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祈りがち

 インドのラージャスターン州ラナクプルにジャイナ教の有名な寺院がある。寺院へ向かう道すがら、典型的なジャイナ教徒の服装の人とすれ違い、本当にいるんだな、と思った。その寺院がいかにして有名でどのように重要なのかは忘れた。精緻な彫工や石造りの壁面へ差し込む光を眺めながらうろうろしてのち、寺院内の中央に位置する部屋へ入ろうとしたところ、入り口に立つ人が私を止めた。どうやらその部屋は、ジャイナ教の信徒のみが入れるところらしい。ああ、それなら仕方ないなと思った。これが7年前。

 今年の3月にエチオピアに行った折、首都アディスアベバの有名な教会であるという三位一体教会(The Trinity Cathedral) に行った。カテドラルなら大聖堂が適切な訳では? と思ったが有名なガイドブックには教会と書かれている。タクシーを降りて( 外国人観光客を金儲けのチャンスと捉えているタクシー運転手との値段交渉にはいつも疲れる) 教会へ辿り着くと、入場料が日本円に換算して約1000円ほどかかるという。アディスアベバの物価を考えるとけっこう高い。入らなくてもいいかな……と門前で迷いあぐねつつ通りゆく人々を眺めると、入場料を払っている様子のある人が全然いない。どうやら、祈りのために来ている信徒はフリーパス的な感じらしい。あ、それなら自分と同行者も入っていいじゃん、と歩き始めたところガードマンらしき人物に止められた。チケットブースに行って入場料を払え、と。まあそれはそうかもしれない。ですけどね、ここに入ってきている人は誰も入場料を払ってませんよね、それは祈りのために来ているからですよね、私たちも祈りに来ました、と説明した。ガードマンの返答はこうだった。「ここはエチオピア正教会だ。中国の教会や日本の教会に見えるのか? THIS IS NOT YOUR PLACE!!」お互いの英語力を探りながらのやり取りだったこともあるし、ガードマンの発言で瞬時に激昂した私は延々30 分ほどハイボルテージな口論をしたし、細かい言い回しは覚えていない。しかし、THIS IS NOT YOUR PLACE. だけはくっきりはっきり覚えている。THIS IS NOT YOUR PLACE.
 ちなみにエチオピアの宗教人口は雑に言ってキリスト教徒とイスラム教徒が半々ずつだ。明らかに“宗教的な” 装いをしていない限り、私には教会へ入ってゆくエチオピア人( に見える人) がキリスト教徒なのかイスラム教徒なのか見分けがつかなかった。だからエチオピア正教徒かどうかの問題じゃなくない? エチオピア人に見えるかどうかの問題じゃない? など様々な思念が脳内をめぐりつつ、ガードマンと喧嘩別れしてから門を出て、側道に座り込み声を上げて泣いた。祈りのためのグッズを売っているおばあさん( 宗教施設の前によくいるタイプの)が近づいてきて背中を撫でながら何か話しかけてくれたが、残念ながら私にはアムハラ語が分からなかった。自分の言葉が通じてないことを察してか、おばあさんは最後に、NO PROBLEM, NO PROBLEM.と呟いた。私は嗚咽まじりにThank you, thank you … no problem … I’ m OK …と告げてその場を去った( 同行者はこのあいだ離れたところに突っ立っていた)。

 アディスアベバの別エリア、イスラム教徒が多く住む地域でモスクを見かけたので入ろうとしたところ、一瞬にして複数の人間に囲まれた。その中で一番分かりやすい英語を話してくれた人は、要約すると「ここは祈るための場所だ、祈りに来たのか?」と問うてきた。こちらが首肯したところ、私は裏門に位置するところまで案内され、そこには最初に入ろうとした表門から想像できるモスク全体の規模に対して、極端に手狭なスペースがあった。むかついたので、手足だけ洗って祈らずに出てきた。ちなみに無料だった。
 私は宗教施設が入場料を取ることは別に良いと思う。集団礼拝の時間など、とりわけ信徒のための時間や場所が信徒に対して優先的に動くことも当然だろう。しかし結局「信徒」とは何なのか。誰がそれを決めるんだ? 私は何教徒に見えますか? の気持ちでぐるぐるする。

 日本だとこういう目( こういう目? ) に合うことは少ない。それはおそらく日本に住んでいるにあたり便利な見た目を私が持っているからだ。と、思ったんだけど、東京ジャーミィ( 代々木上原にある日本最大のモスク) に行ったとき、知らない人から「祈りに来たんですか?」と訊かれた。マグリブ( 日没から日が沈むまでの時間におこなう礼拝) の集団礼拝をおこなおうとしていたときだった。「はい」と答えた。相手は立て続けに「イスラム教徒ですか?」と訊いてきた。「いいえ」と答えた。「後ろに下がってもらえますか?」と言われた。その人が私以外の人にも訊いて回っている様子はなかった。私は後ろに下がりつつ、トルコ人イスラム教徒の知り合いが「日本人で改宗したイスラム教徒は唐突にヒジャーブや服装の決まりを厳格にやりすぎ。そういうことではないのに」と話してきたことを思い出していた。そういうことではない、のかは諸説あるが、少なくとも私は見た目をよっぽど「厳格にや」ってなかったのかもしれない。私がどう見えるかということを、私に判断することはできない。何にせよ、礼拝の作法にのっとり一連の動作を終えた。バルコニーに出ると、日没後の冷たい風が気持ちいい。私は勧められてナツメヤシを食べる。クルアーンやハディースには度々ナツメヤシが登場する。イスラム教徒にとって重要な食べ物だ。
 ナツメヤシは等しく甘い。私とあなたが極端に違うナツメヤシを食べているということもないだろう。しかし極端に違うナツメヤシを食べているのだ。そうして私の祈りが、祈られることを、判断する誰かがいる。私はナツメヤシの種を吐き出す。てのひらに弄んでいる種を、誰かが気を利かせて捨ててくれるまでは。

 山城周
この記事は2018年11月に文フリ東京で配布した怪獣のフリーペーパー「Quaijiu Free 1」に収録した文の再録です。怪獣歌会アドベントカレンダー最終日の記事でもあります。

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