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【幽霊のかえる場所】 第二章

阿佐野桂子


第二章


ロンドン地縛霊との再会


 ノアの洪水の後だ。当時の人々は煉瓦とアスファルトを使って天まで届く塔を建設しようとした。
 その高慢さを怒った神様は今まで一言語だった人々を多言語にしてしまったそうだ。それがバベルの塔と呼ばれているものだ。
 驚きなのは寓話を思われているバベルの塔が実在していることだ。何でもチグリス・ユーフラテス川の周辺にジッグラートという名で二十二も存在しているらしい。高さ九十mで七階建てだそうだから大したものだ。
 我がジャパンも負けていない。上代の出雲大社の本殿は九十六mの空中神殿だったと言われている。
 テレビで再現模型を見る機会があるかも知れないが、目が眩むような高さの階段を昇って行った先に神殿がある。しかも木造だ。
 ユダヤの人々が奉じる旧約聖書の神様は嫉妬深い。今まで単一言語で話していた人々を多言語化して意思疎通を困難にした。
 お陰で混乱を来たした人類はバベルの塔を完成させることができなくなった。少なくとも創世記には神様が破壊した、とは書いていない。
 自分が直接破壊しなくても意思疎通がはかれなくなれば塔を造るのは止めるだろう。まったく深慮遠謀としか言いようがない。
 神様が余計なことをせずに世界を一言語にしておいてくれれば苦労はないのだが、なぜ世界中には色々な言語があるのかの説明とも言える。もっともここで言う世界とは当時認識されていたごく限られた世界だ。
 僕がバベルの塔を引き合いに出したのは言語問題があるからだ。ロンドンで吸血鬼の幽霊という前代未聞な状態に陥った事情は既に話した。
 英語の素養がなくても一年も滞在していると耳が慣れて何となく言っている意味が分かるようになるらしい。
 無理矢理留学状態の僕も一年経つ頃には簡単な日常会話くらいはマスターした。なにしろ僕の心臓を移植したレシピエントの守護霊化しているのだから当然だ。
 この状態は英検何級くらいになるのだろう。中・高・大と英語を学びながらまともに英会話を習得できなかった僕としては格段の進歩だ。英語好き女子の留学したい病もよく分かる。
 僕が守護している人物は中等教育の数学の教師だった。当時の歳は三十五、独身で犬を一匹飼っていた。犬や猫はこの世にあらざる存在に敏感だと言われているが、ここの犬は超が付く程の鈍感犬だった。
 現に二代目の犬は数学教師が心臓の不調で倒れた時も、何が起こっているのか分からずにじゃれついていた程だ。
 心臓移植での生存率は十年で五十三%、十四年で三六%くらいらしい。それが二十五年も生き延びたのはやはり僕の心臓のお陰だろう。いよいよ心臓を取り戻す時が来た。
 それから先はちょっとエグイ話になるので説明は控えるが、出血も傷もないのに心臓だけがない死体がベッドで発見されることになる。
 残酷と言うなかれ。三十五で死んでいた筈の人間が六十まで生きたのだ。感謝されても恨まれる筋合いはない。僕は心臓と共に僕の実体を取り戻した。
 二十五年間足止めされていたロンドンを去る間際、僕は地縛霊のオッサンの元を訪れた。
 相変わらず死んだ時と同じビクトリア朝の格好をしてトップハットを被っているが、心なしか全体的にくすんで見える。子孫の死を何となく感知しているのだろう。
「いよいよ本格的に日本にお帰りですかな。ニ十五年も滞在して頂くとは、余程気に入られたのでしょうな。英国の幽霊を代表してお礼を申し上げなくてはなりませんなあ」
 何をか言わんや、だ。ロンドンに長期滞在するはめになったのはオッサンのせいだ、と僕は確信しているが、詰問しても誤魔化すに決まっている。
「さる人間の守護霊のような役割をして過ごしていたんですがね、ニ十五年などあっと言う間でしたよ。人間の寿命など儚いものだと改めて思い知らされました。僕の同類にはニ十五年どころか四千年の眠りから覚めるやつもいるんでね」
「四千年の眠りから覚める、それはまたどういう意味でしょうかな。エジプトの王家の谷でまた新しいミイラが発見されましたかな? 我が大英博物館にまた収集品が増えるのは楽しみなことじゃが」
 大英博物館の展示品の殆どは大英帝国時代に植民地から掻っ攫って来た物ばかりで、それを返却したら空っぽになると言われているが、今論じる問題ではない。
「いえ、文字通り眠りから覚めるんですよ。心臓さえ損なわれなければ四千年後の世にも復活できるんです。僕の場合は事故で心臓を移植されてしまったので一時的に幽霊の仲間入りをしてしまいましたが、移植された心臓を取り戻して復活しました。見たら分かるでしょうけど、誰も僕の体をすり抜けていったりはしないですよね。従って僕は今、幽霊ではない本来の僕です。あなた方の神は僕達のような存在を邪悪で呪われたなもの、と呼んでいますがね」
 オッサンの口が十秒ほど開きっ放しになった。じっくり観察させて貰ったが、生前は胃弱気味だったと思われる。小太り、赤ら顔は酒のせいだろうか。
「確かに幽霊ではないようですな」と言ったオッサンのこめかみから冷や汗と思われる透明な液体が一筋垂れた。僕が何者なのか、やっと気付いたらしく、急いで胸の前で十字を切った。
 十字を切られても痛くも痒くもない。聖水を掛けられても火傷なんかしない。第一、僕等の存在はキリスト教とは無関係だ。
 では何かと言えば、生物の多様性という説が僕等の学会では有力な説となっている。  
 生物はいつ発生するか分からない疫病や天変地異に脅かされている。どんな環境になっても生き残る。その為に僕等が存在する。実際、飲まず食わずの環境でも四千年後に蘇る仲間がいる。
 クマムシと呼ばれる極小生物は空気・水・餌がなくても生きていける。絶対零度・放射線照射にも耐えられ、宇宙空間でも生存可能だ。
 僕等は謂わば人間クマムシ君ではないか、と学会では考えているようなのだ。人間が核戦争を起こして放射能と「核の冬」で絶滅しても僕等は生き残る。ポルフィリン症でないことだけは確かだ。
 十字を切って怯えているオッサンにそんな話をしても理解できないことは目に見えている。路上で拾った情報だけでは限界がある。
「あの、その……、あなたはご自分の心臓を無理矢理取り戻したのですかな?」オッサンは声を震わせながら言った。寿命を縮めたのか、と聞きたいのだろう。
「まさか。僕はそんなスプラッタなことはしませんよ。猫が車に轢かれたのを見ただけで気分が悪くなるくらいなんですから。本当はね、もっと早く亡くなっていてもおかしくはなかったんですよ。でも僕の強心臓のお陰で二十五年も延命しました。いえ、反対の言い方をすれば人間の体が心臓の強さについて来れずに亡くなった、と言うほうが正しいかも知れませんね。亡くなったのは僕のせいじゃありませんよ」
 どちらかと言えば感謝されてもいいくらいだ。それとも普通の人間の心臓を移植された方が良かったのだろうか。それだと延命率は低くなる。
「さて、と。日本行きの飛行機に乗る時刻が迫って来ました。帰国する前にあなたともう一度会いたくてね。あ、そうそう、今度は無賃搭乗とは行かないので亡くなった方のお金で航空券を買っちゃいました。それが泥棒行為と言うなら日本へ帰ってからお返ししますが」
「いえ、亡くなった方にはもうお金は必要ありますまい。もうロンドンには用無しですな。ささ、飛行機に乗り遅れてはいけません、お急ぎなされ」
 前回は「シー・ユー・アゲイン!」と言ったくせに今度は帰りを急かせる。僕の正体に気付いたからだろうが、御安心を。幾らなんでも幽霊の血は吸えない。

