平成最後の夜

ぶつかった、と思ったら隣のサラリーマンの肘だった。眠たい目をこすって横に視線をやると、彼はタブレット端末上のオンラインゲームに夢中だった。満員電車で疲れた表情を浮かべる周りには目もくれず、激しい色の液晶を連打している。私はもう一度座席に座り直して、鞄を抱えた。さっきまで寝ていたからか、頭がぼうっとする。向かい側に座っている女子高生はにこやかにスマホをいじり、彼女の隣に座る中年男性は英会話のテキストを読み込んでいる。周りなんて関係なく自分の世界につかっている彼らは、羨ましくもあり怖いような気もする。電車内の会話はほとんどなく、無機質な空調の音が鳴っているだけ。

「結局、あなたは将来どうなりたいの。何をやりたいの」
全然わからないです、という言葉をぐっと飲み込んだ。20代後半で私と同じ大学出身だというリクルーターの男性は、涼しげにアイスコーヒーを飲んだ。コーヒー1杯1000円もするホテルの喫茶店の洒落た雰囲気に、黒スーツの私は完全に浮いている。
「話聞いていると、君の行動には一貫性がないよね」
一貫性、か。
今までの人生、自分なりに考えて、選んで、進んだはずだった。進路、部活、バイト、交友関係、恋愛。その選択が曲がり角やイバラ道であっても、誇りを持って全力で立ち向かっていたはずだった。ここにきて途方にくれるとは思わなかった。最終ゴールが何かなんてあまり考えてこなかった。闇雲に手を出したわけではなく、何かしらの信念はあったはずだが、確証がない。就活においては、この自分の軸が何かを考え抜く「自己分析」というのが重要らしい。俺がいつでも手助けしてあげるから、と営業スマイル全開で言ってくれた彼には申し訳ないくらい、私は気の抜けた返事しかできなかった。目の前のアイスティーはいつの間にかひどく結露していた。

電車の窓に映る自分は間抜けて疲れた顔をしている。一貫性、将来像。多分たくさんの時間があって、たくさんの心の余裕があったら、思いを巡らすことができるのかもしれない。思わず、今の私には無理だと思ってしまった。理由を並べ立てたらいくらでも思いついた。今から三時間後に部活があるから、明後日提出の課題があるから。部活も研究も中途半端にして後悔したくないから。でも、自分はそれでいいのか。自分の人生に自分で責任取れるほど、就活にも部活にも学科にも気持ちが向いていないから、こんな迷いが生じるのではないか。いつの間にか一番大事な「自分」が置いてきぼりにされていた、いや自分が自分を置き去りにしたのではないだろうか。

こんな疑問を胸に抱きながら挑んだ就活の結果は散々だった。自分の中で決意が固まっていないのだから、当たり前だった。
「一貫性がない」という言葉には、正直かなり傷ついていた。今までの自分の全てを否定された気がしていた。幼少期から大学受験まで15年間も習い事を続けた。希望の大学に行きたいと思って、勉強して、無事に合格した。新歓を受けて入部した、見たこともないスポーツだった部活も4年間続けた。大学でようやく興味が出た学問に出会ってからは頑張って希望の研究室に入れた。部活も勉強も大げさな理由なんてない。ちょっと人より勇気があっただけで、あとは目の前の物事にがむしゃらに全力で向き合っていたじゃないか。ただただ、客観的に見たときの「自分」と向き合うのは、恐れていた。

自分の感情に整理がつかなくて思わず「会おうよ」とLINEしてしまった大学の友人は、よく考えれば一貫性そのものだった。たまたま4年前の語学のクラスが同じで知り合い、たまたま語学の少人数ゼミも互いに履修していた。私たち以外留学生しかいない本当に小さな授業だったから、よく話すようになったというそれだけの共通点だった。私たちが同じ興味を持っていたのは本当に語学だけで、それ以外はほとんど一致しなかった。彼は、中高で物理を学びたいと思って大学に入学し、驚くほど真面目に勉学に取り組み、専攻に入ってからもその才能を惜しみなく発揮している。そして、持ち物の色が黒白青しかないところとか、どのお店でもメニューを見て10秒以内に注文を決めるところとか、とにかくブレない。今日の定食屋でもメニューを見て10秒で肉野菜炒め定食をセレクトしていた。私はお冷を見つめながら、就活失敗談を始める。
「私、就活失敗しちゃって。どこも内定もらえなかったの」
ふと顔をあげると驚いた猫のように丸い目をした彼がいた。一瞬戸惑ってしまったが、あの喫茶店での一件を話すことにした。
「私に一貫性がないんだって、だから私を信用してくれないんだって。悲しいよね」
私は、お冷と一緒に最後の言葉を流し込んだ。どう思う? と聞こうとしたとき定食が目の前に置かれた。私が箸を割ったとき、彼は口を開いた。
「考えすぎだよ」
今までになく優しい声だった。
「考えすぎかなあ」
「考えすぎだよ」
「そう、か」
いつも私の話半分にしか聞かないくせにこういうときだけ優しいなんて、ずるい奴だ。瞬きしたら大粒の涙が頬を伝った。そうだよねと返そうとしたけど、涙声で音にならなかった。ようやく音になった声は弱々しかった。
「将来どうなりたいのかなんてわからなくて、私はいつもイバラの道に突っ込んでいるって言われて、あなたとは正反対で、いつも急に方向転換をして、それで」
君のせいで言おうとしていたことが思い出せないじゃないか。
「それでいいんだよ」
お冷やに両手を添えて泣き出した私は、側から見ておかしい客に違いない。こんな出来事はチェーン店の定食屋では普通起きない。そして私たちは年齢を重ねてしまったし単純じゃないし臆病だから、これをきっかけに何か関係性が変わることもない。ただ、リクルーターを怒らないところとか、ここまで正反対な生き方をしているのに私を否定しないところとか、文字にしたら少ないけどどうにかして私に伝えようとして言葉を選んでいるところとか、君のそういうところがあまりに愛おしい。泣き出す私を見て動揺して肉野菜炒めに醤油をかけそうになっていたのはちょっとダサいけど面白かった。私は、君にしては優しすぎる声と、今日という日の全てを一生忘れないんだろうな。

今日は平成最後の夜らしい。
私は、留年して就活をもう一度挑戦している。彼は案の定、第一志望の大学院に受かって、今は大学院生だ。我々の正反対ぶりはここまで完璧で、明日から始まる新しい元号の未来では違うスタートラインの上にいる。
この先自分がどういう道を進んでいるか、正直わからない。過去に思いを馳せる時も、現実をじっと堪える時も、思い切り未来へ飛び込む時も、あるのだろう。衝動的に動いてしまうことだって、何日間考えても答えが見えないことだって、あるのだろう。そんな時に、君の「考えすぎだよ」を都合よく思い出して、励みにして、自分と対峙して、前を向いて生きていくんじゃないかと思う。
ベランダから夜景を眺める。春の少し冷たい風が肌を刺し、吐いた息は白く消える。ビルの電灯も、青黒い空も、中途半端に欠けてしまった月も、最後の夜なのにありふれすぎているすべてを、目に焼き付ける。就活が終わったら久しぶりに会ってみようかなと思い立った。それまでは私は私の道の上で頑張ってみようかな。  

fin.

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2018/12の作品の修正版です