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いったん気持ちは収まった。はずだった。

小山田氏のことは前回も書いたのでいったん自分の中では整理できた。気がした。

ただ、昨日録り溜めしてた番組録画を見てたらある障がい者の女の子が新しく学校にあがることについて「いじめられたらいやだなぁ。でもあると思うけど」と言ってるのを聞いて胸がつまりそうになった。この収録自体はだいぶ前なのでいわゆる小山田発言ものぶみ発言もまったく関係ないことをお断りしたうえで。

障がい者であることで「いじめられるかも」と不安視する子供がいるのはやはり良くないです。そんなものないとなぜか言い切る無責任な人は実に日本に多いけど、実際はやんわりと彼らを苦しめるような視線はきっといたるところに存在しているのだと思う。知り合いのマネジャーさんはいわゆるユニークフェイスの方で、初対面の名刺交換のときは僕もあっと思い、それがきっと態度に出たのだろう、その方から「こわいでしょ?顔。でも中身は優しいので気にしないでください」と言われたことを思い出す。あの人は多分、初対面の人と会うたびにあのセリフを繰り返してきたに違いない。実際、とてもいい方だったし、仕事ぶりも素晴らしくそのロケ自体がとても順調にいって感謝したことも覚えている。

でも最初に、ハッとして思わず視線をそらせたことは間違いないし、きっと傷つけたはずだ。僕だけではないかもしれないけど「普通のもの」「普通とは違うもの」という区別を自然にしてしまう習性があるのかもしれない。そして一瞬でもそうした態度や思考になったことを心の中で猛省してはなんとかきちんと対応しなきゃと意識的に行動してきたわけで、これが本当に意識的にではなく無意識でできるようにならない限り、本当の意味での多様性を僕は理解できていないことになるだろうなと自分でも思っている。でもそれは言葉でいうほど簡単ではないことも自分でも知っている。だからこそずっとフラットな人間であろうとし続けないといけないなとも思う。ダークサイドにおちるのはジェダイだけではなくわれわれ凡人の方がより簡単だからだ。

偽善者という言葉がある。内心ではいろいろ思っているくせにきれいごとを言うんじゃないよという批判を受けがちな人たちでもある。そして今までもこれからも自分は自分の言いたいことを言い、やりたいことをやるという人もいる。石原元都知事がテレビなどで何度訂正を促されても「三国人」だの「支那」だのという言い方をやめなかったのはあれが彼の信念だからだ。言葉を扱う作家としてそのワーディングのセンスは最悪だと言いたいが、言葉をこだわって使うという意味ではまさに作家の本領発揮だったのかもしれないけど。

偽善者が、偽でもなんでも結果として「いいことをやる」「いいことをいう」人のことを指すのであれば僕は喜んで偽善者になりたいと思う。そして障がい者であるがために「自分は学校でいじめられるのかな」と不安に思う子供がいなくなるような社会のためにできることを自分なりにやりたいと思う。ささやかながら。小山田氏が数十年前に露悪的に語った障がい者イジメがやはり許されるものではないというのはそういうこと。きりがないのは当たり前。いじめられた方からすれば時効は永遠にないからだ。

ネトウヨの人やパヨクの人がSNS上でよく論戦をはっているが、大きなことはよくわからないけれど、イデオロギーはともかく、少なくとも「誰にでもやさしく平等な機会が与えられる平和でポジティブな社会」を実現したいと思うことがなによりも国を愛するということなのではないか。そうも感じました。

やれることから変えてみない?

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