謎のCA 賀茂保子

 飛行機に乗ってから考えたのは、本当は幽霊でいた方が良かったかもということだ。前回帰国する時は飛行機が落ちても死なない自信があったが、実体があればそうは行かない。
 世間で流布されている定説では僕等は蝙蝠に姿を変えて古城の上から飛び立つ能力があると信じられている。加えて瞬間移動も出来、分厚い扉を物ともしない怪力なのだそうだ。
 総ての印象はブラム・ストーカーの描いたドラキュラ伯爵が元ネタだ。トランシルバニアの城に住んでいた伯爵が弁護士のジョナサン・ハーカーを呼びつけてロンドンのカーファックス屋敷を購入しようとするところから話は始まる。
 以来、僕達の同類は陰気で醜悪で非情な生き物、いや生き物ではない「生きる屍」として映画の中で、小説の中で永遠に忌避されている。
 どう誤解されても構わないが、僕は蝙蝠になって夜空を飛んだりはしないし、バーベルを捻じ曲げる力もない。飛行機が落ちたら、と想像しただけで脂汗が出て来るくらいのビビリだ。
 今回は飛不動のお守りを持ったおばさんもいない。まさに「震えて眠れ」だ。
「おやおや、あなた、飛行機恐怖症ですか」
 八百万の神々の加護を願いつつ目を閉じていた僕に前の座席から声が聞えた。
「飛行機恐怖症と高所恐怖症と閉所恐怖症なんで」と僕は固く目を瞑ったまま答えた。初めてロンドン行きの飛行機の乗った時も僕はずっと目を瞑ったままだったのた。
「たいたい、こんな鉄の塊が空を飛ぶのがおかしい」
「飛行機が怖いと言う人の大半はそう言いますね。それじゃあ、鉄の塊が海に浮かんでいるのは?」
 相手は笑いを含んだ声で言った。明らかに僕をからかっているのだろうが、嫌味には聞えない声と久しぶりに聞く日本語に僕は目を開けた。三十代くらいの細身のビジネスマン風の男が白い歯を見せて笑っている。
「やっぱり、あなた、私の姿が見えてますね」ビジネスマン風の男が念を押して来た。ホラー映画の定番フレーズだ。こういう不意打ちは心臓に悪い。
「何かね、あなたは霊感があるような気配がしたもんですから声を掛けてみたんですよ。そう驚かないでください。初めてじゃないでしょう?」
 初めてどころかついさっきロンドンの幽霊と別れて来たばかりだし、僕自身が吸血鬼の幽霊だった。今は生身の吸血鬼だが、今度は幽霊が見える吸血鬼になってしまったのか?
 ロンドンのオッサンとはそれなりの経緯があるから話が通じるのは当たり前と思っていたが違うのだろうか。
「あなたの隣り、席が空いてますね。そこへ移っていいですか?」
 ビジネスマン氏はまるで新幹線の空席を移るような気軽さで聞いてきた。それは構わないが、エコノミークラスの席は狭く、僕が空席に向かって話しをしていたら確実に変質者扱いだ。
「あ、御心配なく。僕と喋ってもそれは総てあなたの頭の中でのこと。実際に言葉に出して喋っているんじゃありません。今だってそうですよ」
 すると、何か。幽霊同士、幽霊対「見える人」は声なき声で会話しているのだろうか。そう思って思い出してみると、心霊番組では霊能者は幽霊の代弁に徹していた。
 あれは本当は幽霊など見えないのに見える振りをした自作自演だと馬鹿にしていたが、本当に幽霊と会話をしていたのか。
「いやいや、心霊番組に登場する霊能者は殆どどこかのプロダクションに所属している霊能力者タレントで、それらしく演出しているだけですよ。本当に『見える人』は殆どシカトで済ませます」
 ビジネスマン氏は僕の思念を先取りして答えた。そう言われれば飛不動のお守りを持っていたおばさんも僕を見て見ぬ振りをしていた。では僕もシカトしても構わないのではいだろうか。
「それは駄目。もうあなた、僕と会話してますから」
 僕の返事を待たず、ビジネスマン氏はよいしょ、と席を乗り越えて来た。途端に油と焦げた臭いが鼻を突く。この男、何の事故で死んだんだ。
「おや、あなた、普通の人間じゃないみたいな感じがしますね。実体があるのに人間じゃない。組成が違うと言うか……。飛行機に乗り込んでいるから空を飛べる妖怪かな。一反木綿とか木の葉天狗とかふらり火とか」
「幽霊と話しているだけで充分剣呑なのに、わざわざ妖怪まで持ち出して複雑にしないで貰いたいんだけど。それに空を飛べるなら飛行機に乗らなくたっていいんじゃないか」
「ご説ごもっともですがね、彼等は長距離は移動できません。長距離飛行をしようとすればやっぱり飛行機に乗るしかないでしょう。アメリカまで行った一反木綿の話を聞いたことがありますか」
「そりゃ、ないけど」と僕は答えた。ナンセンス極まる。
 もし仮に一反木綿がアメリカに姿を現したらアメリカ人はそれを一反木綿とは認識せず、UFOとでも言うだろうし、ふらり火は火球で片付けられるに決まっている。
 それともICBMと間違われて迎撃されるかも知れない。第一、妖怪が何の用があって飛行機に乗ってまで移動しなくてはならないのか。
「そこをお聞きしたいですね」とビジネスマン氏。
 僕の方が聞きたいくらいだ。いくら妖怪ウォッチやらポケモンが流行っていても妖怪認定は止めて欲しい。
 僕は焼け焦げたスーツを着たビジネスマン氏を凝視した。ごく普通のビジネス出張のサラリーマンだが、時々ノイズが入ったように真っ黒焦げになった姿がだぶって見える。背筋がぞくっとした。
「やっぱり、あなた、霊感があるんですね。それって、生まれつきですか」
 霊感は隔世遺伝すると聞いたことがある。どうも死者としか思えないものがみえるので母親に言うと変な顔をされるが、お婆ちゃんは「やっぱりねえ」と認めてくれる。「実は私も」と言われ、「何が見えても他の人には言ってはいけませんよ」とアドバイスを受ける。
 定番中の定番だ。大体が、巫女筋だったり憑物筋の血統だったりする。この場合、母親が他所から来た人だと隔世遺伝になり、直系だと母親も能力を受け継いでいる。
 爺ちゃんが禿げだと男子の孫も禿げる。これも結構当っている。遺伝子は代を経るごとに薄まって行くはずなのに霊感遺伝子と禿げ遺伝子は強力だ。
 禿げは別として、怪談実話や怪談小説ではこの手の話が多い。それで何か得をするかと言うと面倒なことに巻き込まれる確立の方が高い。
 怪談話ではもともと霊感あります派とある日突然派に分けられる。後者は事件事故に巻き込まれて臨死体験のようなものを経て霊感を獲得する。
 僕のケースはまさに後者だが、臨死体験どころか一度幽霊になってしまったのが特異と言える。今はちゃんと実体を持っているが、二十五年近くを経て霊感体質になってしまったのだろう。だからこんな風に幽霊に絡まれている。
「ほうほう、あなたは生まれつきではないんですね。ではどうして幽霊が見えるようになったんですか。そこのところ、大いに興味がありますが。是非聞きたいなあ」
「ロンドン旅行中に事故にあって九死に一生の体験をしたんですよ」
 心臓を移植されて幽霊になってしまったことや、心臓を取り戻して実体を獲得し、もとの姿に戻った説明は省く。僕が吸血鬼の幽霊になったことは特に秘匿するべきことではないが、あれこれ詮索されるのも御免だ。
「そう言うあなたはなぜ幽霊に?」
 僕はこれ以上質問されるのは面倒なので話を切り返した。自覚のある幽霊なら幽霊歴も長いに違いない。予想通り食いついて来た。
「僕が幽霊になったのは、今から十五年ほど前になります。あ、ビーフにしてください」
 ビジネスマンは機内食のサービスが始まったのを見てリクエストして来た。
「あなたの分はないよ」と僕。CAから見れば僕の隣は空席だ。二つも頼めるはずがない。それに僕の経験からして幽霊に食糧は必要なかろう。
「それはそうなんですが、何て言うかな、目が食べ物を欲しているんです。見るだけで満足なんですからビーフにしてくれませんか」
 幽霊に覗き込まれながらの食事なんて気が引けるが、僕はビーフをリクエストした。
「ああどうも、あなたは親切な人ですね。僕ね、チキン・アレルギーなんですよ。と言うか、鳥肉の皮のブツブツしたのが苦手でして」
「幽霊になっても好き嫌いは治らないもんなんですかね?」
「それは元人間ですから」
 不毛な会話をしているとCAが声を掛けて来た。
「お客様、顔色がすぐれないようにお見受けしますが、御気分でも悪くなりましたか?」
「いいえ、大丈夫です。顔色が悪いのはもとからでして、御心配には及びません」
「そうですか、失礼致しました。もし本当に御気分が悪くなられた時は遠慮なく仰ってくださいね」
 ドクター・コールをされたら困るので僕はCAの目の前で元気良くビーフに齧り付いた。
顔色が悪いのは隣の幽霊のせいだ。
「日本の機内食は他の航空会社と違って味付けが繊細だし、CAの人当たりが柔らかいですよね。以前アメリカの飛行機に乗った時には」とビジネスマンが話し始めたのを制した。そんな話を聞きたいのではない。
「そうでしたね、何で幽霊になったか、ですよね。今更ながらですが、僕はミスミという者です。一次二次三次の三次でミスミと読みます。三角でも三隅でも三住でもない三次です。珍しい姓でしょ?」
「確かに珍しいですね」とパセリを横にどけながら答えた。僕は香草類が苦手だ。パクチーなど出されたらその時点で席を立つ。
 僕はビジネスマンでした、と三次氏が話し始めた。彼はさる大手の種苗会社の球根の買い付けが主な仕事だった。メインはオランダのチューリップだ。
 チューリップの花言葉は「博愛・思いやり」だが、赤は「愛の告白」、白は「失恋・新しい愛」、黄色は「実らぬ恋・正直」、その他色によって花言葉が違う。ちなみにトルコが原産のユリ科の植物だそうだ。
「じゃあ、恋人に黄色と白のチューリップをあげるのはまずいってこと?」と僕は尋ねた。
「まあそうなんですが、いちいち花言葉を気にしていたら花屋の前で悩みは尽きなくなりますね。それに花屋の花の中には毒草もありますから。最近は名前だけにひかれてクリスマス・ローズを彼女に渡す人もいますが、あれ、昔は強心剤や下痢、堕胎薬として使われていたんですよ。葉と根茎に毒があります。葉っぱを食べてみようと思う人はいないでしょうけど、キンポウゲ科の植物には有毒なものが多いですからね、気をつけてくださいね」
 いかにも種苗会社の社員らしい薀蓄だが、キンポウゲ科の花と言われても僕には分らない。
「トリカブト、福寿草なら知っているでしょう。二つともキンポウゲ科です。属はちがいますけどね」
 その伝で言うと僕と三次は属違いなのだろう。機内食を食べ終わって僕は話の続きを促した。話がどんどんずれている。同僚の高橋がいつも僕の話がどこに着地するのか分からない、と批判していたが、今まさにそれだ。
「ええと、毒草の話はちょっと横に置いといて、あなた、交通事故と飛行機事故に会う確率はどっちが多いとおもいます?」
 只今飛行機に乗っている人間にそれを聞くか、と思ったが、「交通事故だろうね」と答えた。但し、飛行機事故での生還率は非常に少ないだろう、とも付け加えた。
「そうなんですよ。交通事故に遭遇する確立の方が遥かに高い。でも印象に残るのは飛行機事故の方ですよね。なにしろ重大インシデントではジャンボなら一遍に四、五百人亡くなってしまいますからね。でもって、そのご遺体の様子もショッキングですからね。個人の特定は殆どが歯型か遺伝子提供が頼りです」
 ここまで聞けばぼんくらでも予想がつく。三次君は飛行機事故で亡くなった。僕はまた前回と同じ様に考えた。幽霊が乗っている飛行機は安全なのだろうか。それとも……。
「これはとんだ御心配をかけてしまったようですね。あなたの心が透けて見えましたよ。幽霊が搭乗している飛行機は縁起が悪いんじゃないか、って」
 はからずも飛不動のお守りを持って搭乗していたおばさんと同じ憂慮に陥った。幽霊が搭乗しているから安全か、それともこの飛行機は落ちるか。折角実体を取り戻したのに、冗談ではない。
 それについさっきまで好青年に見えた三次君の目が意地悪そうに光り、ぶれて見えていた焼け焦げ姿がくっきりと形を成して来たのが気になる。悪霊という言葉が浮かんだ。
 しかし、僕の二十五年弱の経験では幽霊は人を驚かせたりはするが現実世界には介入出来なかったのではなかったか。電子機器には親和性があるようだが。
 電子機器! 飛行機は離発着の時以外は殆どコンピューター制御と聞いている。もし三次君がどこぞの計器をいじくったりしたらどうなる。
「おや、一気に鳥肌が立ちましたね。僕の嫌いなチキンの皮みたいだ。僕はあなたを含めてこの飛行機の搭乗者全員の生死を握っています。ドアをすりぬけて操縦室に入る。ちょこっと計器をいじくってみる。どうなるか楽しみですね。たかが人間のあなたがそれを阻止できますか」
 東大、東大、と騒いでいた親子の霊と違って格段に性質が悪い。美しい花卉を扱っていてなぜ性格が歪んでいるのだろう。死者となった時点で今までの無害そうな仮面が剥がれて地が出て来たのだろうか。
 三次君は始めは低く、それから段々高く、カ行の音を総動員して笑った。凶音としか言いようがなく、聞く者の恐怖を煽り立てる。それなのに他の同乗者達は週刊誌を読んだり食後の睡眠に落ちている。
 三次君が席を立とうとした。やる気満々だ。そこへさっきのCAが静かに声を掛けて来た。三次君が一旦腰を下ろした。
「お客様、失礼ながらさっきからずっと御様子を拝見しておりましたが、やはりお加減が良くないように見えます。お顔の色が更に青くなられました。こう申しては何ですが、私にお任せいただけますか」
「はあ? お任せと言いますと?」と僕はうろたえて答えた。なにを任すと言うのだ。ドクターは必要ない。必要ないどころか呼ばれたら困る。
「たまに、ごくたまにではございますが、害意を抱いた霊が搭乗して来るケースがございまして、ご搭乗いただいた皆様に危険を及ぼす例がございます。それを私にお任せいただけませんか」
 CAは僕の返事を待たずに腕を伸ばして三次君の額に紙片をぺたりと貼り付けた。白い和紙に何かの文様と「急急如律令」と書いてあるのだけは見えた。その途端、三次君が紙片と共にブロック崩しのように消えた。
「な、何ですか、今のは!」
 僕の声は引っくり返っていたに違いない。どうか、お静かに、とCAが空席に塩を撒きながら言った。よく見るととりわけ美人ではないが細身のきりりとした人だ。
「悪霊が乗り込んで来たのは分かっていたのですが、私の力では日本領空に入るまで見極めがつかず、ご迷惑をおかけしました。塩で浄化致しましたから、もうあの悪霊が戻って来ることはありません。ご気分は良くなられましたか? コーヒーでもお持ちしましょうか」
「では、コーヒーを。いや、ちょっと待ってください。私の力では、とはどういう意味ですか。あの和紙に書かれたものは何ですか。あいつは本当に悪霊だったのですか」
「それはお聞きにならない方が宜しいかと思います。また今回のことは夢と思ってお忘れください。では、コーヒーをお持ち致しましょう」
 彼女は僕の質問に答えてくれず、コーヒーを持って来てくれたのは別のCAだった。その人にさっきのCAの名を聞くと賀茂という姓だそうだ。賀茂氏と言えば安倍家と並ぶ陰陽師の宗家の一つだ。その末裔だろうか。
 詳しい話が聞きたくて、僕は飛行機から降りる時に賀茂さんを捜したが見つけることができなかった。何だか不思議体験ばかり増えて行く。

