)

3、三浦藤太夫について

最後の内伝の天皇である大宝天皇・宗心が、三種の神器を地下深く埋蔵して天之岩戸籠りとするに当たり、天照大御神より皇后三浦佐久姫の姓を名乗って三浦藤太夫(とうだゆう)と名乗るように御神諭がありました。

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