バイオ・ハザード日本支社

『バイオ・ハザード』社はニ十五年を経ても同じ場所、同じ黒塗りのシックなデザインのビルとして存在していた。回転扉もそのままだ。部外者には秘密だが、この扉は全身スキャン装置になっている。
 黒いビルはそのままだが、回りのビル群はまったく様相が変わっていた。どれもこれも高層タワービルだ。
「よう、田中、久し振りだな。やっと帰って来たか」
 懐かしい声がした。回転扉のすぐ横に高橋が立っていた。ニ十五年の月日を感じさせる白髪と皺と老眼鏡。しかしこれが高橋の本当の姿ではない。人間だったらこうだろう、という風貌に化けているだけだ。
「なんだ、田中、おまえは三十九歳からずっと老けていないな。六十四歳の筈じゃないのか?」
「二十五年間は守護霊だったもんでね。幽霊は歳をとらない」ついでにお化けは死なない、病気もない、と言ったら一蹴された。
「それは妖怪の方のお化けじゃないか。妖怪と幽霊は違うだろう」
「そうそう、そうなんだ。帰りの飛行機で妙な悪霊に会って妖怪談義を吹っかけられたよ。そいつ種苗会社の社員のくせして飛行機を落そうとしていたんだ。それを賀茂さんて名前のCAが」
「ちょっと待ってくれ」と高橋が僕を止めた。
「なんだか長い話になりそうじゃないか。生き返った後で聞く、ってのはどうだ?」
 ああ、そうしようか、と答えた僕ははっと気付いた。高橋の子供二人はもう四十歳は越えている。お爺ちゃんになった高橋はそろそろこの家族から隠退する歳か。
 どうせいつもの手で病気かなにかを装って家族の前から姿を消すつもりだ。前回は確か肺結核だった。今回は癌か脳溢血か。
 『バイオ・ハザード』社が系列の病院の死亡診断書から葬儀、火葬の総てを仕切る。火葬は当然ながら形だけだ。
 遺骨は大体が良く出来た模造品だが、わざわざ遺骨を鑑定する家族はいないので、これまでばれたことはない。一昔前は牛か豚の骨を使用していた。
「ま、そういうことだ。今日は一連の手筈について確認に来たんだ。臨終の予定は三ヶ月後だ。田中、通夜には来てくれるよな」
「もう何回も出席してるだろうが。今回も付き合ってやるよ」
「おまえの弔辞は悲しみに沈んでいる家族でさえ思わず笑ってしまうくらい面白いからな。まあ、頼むよ」
 弔辞が面白いと言われて喜んでいいものだろうか。
「おまえはイギリスに二十五年もいて日本音痴になっているから知らんだろうけど、最近は直葬がメインでな、遺体は一日置いてすぐに火葬される。昔のように金や時間は掛からない。俺は呼ぶつもりはないが、坊主の宅配便もやっている。葬儀にン百万も掛からなくなったのはいいことだ。墓もメモリアル何とかと呼ばれるコイン・ロッカー型集合墓地だ。子供に迷惑をかけずに安心して死ねるな」
 人間はそうかもしれないが、高橋はそのコイン・ロッカー型の墓地にはいない。いないのにわざわざコイン・ロッカー型の墓地を買うのは金の無駄だが、遺骨と称される物があるのと家族の手前、そうは行かないのだろう。
 高橋のように一度(実際は何度もだが)死んだことになったやつはほとぼりが冷めるまで『バイオ・ハザート』系列の会社に転勤となる。日本支社は東京だが、転勤場所は全世界に及ぶ。
 当然ながら転勤先の言語を覚えなくてはならないのだが、僕が数学教師にぺったりひっついている間に技術はどんどん進み、今は補聴器型の翻訳・会話アプリが出来ていてネイティブ並みの聞き取りと会話が出来る。
 国際化イコール英会話の時代に皆が必死で取得しようとした英検だのTOEICだのもない。そもそも英語の授業もない。
 数学教師もタブレットを前に流暢なロシア語や中国語でやり取りをしていたが数学上の話なので僕にとっては馬の耳に念仏だ。
 

血液検査技師、同僚の高橋と渡辺主任


 三ヶ月後に死亡する予定の高橋と別れてエレベーターに乗った。僕が二十五年前に乗った時は旧式の箱型だったが現在は円筒形のエレベーターにリニューアルされている。
 中も漆黒で、壁面には銀河系の惑星が映し出されていて幻想的だ。
 他の惑星に移動出来るようになったら真先に乗り込むのは僕の同類達だろう。人間クマムシ君ならどこの星でも生存可能だ。
 地球から40光年先のくじら座にあるLHS1140赤色矮星を公転しているLHS1140bは生命可能居住域で、しかも地球の半分の光の量だそうだ。僕達が住むには快適な環境かもしれない。
 エレベーターの扉が開くとそこは僕が勤務していた血液検査室だった。日本全国から送られて来る血液の簡易検査が主な仕事だ。二十五年前に比べると人員が少ない。
 主任の渡辺がいちはやく僕の姿を認めた。千年前の心臓の持ち主だ。長い平安時代の藤原氏の一族だったそうだが、主流派ではない。和歌が教養の一部だった時代に育ったせいで、今でも訳の分らない短歌をメールで送って来るのが難点だ。
「こっち、こっち、ちょっとこっちへ来てみて」
 僕が幽霊になる方を選択したら課長命令で記憶を抜く役目を渡辺主任が仰せつかっていたのを思い出した。はいそうですか、とは近付きたくない相手だ。
「あ、何か気にしちゃってる? たった二十五年前の話じゃない。ちゃんと吸血鬼になって戻って来たんだからもう過ぎたことじゃない。それよりもさ、ちょっとこっちを見てよ」
 千年前の吸血鬼にたった二十五年と言われるとたった二十五日、と言われたような気がしてくる。記憶を抜く方法にはまだ警戒を感じるが、僕は渡辺主任のいう「こっち」に近付いて行った。
「ほら、見て見て、この機器の数々。田中君がロンドンにいる間にわが社でもハイテク機器の導入が進んでね。今じゃ血液検査も全部機械任せ。あっという間に『血算』が出来ちゃうのよ」
 ほらほら、例えばこの血だけど、と言って渡辺主任はプリントされた結果表を僕に見せた。白血球数、赤血球数から始まってFT4、TSHの結果値、参考値、H、Lまで一網打尽だ。
 この票を見せてやったら吸血鬼に血を取られていた被害者も感謝するに違いない。無料健康診断を受けているのと同じだ。
 もっとも「あなたから頂いた血液を検査した結果はですね」などと言えるはずはないが。
「ずっと前からウチでもアナログでない高性能の血液検査装置を導入したかったんだよねえ。人手を使って検査するより効率的じゃない。より詳しい検査で不良血液を弾くことが出来るんだし。メタボの血液なんて御免だし、血液感染が一番心配だよね。その点を解決する為に技術部が人間の使っている検査機よりもっと超高性能の機械を開発してくれちゃってね」
 渡辺主任の言うことはもっともだ。肝炎や性病に感染したら目も当てられない。今は肝炎治療薬や性病治療薬が開発されているが、それ以前の吸血鬼は血液感染による症状に悩んでいた。
 それが原因で自主的に眠りについてしまった同類もいる。今の医学では難病認定の人間が冷凍状態になって未来の治療方法に望みをつなぐのと同じだ。数千年の時を経て蘇ろうとしている同類はどんな病を抱えていたのだろう。
「ね、凄いでしょう。現代は何でも時短だよね、そう思わない?」
「ですね……」と僕。背が低くて麿眉の渡辺主任はずらりと並んだ機器を前に御満悦だったが、僕は貧血で倒れそうだった。飛行機の中で機内食を食べたが、腹はふくれても身にはならない。
「あらららら、社内で貧血おこすなんて。『バイオ・ハザード』社創設以来の珍事だねえ」 
 僕の異変に気付いた主任が小型冷蔵庫を開けた。吸血鬼の幽霊になった時も前代未聞と言われたような気がする。
「まあ、その辺の椅子に座って待っててね」と主任。やがて冷蔵庫から板チョコを取り出した。
「はい、それ食べて英気を養ってね。田中君がロンドンに行った後だけどね、血液チョコレートができたんだよね。ん? チョコレート血液だったかな? まあ、どっちでもいいけど、血液パックからちゅうちゅう吸っているのって、もし誰かに見られたらヤバイじゃない。それで板チョコ型が開発されたんだよね。これなら電車の中で食べていても不審がられないよ。」
 確かに某板チョコメーカーとパッケージは酷似していた。これなら違和感はないかも知れないが、女子中学生や高校生はともかく、大人の男が電車の中で板チョコをぱくついているのはそれなりに人目を引きそうな気がする。
 いや、主任の言葉につられて電車の中で食べることばかり想像してしまったが、電車限定品ではない。いつでもどこでも栄養補給。いいアイデアだ。
 渋茶色のパッケージを破くと下には更に銀紙のパッケージ。なかなか凝っているが、ここでもう微かに血の臭いがした。銀紙を剥がしてチョコレート色の物体を口に入れると少々錆臭い芳醇な血液の味が口一杯に広がった。
「これは血液そのものですね。今までは流動食って感じでしたけど、これは噛み応えもあってなかなかの物です」
 僕は絶賛した。技術部のアイデアだろうか。これは吸血鬼学会で特許を取るべきだ。
「四掛ける六の二十四ピースになってるだろ。一ピース二十ミリだから一枚全部食べたら四百八十ミリ補給できるからね。月に一枚食べたら充分じゃない? それから、こっちが血液ガム。一枚五ミリだけど六枚入りだから三十ミリの栄養価だね。ちょっとお口が寂しい時にはお薦め。でもお口が生臭くなるのが欠点かな。デートの時にはお薦めできない。それと、溶けるといけないから冷暗所に保管してね」
 超高性能な検査機器は血液成分を瞬時に判断してOKなら自動的に血液を製造ラインに流す。渡辺主任の仕事はもっぱら機器の保守点検だそうだ。
 渡辺主任は小さな保冷バッグに僕の血液型のチョコレートとガムを好きなだけ入れるように指示した。これでしばらく食事には困らないが、僕には肝心の塒がなかった。
 薄暗くて快適だったアパートは取り壊され、ペット可マンション『グリーン・マイル』になっている。あれから二十五年経っているから中古マンションだろうがまだ健在だろう。今度はどこに住んだらいいものやら、不動産探しは厄介な問題だ。
 更に重大な問題が一つ。血液検査技師としての僕の居場所だ。検査室には瞬時に検査を終えてしまう機械が十台近く並んでいる。
 検査室には渡辺主任以外には初めて見る顔が二つ。以前は十五人体制だったのが縮小されている。リストラされることはないが、どこかに飛ばされるのではないだろうか。
「あの……」と僕は保冷バッグを抱えたまま渡辺主任に声を掛けた。
「僕はこれからどうしたらいいんでしょうか」
 渡辺主任の返事はあさりしたものだった。君の身の振り方は小林課長に聞け、と。

 小林課長は日本史で言うとの大和時代生れだ。今は古墳時代というらしい。大和朝廷が地盤を固めた時期だが、当人は豪族や天皇家との血縁関係はない。渡辺主任がしばしば藤原氏との関係をごちゃごちゃ語るのに比べたらあっさりしたものだ。
 検査室の奥の扉を開けると以前と同じ様に小林課長の席があった。僕が幽霊になることを選択したら吸血鬼であった頃の記憶を消去することを命じた張本人だ。少なからず緊張する。部屋の中は人間なら寒く感じる程に冷えていた。
「おう、田中君か、レシピエント、随分と長生きしたみたいだな。十年くらいかと予想してたけど、何と二十五年。君の守護の賜物だ。私は今まで守護霊だの自縛霊だの信じていなかったが、やはり守護霊とやらが憑いているといい事があるもんだな」
 課長が幽霊を信じていないということは平安時代より古墳時代の方が合理的だったのだろうか、と僕は内心で首を傾げた。確かに守護霊をしてはいたが、レシピエントが思いがけず長生きしたのはやはり僕の強心臓のお陰だと思う。
 課長は自分のデスクの前の椅子を僕に勧めた。課長職だからといって特別製のデスクや椅子ではない。僕は保冷バッグを床に置いて課長と向かい合った。
 目鼻立ちがはっきりしている縄文顔だ。体毛も眉も濃くて体つきもがっちりしている。渡辺主任が白衣に固執している代わりにジーンズにポロシャツといつもラフなスタイルで通している。吸血鬼になった時の年齢は二十代だったそうなので、千五百年以上も生きているのに僕より見かけは若い。
「ちょっとこれを見てくれるか」と課長が机の上から取り上げたのはペラペラのアクリル板みたいな物だった。それに文字と映像が映っている。
「君が英国にいる間に我が社では人間達より一足先に新聞紙のように薄いパソコンを開発した。丸めて持って歩いてもいいし、折ってポケットに入れてもいい。起動するには広げるだけでいい。入力キーボードも画面下についている。透明タブレットのようなものだ。さて、もう一つは」と言うと課長は引き出しの中から取り出したスキー用サングラスを取り出して僕の顔に装着した。
「右の弦のボタンを押すと起動する。これも昔のパソコンの画面みたいなものだ。音声入力とキーボード入力の両用だ。試しにキーボードを呼び出してみたまえ」
 僕が「キーボード」と言うとサングラスの斜め下に仮想QWERTY配列のキーボードが浮かび上がって見えた。
 まるで宙で手だけを動かしているように見えるが、『バイオ・ハザート社』と入力すると目の前に会社の位置を示す地図と会社概要が投影された。
 思わず会社概要を読んでしまったが、主たる業務は遺伝子操作による作物の研究機関らしく装っている。当然ながら吸血鬼の為の吸血鬼による団体、などという扇情的な文言はどこにも記されていない。
「どうだね、二十五年前とは大違いだろう? 大手IT企業が未来はこうなるであろうと考えた技術をわが社はいち早く現実のものとした」
「これは面白いですね。いえ、素晴らしいです」
 僕は感激して様々な検索キーワードを入力した。飛行機で会った剣呑な霊の種苗会社は他の種苗会社を併合して業界第一位だ。
「まあ、素晴らしいかも知れないが、人間が追いついて来るのはすぐさ。僕達と人間の頭の基本構造は変わらないからな。僕は千五百年生きているから、邪馬台国がどこかを教えてやれるが未来の事は分からない。ところで」と課長はサングラス型の情報端末で遊んでいる僕に透明タブレットを見るように即した。
 どこのサイトか分らないが《もはや献血は不要に。血液の製造始まる?》の見出しが目の中に飛び込んで来た。
「ええっ? 本当ですか」と僕。血液の製造、これこそ吸血鬼への福音ではなかろうか。血液が人工で製造出来るようになったら僕達の総ての苦労がなくなる。
「どうやら記事を読む限りは本当らしいな。具体的な研究機関名も書いてある。総てはips細胞のお陰だ。今世界中でips細胞を研究しているのは知っているだろう? Ips細胞はどの組織にもなり得る万能細胞と言われている。極端な話をすればだが、それが可能になれば不死も夢ではないという究極の再生医療だ。それくらいは知っているな? ところでどの人間にも輸血可能なのは何型の血液だ?」
「O型です。もっと正確に言うとRh nullの『黄金の血』と呼ばれる血液を持っている人ですね。今のところ、見つかっているのは四十三人ということですが、二百万人に一人の割合なら総人口七十億として割ると地球上に三千五百人はいる計算になります。単純計算すると日本でも五十人はいる勘定になりますか」
「その血を大量に供給できるようになったらどうかね」
「それは素晴らしいことです」
 僕達吸血鬼は今まで本能で相手の血液を見極めていた。こいつは美味しそうな血の匂いがする、と感じた時は大体が同じ血液型かO型の人間だ。しかしたまに判断を誤って自分がA型のくせにB型の人間にアタックしてしまう場合がある。
 判断を誤って身を滅ぼした同類は数知れずだ。人間と同じ様に吸血鬼だって生きるのには苦労している。『黄金の血』はオールマイティだ。輸血を必要としている人間のみならず吸血鬼も救う。
「この記事を見たまえ。二十年もしない内に実用化されるだろう、と書いてある。ウチの学会ならもっと早く実用化に漕ぎ着けるだろうな。それで、だ。この素晴らしい造血装置が完成したらどうなると思うかね。本部から保冷バッグで送られて来るO型Rh nallのチョコレートを齧っていればいいんだからね」
 いまでこそあの手この手で人間から血を頂いているが、直接人間と接触するという危険を冒さずにフレッシュで安全な血が手に入る。ips細胞さまさまではないか。
 ちょっと昔なら三千五百人を探し出して飼育繁殖し、乳牛の乳を搾るように血を搾っただろうが、人工血液が製造できるならその手間もいらなくなる。
 ずっと前に見た吸血鬼映画では吸血鬼の方が大多数になり、血液不足に陥って人間狩をする世界が描かれていたが、そんな非道なことをしなくても済む。僕等は基本的にはジェントルなのだ。
「ところで、田中君、幽霊の生活はどうだったね」
 小林課長はデスクの引き出しの中からガムを一枚取り出すとじっくり味わうように噛み始めた。これはまだO型Rh nullではない、血液検査機器を通って来た分だろう。課長の血液型はO型Rh+だからガムもO型Rh+仕様のはずだ。
「幽霊の生活ですか? どうと言われましても。吸血鬼の時には見えませんでしたが、自分が幽霊になった途端、この世には幽霊が結構いると分かりました。死んでしまったことに気付かずにぼーっとしている幽霊は沢山いますね。日本に帰ってくる時に飛行機の中で会った奴は自分が死んでいる自覚のある幽霊で、そいつは悪霊と言っていいくらいの性格の悪さでした」
「その話は聞いているよ。賀茂という名のCAさんに助けられたそうじゃないか。無事に帰って来られたのは賀茂さんのお陰だな」
「は? 何で知っているんですか」
「知っているもなにも、社員の命を救って貰ったんだから、『バイオ・ハザード』社としては一言礼を言うのは当たり前だろう」
 いえ、そうじゃなくて、と僕は机の上に身を乗り出した。課長が、と言うより『バイオ・ハザード』社がなぜ賀茂さんを知っているのだろう。あの人は多分霊能力者か何かだ。霊能力者と吸血鬼集団はどこで繋がっているのだろうか。
「もっとも君は三浪の学生とその母親の霊を説得して悪霊になるのを防いでやっているからプラスマイナスゼロかも知れないがね。しかし一応礼はしておかなくちゃならない」
「いえ、プラマイゼロはどうでもいいんです。何で親子の霊の話を知っているんですか!」
 僕は更に身を乗り出した。誰が僕と親子のやり取りを見ていたんだ? 気づかなかったけれど近くに同僚がいたのだろうか。しかも霊感持ちの?
「親子の件は賀茂さんの担当だったそうなんだ。それを君が良い方へ誘導してくれたので害のない霊になった。害のない霊なら無理矢理あの世へ送る必要はないらしいじゃないか。その内影が薄くなって自然消滅するんだそうだ。賀茂さんの所属する『賀茂流霊能協会』から当社に連絡があってね、感謝されたよ。付き合いはそれからだ。で、今回は君の命を救って貰った、とそういうことだ」
「………」
 僕はやっと課長の話を理解した。始めから順序立てて話してくれていたら狐につままれたような思いはしなくて済んだ筈だ。改めて椅子に深く座り直し、ついでに足元の保冷バッグからガムを一枚取り出して口に入れた。
「でもさあ、不思議だよね。我社の電話番号は電話帳には載っていないんだけど」
「傘下に病院だの葬儀社だの霊園だの抱えているから、そっちの方から調べたんじゃないですか。それとも霊能力を使ったのかも知れませんね」と僕はやっと冗談を飛ばすことが出来た。
 それにしても賀茂さんはなぜ僕が搭乗している飛行機のCAなんかしていたのだろう。本当は種苗会社の悪霊を追っていて、僕がたまたま搭乗していただけにすぎないのではないか、という気もする。だとしても結果は命拾いしたのだから礼はしておくべきなのだろう。
 疑問は残ったが、これからが僕の本題だ。今の所住所不定、社内での立場も不明だ。血液検査技師はもはや不要になりつつある。渡辺主任もO型Rh nallの製造が軌道に乗れば仕事がなくなる。そもそも営業職もなくなる。
「課長、ご存知のように僕はロンドンから帰って来たばかりです。今の所住む場所もありませんし、お話を聞く限りでは仕事もないようなんですが、どうしたらいいんでしょう。僕ははぐれ吸血鬼にはなりたくないんですが」
 ああ、それね、と課長は少々顔を引き締めた。
「同類の身の安全を図るために分散して住むことになっているからなるべくバッティングしない住まいを見つけないとね。それは私に任せてくれるかな?」
 課長が塒探しをしてくれるのなら僕としても大助かりだ。お願いします、と答えた。
「それと、今後の仕事だけど、ちょっと会って貰いたい人がいるんだけど、いいかな?」
 はい、と僕は答えた。仕事があるなら何でもやる心境だ。はぐれ吸血鬼ことアウトロー吸血鬼にだけにはなりたくない。
 アウトロー吸血鬼とは『バイオ・ハザード』に属さない連中だ。そのイメージは映画に出てくる酷薄な吸血鬼そのものだ。ゆるい情報網は持っているが殆どが単独行動で、あちこちを流れ歩いている。
 未解決の殺人事件の半分はアウトロー吸血鬼の仕業だ。彼等は吸血の痕跡を悟られないように死体を損壊する。中には異常者の仕業に見せ掛けるために裂いた腹にクッションを詰め込んでみたりする。
 『バイオ・ハザード』社では千八百五十年前半に注射器が発明されてからはもっぱら血を頂くのは注射器からと定められている。吸血鬼にじっと見詰められると眠くなる。寝ている間に血を頂くのが僕等の流儀だ。
 でも注射器が発明される前は首筋にがっぷりと噛み付いていたのだろう、と思われがちだが、大方の吸血鬼は呪術医として瀉血した血を頂いていた。多血症の人は今でも献血に行くとすっきりすると言っているから、そう悪いことではないだろう。
 少なくとも『バイオ・ハザード』社に所属している同類達は人間を殺して最後の血の一滴まで絞り取ろうと考えるやつはいない。長い経験の中でそれは自滅行為に繋がると知っているからだ。
「さて、そろそろ客人がお見えの時間かな」
 課長がポケットから懐中時計を出して時間を確認した。不幸な事故で亡くなった同僚の形見の品だそうだ。どれほどデジタル化してもアナログな懐中時計を大事に使っている。

賀茂流霊能協会

 ドアをノックする音がしたと思ったらリクルートスーツ姿の若い女性と犬が入って来た。と言うより忽然と姿を現した、と表現する方が適当だろう。僕はぎょっとして椅子から立ち上がった。椅子が倒れてカタンと音を発した。
「あら、御免なさい、驚かしてしまったみたいですね。本当は生身でお伺いするべきだったのかも知れませんが、なにしろ『バイオ・ハザード』さんに来るのは初めてですから、本体は『賀茂流霊能協会』に残して来ました」
 彼女は課長と僕に軽く会釈した。ちょっと透けて見えるが飛行機の中であったCAさんだとすぐに分かった。こういう現われ方をするのはやはり特殊能力を持った人なのだろう。
 僕は慌てて椅子を元に戻すと彼女にすすめた。パイプ椅子は壁際に数脚折りたたんで置いてある。一脚を広げて課長の右隣に座り直した。
「いや、御心配はご尤もです。吸血鬼の牙城に乗り込んでいらっしゃるわけですからね。でも我々はか弱い女性を捕まえて血を頂こうなどとは考えておりません。そういう事をするのはアウトロー吸血鬼のやる事で、我々のモットーは紳士的かつ科学的かつ……」
 課長の言葉を遮るように犬がワンと吠えた。「済みませんが、この子にも椅子を用意して貰えませんか。床が冷えていて座り心地が悪いんですって」
 はあ? と課長は賀茂さんの傍に座っている中型犬を軽く十秒ほど凝視した。そしてなにやら納得顔。賀茂さんと一緒に来るくらいだから、見掛けは柴犬に見えるこの犬も只者ではないのだろう。
 僕がもう一脚椅子を用意すると柴犬はクンと満足気な声をあげて椅子の上に飛び乗って机の上に前足を掛けた。犬が苦手な僕と課長は気付かれない程度に体を仰け反らした。
「御紹介が遅れましたが、私が賀茂保子、連れはミツミネと申します」
 ミツミネ、って三峰神社の神使いの狼ですよね、賀茂さん。そんな凄いものをさらっと連れて来ちゃってどうするんですか。しかもネーミングそのままじゃないですか。僕は更に体を仰け反らした。
 映画では狼は吸血鬼の手下扱いだが、それも僕等が蝙蝠に変身して空を飛ぶ、と同等の根拠のない伝説だ。柴犬(いや、中身は狼)はピンクの舌をひらつかせながら課長と僕を黒豆みたいな目で見ている。
「テレビ電話でお話した時からきれいなお嬢さんだと思っていましたが、こうして直接お会いすると、更にお美しい。わざわざ降臨下さって光栄です。まずお茶など如何ですか?」
「頂きます」と賀茂保子嬢が出現した時と変わらぬきりりとした表情を崩さずに答えた。
 僕の記憶では『バイオ・ハザード』社には飲料の自動販売機はあっても急須や湯のみだの茶葉は置いてなかったはずだが、一分もしないうちに女子社員がお茶を持って来た。
 気を利かせたつもりか柴犬用には牛乳らしき白い液体が入った平たい皿が用意されている。興味津々で見守る中、柴犬がワンと吠えると皿はたちまち空になった。成る程、あっちの世界へ持って行ったんだろう。
 課長のどんぐり眼がすっと小さくなった。所謂、目が点という現象だ。物質の手レポテーションを現実に目の前でやられたら誰だって目が点になる。神使いは今、別の次元で牛乳を飲んだ……、と思われる。
「お茶も頂いたことですし、早速今日伺った件についてお話を始めさせて頂きたいのですが。今こうしている間にも誰かが狙われているかも知れません。お互いざっくばらんにお話を致しませんか?」
「ざっくばらん、結構ですね。敬語など使っていると文字数ばかりが増えて時間が無駄になります」とショックから軽く立ち直った課長。さすがに古墳時代の吸血鬼は肝が据わっている。
 一方僕は「誰かが狙われている」という剣呑なワードに耳をそばだてた。何の話だ? 僕に会わせたい人物とは賀茂さんなのだろうか。飛行機の中で賀茂さんに好意を抱いたがこの雰囲気ではまさかお見合いでもなかろう。
「田中さんは幽霊をやっていたから知らないでしょうけど、その間にかなりやばい問題が起こっちゃったのよね。吸血鬼にとっても人間にとってもプラスにはならないことよ。ちょっとお、ガムをくちゃくちゃ噛んでいないで話をちゃんと聞け、って」
 いきなりのざっくばらんに驚いた僕は慌ててガムを飲み込んだ。柴犬がクッと咽喉を鳴らした。絶対、こいつ、僕がガムを飲み込むのを見て笑った!
「それでさあ、コバちゃん、もう田中っちに血液型の話はしたの?」コバちゃんとは小林課長を指すのだろう。
「え、ええ、田中っちは血液の専門家ですからね、『黄金の血液』についても理解しておりますよ」つられた課長が僕を田中っち呼ばわりした。世も末だ。
「そうそう、『黄金の血』。自分は輸血して貰えないっていう悲しい運命だけど、総ての人に輸血可能な万能のO型Rh nall。世界的に見ればO型の人が多いから詳細に調べればもっと人数は増えるかも知れないけど、日本じゃ推定五十人くらいしかいないのよね? その五十人が狙われているとしたら、どうよ?」
「どうよ、と言われてもO型Rh nallを狙うってのは……あ、ひょっとして狙っているのはアウトロー吸血鬼ですか?」
「ピンポーン」と賀茂さん。「最近O型の人がエイリアン・アブダクションみたいに誘拐されてるの、知らない? どうも血液型を調べてるみたいなのよね。ウチの調査では帰って来た人はO型Rh nallじゃなかったから、これはどうしたってO型Rh nall狙いよね」
「『バイオ・ハザード』社でも研究をしていますが、さすがに誘拐までは。数年後には大量生産できる見通しが立っていますしね」とコバちゃんが口を挟んだ。
「オタクが良心的、と言えるかどうかは横に置いとくけど、まあ、殺人に手を染めていないことだけは認めてあげているつもりよ。でも、アウトロー吸血鬼を野放しにしているのは感心できないわね」
 飛行機の中で親切なCAだった賀茂さんは今や伝奇小説の破邪の巫女みたいに険しい顔をしていた。実際、破邪の巫女なのだろうが。「あのね、ウチでは大人しく暮している吸血鬼をどうのこうの言う気はないのよね。ただし、猟奇殺人するやつは許せないのよ。それも狙うのはか弱い女性や子供達ばかり。これって物凄く卑怯よね」
 はあ、御尤も、と課長と僕は頷いた。アウトロー吸血鬼のせいで『バイオ・ハザード』社まで悪く思われるのは心外だ。
「そこでよ、今回善良な吸血鬼さん達とご縁が出来たのを幸いにアウトロー吸血鬼を一掃しよう、って話が持ち上がってね。これってお互いウィン・ウィンの関係じゃない。オタクだってアウトロー吸血鬼のせいで世間から悪く思われたくないでしょ」
 いや、世間の人はそもそも吸血鬼の存在を信じていないようなんですが、と反論しようと思ったが止めた。この人に反論したら反対に世間に吸血鬼の存在をばらされそうな気がする。杭を持って追っ掛けまわされるのは御免だ。
「あー、と言うわけで田中君、弊社と賀茂さんの所属する団体は協力してアウトロー吸血鬼の駆除にあたる事になった次第でね。これ以上猟奇殺人やバンパイア・アブダクションを放置しては置けないだろう?」
 やっと本題に入った。バンパイア・アブダクションなる言葉は始めて聞いたが、見逃してはおけないことは確かだ。
 それにしても駆除とは随分と厳しい言葉だ。アウトロー吸血鬼は僕達にとっても危険な存在だが、彼等の心臓に杭を打つ場面を想像すると僕の心臓までが血を流して痛む。
「アウトロー吸血鬼とは言え、僕等の同類です。なんかその、話し合いとかで済ます方法があるんじゃないでしょうかね、課長」
「いや、それなんだが、『バイオ・ハザード』社と彼等との話し合いならもう既に何回となく行われているんだよ。しかし彼等はサラリーマンみたいな生活をするより一匹狼、いやこれは比喩だが、単独生活が性に合っているんだそうだ」
 一匹狼発言の時、ミツミネ君が犬らしからざる顔でにやりと笑った。ちらりと見えた犬歯は僕等より頑丈そうで、ホワイトニングをしているかのように真白だ。
「一人でいるのが好き、というのは人間の中にもいるからそれはそれで悪いことじゃないけど。でも犯罪に手を染める奴がいるとなると話は別よね。人間だって人殺しをすれば罰せられるんだから」
 賀茂さんは苛々した口調で言った。
「今日は議論をするために来たんじゃなくて、オタクとウチで既に合意された事を実行しに来たつもりなんだけど、コバちゃん、田中っちにはまだ話してないの?」
 僕は嫌な予感がしてコバちゃん、こと小林課長の顔を注視した。普通の人間なら僕等がじっと見詰めればすぐに寝落ちしてしまうが、同僚相手では無効だ。
「あ、いや、君の新しい仕事の事なんだが、その、何と言うかな、これは辞令だ。賀茂さんと君でタッグを組んでアウトロー吸血鬼を撲滅して欲しいんだ。いや、何も言わんで欲しい。例え凶悪な相手だとしても同類として心が痛むのは分かっている。しかしO型Rh nallの保護の為にバンパイア・アブダクションを放置しておく訳にもいかないんでね」
「いやですよ」と僕は即答した。僕はいたって気の弱い元血液検査技師であってハンターではない。
「僕は自分の心臓に杭が刺さるのを想像するだけでぞっとするんです。だからどんな相手であれ、僕自身の手を汚して杭を打つなんて御免です」
「誰もあんたに手で杭を打てなんて言ってないわよ。田中っちはアウトロー吸血鬼を探し出す手伝いをしてくれればいいの。あんたの方が同類を捜すのは得意でしょ。始末は私とミツミネがするんだから」
「賀茂さんは霊能力があるんですよね? 僕があいつは吸血鬼だ、と教えなくても分かるんじゃないですか?」
「敵は田中っちと同じでいかにも吸血鬼でござい、何て格好はしてないわよ。私が感じるのは邪悪な感情。それが人間のサイコパスの感情なのかアウトロー吸血鬼の感情なのかまでは分からないのよね」
「ミツミネさんには分かるんじゃ? だって神使いなんでしょ」
「ミツミネの役目は私の守護と相手を取り押さえること。吸血鬼探知機じゃないの」
「では、あなたが邪気を感じた相手をミツミネさんが取り押さえて片っ端から心臓に杭を打ち込んで歩けばいいじゃないですか」
「それは駄目。相手が人間だったらどうするのよ。人間の裁きはやっぱり司直に任せるべきでしょう。大体さ、吸血鬼に杭を打てば塵になって消えるからいいけど、人間を殺したら死体が残るわよ。そいつが凶悪犯だとしても警察が乗り出して来るでしょうよ。」
 コバっちとミツミネは裏返った声で反論すろ僕と賀茂さんの会話を片やどんぐり眼で、片や黒豆みたいな目で興味深そうに見ていた。ミツミネは仕方ないとしても、課長の門外漢ぶりには心底がっかりした。
「課長、何で僕が吸血鬼狩りをしなくちゃならないんですか。例えば、課長がしたっていいんじゃないですか。僕はアラフォーですよ。それに比べたら課長はどう見たって二十代で、しかも筋骨隆々じゃないですか。ハンターとしては課長の方が適役です」
 ミツミネがその通り、とでも言うようにワンと吠えた。少々腹の出始めた僕の体力を見切っているようだ。
「あの、ほら、私は千五百、いや正確に言うと千五百二十五年生きているわけで、見た目より老けているんでね。もうくたくた」
「古い吸血鬼ほど力が強いと聞きましたがね。くたくたなんですか。そうですか。吸血鬼止めて塵になりますか。塵になってしまえばもう疲れることはありませんよ、課長」
「な、何を言い出すんだ田中君」
「ちょっとお、仲間割れしないでくれる」
 賀茂さんが椅子から立ち上がった僕と課長の足を蹴っ飛ばした。ついでにスーツの内ポケットから銀色の棒状の物を取り出し、カチャカチャと音をたてて伸びたそれを僕等の目の前に突き出した。
「まったく吸血鬼のくせして軟弱で決断力もない、と来た。これで心臓を止めてやろうか」
 賀茂さんが吸血鬼に対するヘイト・スピーチの後に僕等の鼻先に突き付けたのは折畳み式の先の尖った杭だった。しかも素人でも分かる程のパワーを発散している。
「これは我が賀茂家に伝わる天逆鉾から作られた破邪の武器よ。これで心臓を止められたくなかったら早く決断しなさい。ほら、ミツミネもスタンバイしてるわよ」
「あの、天逆鉾は伊勢神宮に保管されていると聞いていますが、ひょっとしたら別の伝承の行方不明になっている高千穂の天逆鉾の方ですか」と課長。さすがに古墳時代生まれだけのことはある。
「そ、そんな詮索はどうでもいいじゃない。とてつもない霊力を秘めているのだけは確かよ」
 でしょうね、と僕と課長は杭の先から放たれるパワーにちくちくと肌を焼かれる思いをしていた。国産みの時に使われた鉾を加工した杭ならそりゃあ霊験あらたかでしょうとも。
「な、田中君、『バイオ・ハザード』社の面子を潰さないように頼むよ。吸血鬼の幽霊だった君には最適な仕事だと思うぞ」
 はあ? と僕は首を傾げた。正直言っている意味が分からない。幽霊の時は基本血を摂取しなくても良い。壁抜けが出来る。霊感持ちの人間以外には姿が見えない。物理的に何かをどうこうは出来ないが、電気系統には親和性がある。利点があるとしたらこの四つくらいだ。僕にとってはどーでもいい利点だ。
「ここまで話が進んだんだからずばっと言っちゃうけど、また幽霊になって欲しいのよ。吸血鬼の幽霊ならこいつが吸血鬼だって分かるでしょ。ところが相手の吸血鬼には田中っちが見えない。アウトロー吸血鬼に近付くにはいいポジションにいるのよね」
 つらっとした顔で賀茂さんが言った。また、幽霊になれ、ですと? いいポジションだからって、それはないでしょう。僕はやっと実体を取り戻したばかりだ。
「賀茂さん、ちょっと聞いてもいいですか。ひょっとして賀茂さんは今まで吸血鬼の存在を知らなかったんですか」
「まあね。日本じゃ人を食う鬼の伝説はあるけど、血を吸う妖怪って聞かないじゃない。天山天堂という名の血を吸う妖怪の名前だけは知ってるけど」
 それはゲームソフトのキャラではないですか、お嬢さん。いや、お嬢さんに見えるが、結構歳を食っているかも知れない。ちらっと左手を見てみたが結婚指輪は嵌めていない。
「では、吸血鬼退治は初めてということですね?」
「ふふふ、恥ずかしながら初めて」
 ふふふ、じゃなくてもっと恥じろよ、と僕は突っ込みたかったが、彼女の担当は悪霊、妖怪の類で、吸血鬼ではない。日本には吸血鬼はいない、という思い込み。僕等が上手く世渡りをして来た結果だ。
 そのせいでアウトロー吸血鬼の犯罪も人間のサイコパスの犯行と思われている。行方不明者の半分はアウトロー吸血鬼のせいだというのに、日本の警察もある意味お目出度い。いや、これは可能性としてだが、警察の中に吸血鬼が潜り込んでいるかも知れない。
 殺人事件で一番に疑われるのは第一死体発見者、次に怨恨関係だ。通り魔殺人が一番お宮入りしやすい。ミス・リードで現場を混乱させている吸血鬼の刑事、所轄の署長がいやしないだろうか。
 警察に潜り込んでいれば防犯カメラの映像などいかようにも操作できる。いや、そもそも僕等は本来の姿とは別に見た目を変えられるのだから、防犯カメラなど気にする必要がない。考えるまでもなく、実に犯罪者向きだ。
 ただし、『バイオ・ハザード』社に勤務している連中は犯罪に手を染めるのは御免蒙りたい、バイオレンスとは無関係な連中だ。別の言い方をすればチキンな集団と言える。
 そのチキンな連中の一人である僕にO型Rh nallを守るためにアウトロー吸血鬼狩りを手伝えとはどういう了見なのだろうか。既に『バイオ・ハザード』社と賀茂さんの組織の間で話がついています的な展開は、僕的には言語道断だ。
「まあまあ、田中君、ここはひとつ気持ち良く賀茂さんを手伝ってやってくれないか。賀茂さんは賀茂保憲の正統な末裔だが、まだ三十そこそこの修行中の身でね。吸血鬼狩りなどという大仕事には介添えが必要だそうで、アチラからも丁寧な御挨拶を頂いている」
「三十歳でまだ修行中ですか」
 僕は課長の言葉に皮肉を返した。キャリアウーマンならばりばり働いている歳だろう。
「まだ修行中で悪かったわね」と賀茂さんが悔しそうに言い放ったのとミツミネが僕の尻に噛み付いたのが同時だった。いててて、と叫びながら僕はミツミネの鼻面を殴った。狂犬病の注射をちゃんとしてるんですか、こいつ。
「三人が、いや二人と一匹が仲良しだということは良く分かったよ。お互いに言いたいことを言い合う。実に麗しいじゃないか。田中君と賀茂さんは初対面じゃないしね」
「どこが麗しいんですか! 尻を噛み付かれたんですよ、課長。幾ら不老不死でも噛まれれば痛いんですから。ちょっと尻がどうなっているか見てくださいよ」
「なに、大したことはない。ズボンが裂けているだけだ。おっと、今の時代はズボンではなくてパンツと言うんだっけ?」
 怪我の状態を見ようと首を捻った時、一瞬バチバチとした音と青白い光が見えた。課長、卑怯じゃないですか、と言い掛けた僕はそのまま床に倒れ込んだ。

賀茂保子とミツミネ


「いやあ、済まなかったね。本当ならきちんと合意をしたうえで協力を仰ぎたかったんだが思いがけず君が拒否するもんだから」
 手術台に横たわる僕の傍で課長の声がした。「しかし、驚いたね。心臓を取り出した瞬間本当に幽霊になってしまったみたいだ。今の私には君の姿が見えない」
「本当に僕の心臓を取り出しちゃったんですか。何て酷いことを! 僕の心臓はどこにあるんですか」僕は猛烈に抗議した。しかし課長は無反応だ。
「田中っちが僕の心臓はどうした、って喚いているわよ」と賀茂さんが通訳する声が聞えた。という事は、これは夢ではない。
「田中君の心臓? それは『バイオ・ハザード』社が責任を持って預かってますから。縁も縁もないイギリス人に移植されちゃった時よりはずっと安心でしょ、って伝えてくれない?」
「コバっちには声が聞えていなくても田中っちの方はちゃんと聞えているから伝える必要はないわよ」
「へえ、幽霊ってそういう存在なんですか」と課長が感服している。
「以前事故で幽霊になった時も前代未聞だったけど、二回も幽霊になるなんて、ギネスもんですよ、これは」
 何がギネスもんだ、二回目の幽霊にしたのはそっちだろう。僕は撥ね起きると課長の頭を叩こうとした。しかしあえなく空振り。やはり物理的現象は起こせない。
「幽霊というのは、透明人間みたいなものですよね。ペンキでもぶっ掛けたら姿が見えるようになりますかね?」
「シーツを被せたって見えないわよ。コバっちは本当に幽霊に対する知識がないのね」
「私、今まで幽霊を見た経験がないもので」
「霊感のない吸血鬼ってことね。人間だって殆どは霊感のない人ばかりよ。田中っちは一度幽霊になってから霊感持ちの吸血鬼になったみたいだけど、アウトロー吸血鬼ハンターの相棒としては吸血鬼の幽霊でいてくれた方が都合がいいのよ」
 霊感持ちの吸血鬼だの吸血鬼の幽霊だの、煩い。課長も賀茂さんも自己中でデリカシーのない奴等だ。キメラを生み出すマッド・サイエンティストみたいに罪悪感もない。不意打ちで施術された方は怒っているというのにだ。これでは高橋の葬儀に出席できないではないか。
「高橋って誰?」と賀茂さん。高橋は同僚で、三ヶ月後に死ぬ予定であり、弔辞を読む約束をしたことを賀茂さんに伝えた。
「三ヵ月後に死ぬ予定ですって? なに、それ」
「ああ、高橋ね。田中君の同僚でして、所帯を持っているんですが、子供二人もいい年になったのでそろそろリタイアしようかと。で、体調が優れないので病院に行ったら末期がんで余命三ヶ月と宣告された、という設定でして。人間世界であまり長生きすると疑われますからね。既にこちらでは届けを受理しています」
 この答えは賀茂さんの好奇心をいたく刺激したようだ。化粧気のない顔のアーモンド型の目がパチリと音をたてて開閉した。
 それから暫らく幽霊の僕は完全に無視された。二人は今まで僕が横たわっていた手術台に腰を掛けると吸血鬼の結婚事情で盛り上がっている。あまりにも馬鹿馬鹿しいので手術室の壁を抜けてどこかへ行こうとしたが、ミツミネが僕のパンツの裾に噛み付いたまま離してくれない。さすが神使いだ。
「で、吸血鬼の子供は吸血鬼になるの?」と賀茂さんが当然帰結するであろう問題を口にした。蛙の子は蛙、とは違います。
「いえ、普通の人間ですよ。傷が治りやすいとか平均寿命よりは長生きしますけど。女性の吸血鬼の子供も同じです。不死遺伝子はなかなか発現しないもののようですね。でも考えてみてください。地球上に不死者ばかりが増えたら世界はどうなりますかね」
「それはそれで困ったことになるわね。じゃあ、吸血鬼同士はどうなの?」
「吸血鬼同士のカップルもいますよ。でも子供が出来る確率は極めて低いと聞いています」
 賀茂さんは腕を組みながら天地創造前の神様のように色々と考えを巡らせているようだ。吸血鬼が鼠算式に増えないことを感謝しているのかも知れない。
「ちょっと、賀茂さん、ミツミネがさっきからすっと僕のパンツの裾に噛み付いているんですけど、どうにかしてくれませんかね。涎でびちょびちょになってるんです。それに課長、高橋の葬儀で弔辞を読む件はどうしてくれるんですか」
 あーら、と言って賀茂さんがやっと僕の存在を思い出してくれたようだ。この調子では今後のコミュニケーションが心配になる。
「ミツミネ、田中っちを放してやりなさい。そんなパンツを齧っていても美味しくないわよ」
 そういう問題ではないのだが。
「田中っちは弔辞を読みたいんですって。出来ないなら死んでも死に切れないって言ってるけど」
 死に切れないとはとんだ御冗談を。
「高橋君の家族が霊感家族とは思えないからなあ、どうしようか。そうだ、君は北海道に転勤になったことにして今ここで弔辞を書いておけばいいんじゃないのか? 当日は私か渡辺が代読する。そうだ、そうしよう。ささ、原稿を書きなさい」
 まあ、そうなるわな、と諦めた僕は課長が当てずっぽうに差し出したサングラス型の機器を受け取るとキーボードを呼び出して原稿の製作にかかる。立ったままバーチャル・キーボードを打つのは初めてだ。
 高橋の死ぬ頃は桜の花が咲く頃だ。「春ごとに花の盛りはありなめどあい見むことは命なりけり」と古今和歌集の歌を冒頭に置いた。格調高く進みそうではないか。
「うーむ、宙に浮いたサングラスから文字が浮かび上がる。事情を知らない者が見たらポルターガイストのような」と課長。
「それ、短歌とかいうやつ? ありなめど、ってなに? 蟻が何かを舐めてるの?」
 もう、外野が煩い。僕は課長に許可を貰って手術室の壁を抜けて小会議室に籠った。このまま姿を消したいが心臓を担保に取られているからには逃亡も出来ない。こういうのを社畜と言うのではないか。
 僕はここ三百年の間に高橋が結婚した相手の女性がすべて肥満体、よく言えば豊満な女性であったことを思い出しながら原稿用紙五枚分の弔辞を書き上げた。また直ぐに会えるであろう、とさり気なく付け加える。
 高橋は今頃『バイオ・ハザード』社系列の病院で終末期医療の病人を演じているのだろう。高橋には何度も結婚を勧められたが、僕は自分より先に年老いて死んで行く妻や子供の姿を見送る勇気は多分、ない。
「田中君、弔辞は出来たかね」と課長が賀茂さんとミツミネと共に会議室に入って来た。サングラスを目当てに僕の所在を確認しているのだろう。
「高橋君も自分の葬儀に出席するから君のことはちゃんと伝えておくよ。これで思い残すことは何もない筈だな。いや、それどころかこれから君は非常にやりがいのある仕事を始めることになる。頑張ってくれたまえよ」
 どうせ課長には聞えないので僕はチッと舌打ちをした。こんなに反抗的な気持になったのは初めてだ。課長なら課長らしく部下を労わって自分が幽霊になってみればいい。女児の幽霊なら頬をぷっと膨らませる場面だ。
「さーて、と。やっと心残りが片付いたわね。これからは田中っちはウチの契約社員よ。アウトロー吸血鬼を探し出すのがあなたの仕事。ところでコバっち、アウトロー吸血鬼は日本に何人くらいいるもんなの? まさか一万だの十万だの言わないわよね」
「その件に関してはこちらの調査表を見てください。おおよそ分かる範囲で数と出没箇所をリストアップしてあります。単独行動が好きな連中なので場所を移動しているかも知れませんが、殆どは大都市に集中していますよ。犯罪者と同じで都会の方が紛れやすいですからね」
 へえ、『バイオ・ハザード』社はアウトロー吸血鬼の数や居場所まで把握してるんだ、と僕は感心した。調査表を覗くと確かに大都市に集中している。中でもやはりダントツは東京だ。
 課長が言うには年間の行方不明者は八万人を越え、そのうち70%は一週間以内に居所が分かり、数年たってひょっこりのケースもある。しかし杳として行方が分からぬケースの内にはアウトロー吸血鬼の関与が疑われる。
「未だに未解決の殺人事件が起きた場所は一応疑ったほうがいいでしょうね。一番困るのは死体なき殺人ですが、警察も把握していませんからそもそも事件になっていない。これについては調査しようがありません。ウチは探偵社ではありませんからね。サイコさんの犯行なのか、はたまたアウトロー吸血鬼の仕業なのか……」
「その点についてはミツミネの力を借りるから大丈夫よ」と賀茂さんが余裕の笑みとVサインで応えた。僕とミツミネがお供で賀茂さんは破邪の巫女という設定らしい。オカルト漫画の見過ぎとしか思えない設定だ。
 『バイオ・ハザード』社に属する吸血鬼は百五十名、それに対してアウトロー吸血鬼の数はニ十名。案外少ないようにも思えるが、日本列島に不老不死で見た目を変えられる連続殺人鬼がニ十人も徘徊していることを知ったら一般人は恐怖に慄くに違いない。
「改めて聞くけど、吸血鬼は不老不死よね?」
 破邪の巫女の賀茂さんが今更ながらの質問を課長に投げかけた。
「ウィーク・ポイントは心臓。吸血鬼映画みたいに蝙蝠になって空を飛んだり、狼を従えていたり、瞬間移動したり、馬鹿力だったりはしない、と」
 どうやら僕の心臓摘出手術の間に課長はだらだらと吸血鬼の弱点を暴露していたようだ。
賀茂さんの気持が変わって全吸血鬼撲滅なんて言い出したらどうするつもりだ、課長!
「残念ながらそうです。我々種族は長い間誤解され続けて来ました。総てはブラム・ストーカーの創作です」
「でも主食は血なんでしょ?」
「まあそうですが、主食が米とか小麦というのと同じですよ」
「なんだか、あらそうなのって納得してしまいそうな模範解答ね」と賀茂さんが皮肉ともとれる発言をしたが課長も負けてはいない。
「しかも吸血鬼が必要とする血液は一ヵ月で四百㎜です。地球の農産物をイナゴのように食い荒らしている人間と比べたら実にエコな生活をしているんですよ。ねえ、田中君?」
 全然別の方向を向いて僕に同意を求めた。姿も見えず声も聞えないのなら同意を求めて欲しくない。それにイナゴ扱いされた賀茂さんが眉を顰めているではないか。
「そのイナゴの血を吸わなきゃ生きていけない吸血鬼って存在はどうなの?」
 やっぱり賀茂さんは反撃して来た。本当に『バイオ・ハザード』社と霊能者集団は手を組んだのだろうか、と僕は首を捻った。根っ子にはやはり吸血鬼嫌いがあるのだろう。血液検査で少量の血を採取されるだけ怖気づく人がいるくらいだから当然と言えば当然の反応だ。
 しかし課長は「血が不足した場合、我々には休眠という手段があります」とにこやかに答えた。確かに吸血鬼の強みはそこだ。人間は食糧不足になったからといって休眠など出来ない。
「それにO型Rh nallがips細胞技術によって安定的に量産されるようになれば今後人間から血を頂くこともなくなります。人間にとっても吸血鬼にとってもいいお話でしょう?」
「ま、まあそうね。それで今回オタクとウチが手を組んだわけだから。じゃ、そろそろお邪魔するわ。田中っち、課長に弔辞以外で何か言っておきたいことある?」
「無事心臓を取り戻した時のために住処を見つけておいて下さい。部屋は古くてもいいですから、家賃安めでお願いします」
 通訳してくれた賀茂さんは哀れむように僕を見た。

木造三階建ての賀茂家一族


 僕も賀茂さんもミツミネも霊体なので移動は簡単だった。妙に歪んだコルネ形の空間を通過するとそこは『賀茂流霊能協会』だった。看板が出ているわけでもなく、ごく普通の木造三階建ての住宅だ。
 少なくとも霊能者の住む家なら深山幽谷の古民家で、白く長い髭を生やした古老が囲炉裏端にいるのかと想像していた僕の期待は一気に裏切られた。
 初老の夫婦二人と中年の女性が一人、賀茂さんの兄だと紹介された三十歳くらいの男性が一人。一階から二階の住人は賀茂さんを含めてこの五人だ。
 普通の人間とあまり接触したことがない僕が「あ、どうも」と曖昧な挨拶すると初老の痩せて小柄な女性が僕に客間のソファーに座るようにすすめてくれた。初老の男性と賀茂さんの兄は無反応でダイニングに置かれたテレビを見ている。
「まあお茶でもどうぞ。それともコーヒーがよろしいかしら」と白髪が目立つがまだ充分に美人の部類に入る中年の女性。
「保子は着換えに自室に行ったからしばらくゆっくりしていてくださいな。あ、ウチの男性陣は幽霊を見る能力がないのであなたが見えないんですよ。無視しているんじゃないから気になさらないでね。私達女性陣が何も見えない空間に喋りかけているときは人ならぬモノがいるんだな、って思って邪魔しないようにじっとしているだけなのよ」
「ははあ、賀茂家の女性は巫女筋なんですね? コーヒーをいただけますか」
「コーヒーがよろしいの? いえ、ウチは憑き物筋でしてね。高知出身です」
「すみませんがコーヒーはブラックにして頂けますか。となると犬神が憑いていると。で、神使いはミツミネと。おや、ミツミネの姿が見えませんが」
「ミツミネは三階の道場にいます。呼びましょうか?」
「いえ、今日はさんざん噛み付かれたので呼ばないで結構です。僕にソファーをすすめてくれたのが保子さんのおばあ様で、あなたがお母様?」
「はい、コーヒーが出来ましたよ。インスタントですけど。向かいのソファーに座っているのが祖母で、私が母です」
「いつも飲んでいるインスタント・コーヒーとは少々香りが違いますが、どうせ幽霊の身では飲めないので、これで結構です。犬神と呼ばれているのは地ネズミで、狐持ちはイタチではないか、と言われていますが、どうお考えですか」
「そんな民俗学的なお話は分かりかねます。あら、保子が来ましたから私達はここで失礼しますね」
 賀茂さんの祖母と母は人間業とは思えない水平移動でダイニングに移動した。
 丁度テレビではどこかの山で人間の骨らしきものが発見され、付近に散乱していた遺留品から失踪中の女子大生の遺体ではないか、と告げていた。
 女子大生は田舎から上京し、東京の大学に在籍中で学生専門のワンルーム・マンションに住んでいたが、二年前に行方不明となり警察も捜査中の事件だった。
「酷い事するよなあ。殺して山に捨てるなんて。人間のする事とは思えないよなあ」と兄が誰でも口にする感想を述べた。
 賀茂さんの兄……。まだ名前を聞いていなかった。それにしても平日の昼間にワイドショウーを見ている男二人はいったい何だ? それに祖母と母も妙だ。霊能力者だからそりゃあ多少は変だろう、という領域を超えている。
 我が『バイオ・ハザード』社は本当にこの怪しげな霊能協会と契約をしたのだろうか。
天逆鉾から作られた杭を持っているのは確かだが。
「田中っち、ちょっと三階まで来てくれない?」
 僕に声を掛けた賀茂さんは中校生が体育の時間に着るような小豆色の上下ジャージ姿をしていた。着替えるってこれかよ、と思わず突っ込みたくなる格好だ。
 彼女の祖母と母が反応して首を九十度回して僕を見た。正直、ゾンビみたいで気味が悪い。コーヒー・カップをテーブルの上に置いて僕は急いで賀茂さんの後に従った。
 一階はダイニング・ルームとテレビのある無駄に広いキッチンにバス・トイレ、二階は各自の寝室のようだ。各部屋の前にネームプレートがぶら下っている。男名は「吉次郎」と「正樹」。多分兄の名は正樹なのだろう。
 三階は総畳敷きの一間で、やっと道場らしい場所になった。階段を上がった正面にどーんと大きな祭壇が鎮座している。その前にミツミネが腹を見せて横たわり後足をぴくぴくと痙攣させていた。
「賀茂さん、あの、ミツミネがとんでもないことになってますよ。ひょっとしたら、たった今死ぬところですか?」
「ああ、気にしないで。あれがミツミネの昼寝の時の姿なのよ。ほら、どっかの動物園でリラックスし過ぎて入園者から『死んでます』って言われて写真をアップされているカピバラとかラクダとかいるじゃない。あれと同じでミツミネは今、最高にリラックスしてるの」
 言われて見ると薄茶色の毛に覆われた腹は上下していたし、半開きの口吻から涎を垂らしている。神使いと呼ばれる霊体は常に威厳と緊張感に満ちた存在だと思っていたが、そうでもないらしい。
 まあ、好きな所で寛いで、と言われて僕はミツミネのすぐ傍で体育座りをした。賀茂さんはジャージの気軽さからか大胆に胡坐をかいた。
「ちょっとお伺いしてもいいですかね。お祖母様とお母様のことなんですが、随分とユニークなかたとお見受けしましたが、『バイオ・ハザード』社と話し合いを持たれたのはどちらですか」
 ミツミネの腹が上下するのを眺めながら僕は慎重に言葉を選んだ。変わっている妙だ気持ちが悪い、という言葉をユニークという言葉に変換してオブラートに包み込めるのは有り難いことだ。
「お祖母様よ」と賀茂さんは貧乏揺すりをしながら、それが何か?という顔であっさり答えた。
「ウチは代々、と言っても江戸時代中期頃からなんだけど、犬神様がホームベースにしている家系なの。さっき田中っち、犬神の本体は地ネズミとか言ってたわよね。犬神の憑いた家は周りを貧乏にして自分の家だけが富む、って言う中傷めいた伝説の犬神憑きじゃなくて、弘法大師様が使役した犬神様の方よ。稲荷神がいらっしゃるくらいだから犬神様がいたっておかしくはないでしょう?」
「犬神様が代々賀茂家をホームベースにされている、と仰るんですか? それはなぜでしょう」
「さあ、詳しくは知らないわね。気に入ってるんじゃない? 高知から東京へ出て来た時も付いて来たから。時々散歩に出かけて留守している時もあるけど、必ず戻って来るわよ」
 何だか犬を放飼いをしているような口振りだ。気儘に散歩して、お腹が空いたらドッグ・フードを食べに戻って来るのだろうか、と僕は犬神様に対して不謹慎と思われかねない想像をした。
 正一位を頂いてあちこちに御社のある稲荷神と違って犬神を祀った所は聞いたことがない。ミツミネも神使いであって神様ではない。しかしまあ、犬神憑きの呪い系ではないらしい。にしても、ここの女性陣は賀茂さんを含めてどこか妙だ。
「賀茂さんとは飛行機の中で初めて会いましたね。普通はCAのお仕事をしてるんですか?」
「いいえ」と賀茂さんは貧乏揺すりを止めてきっぱりと言った。
「あの時は今日あたり飛行機墜落日和だな、って気がしてたのよね。で探ってみたら悪霊化した霊が乗っている飛行機が見えちゃって、それで霊体をあの飛行機に飛ばしてみたの。結果は御存知の通りよ。まさか吸血鬼まで乗ってるとは思わなかったけど。何か問題でも?」
「問題はありません。その、なんと言うか、霊体を飛ばすってのは凄いですけど、それは犬神様から授かった力なんでしょうね? で、色々修行をされたとか?」
「修行なんかしてないわよ、そんな面倒臭いことするもんですか。霊体を飛ばしたり霊を消滅させる力はウチの女性が代々受け継いで来た力で、犬神様とはあんまり関係ないと思うけど。犬神様は帰って来るとぐうぐう寝てるだけだもの。ここにある祭壇は犬神様を祀るって言うか、ハウス。つまり犬小屋ね」
 賀茂さんのパワーは自前、しかも道場の一角を占める祭壇は犬神様のただのハウス! 恐れ多いのは賀茂さんであって犬神様ではない、と賀茂さん自身が言っているようなものだ。
「で、ではミツミネはどういう存在なんですか。犬神様のご縁じゃないんですか?」
「ミツミネは埼玉にあるパワー・スポットとか呼ばれている神社にハイキングに行った時に拾っちゃったの。やっと乳離れしたくらいの子犬でさあ、犬用のミルクを飲ませて、ゲップをさせてオシッコさせてここまで育てるのには凄く苦労したんだから。後で神使いって分かったけど、神使いなら自分の面倒くらい自分でみられそうじゃない? 子犬の時、スリッパを六足も駄目にしたのよ」
 僕はさっきからミツミネが仰向けの格好のまま、薄く目を開けているのに気がついた。何だってまたこんなお姉さんに拾われてしまったのだろうか、と幾分同情した。それともこれも神意なのだろうか。
 賀茂さんがだらだらと漏らした情報によると父の吉次郎氏と兄の正樹氏はニートなのだそうだ。
 とは言え完全なニートではなく道場を訪れる除霊希望者の事前相談(病院で書かされる問診票のようなもの)を受けたりお茶出しが仕事だそうだ。
 門前市をなす、までは行かないが結構繁盛していてお得意さんもいる。一度霊障に会った人は霊に憑かれやすくなり、道を歩いただけでそこら辺の霊を拾って来るものらしい。本当ですか、と聞いたら「気のせいよね」と賀茂さんは軽快に笑い飛ばした。
「でも本人が信じ込んでいる間は症状が改善しないんだから、話は聞いてあげなくちゃ。それで帰りに御札の一枚でも渡しておけば相談者も気が済むわけよ」
 あ、そうそう、御札、と賀茂さんは急に立ち上がった。
「これからアウトロー吸血鬼退治に行くんだったっけ。御札をプリントしておかなくちゃ。アウトロー吸血鬼は日本に三十人だっけ?」
「二十人です。我が社の調査では。今、御札をプリントと言いましたね。どういう意味です?」
「どーもこうも、字義通りよ。我が家秘伝のお・ふ・だ。プリンターが出来るまでは手書きしてたんだけど、今はパソコンに取り込んだのをプリントすればいいだけだから便利になったわよね。母の時代にはコンビニに置いてあるやつでコピーしてたんですって。店員に覗かれやしないかとひやひやしたそうよ」
 ひやひやどころか、『急急如律令』何て書いてある御札をコピーしていたら覗いた店員さんの方が魂消るでしょう。どこまでも変わった家族だ。御札何てものは一字入魂してこそ効力を発揮するのではないか。コピー御札の効力やいかに?
「祭壇の下の段にプリンターがあるから紙を、そうね、念のために8枚ほど、セットしてくれない?」
「え、8枚ですか?」
「A4の紙に御札が6枚だから6×8で48枚。用紙は8枚でいいじゃない」
 賀茂さんがプリンターの傍のパソコンを起動してファイルを開き、印刷をGOするとカタカタを音を立ててA4の紙が吐き出された。手で受け止めた途端に体がびりびりと痺れる。
「田中っち、幽霊のあんたが御札に触ってどうするのよ。いくら不老不死の吸血鬼の幽霊だって直接触ったら体に毒よ。ほら、こっちに寄越して」
 僕は慌てて御札が印刷された紙を賀茂さんに渡した。何と、コピーでもこの威力。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。
「賀茂さん、飛行機の中で悪霊にこの御札を貼っていましたよね。あの時の三次という名の幽霊はどこへ行ってしまったんですか」
「さあねえ、どこへ行ったのかしら」
 賀茂さんはまったく無関心の体でA4の紙を鋏で切っている。
「どこへ行ったかなんていちいち考えたことないなあ。きれいさっぱりと消えちゃったんじゃない? 或いは地獄へ強制送還されちゃった、とか。悪霊になるにはそれ相当の理由があったんでしょうけど、理由まで聞いてやる気はないわね。悪霊にならずに済んだかも知れないのに悪霊になった。総ては自分の責任よ」
「番町更屋敷のお菊さんの場合はどうなんですか」
「お菊さんの幽霊は確かに祟りをなしたけど、お菊さんが『は〜ち、きゅう〜』と数えた時に小石川伝通院のお坊さんが十と付け加えたので『あら嬉しいわ』と言って消えたって聞いてるけど。月岡芳年の描いた於『皿やしき菊乃霊』のお菊さんは綺麗よね。十と付け加えてくれたくらいで消えちゃうくらいだから、悪霊ではないんじゃないの? 悪霊てのは何の恨みもない人達まで巻き込もうとする根性が悪い輩のことよ」
 さすがゴースト・ハンターの賀茂さんだけはあるが、封じられた悪霊がどうなったかの説明ではない。聞いてどうするのよ、と叱られそうな気がしたので追求はやめた。
 アウトロー吸血鬼とは言え、吸血鬼は悪霊ではない。それなのになぜ御札が必要なのかの疑問も口には出さなかった。万能の御札なのだろう。
 紙を切り終わった賀茂さんはジャージ姿の腰にウエストポーチを巻きつけた。丸めた御札と二段折の杭をバッグ・イン。見た目はこれからDIYを始める人みたいだ。
 これが通常のお祓いスタイルだとしたら悪霊も戸惑うに違いない。普通のイメージでは巫女さんの格好でもしそうなものだが。今回はアウトロー吸血鬼をやっつける為の軽装なのだろうか。
 ジャージの背中には○○中学校の文字が。賀茂さん、ひょっとして中学校から背が伸びていないのか。改めて全身像を見ると一五五㎝くらいしかなさそうだ。迫力なし。
 しかしこの三十歳小柄な女性が飛行機の中まで霊体を飛ばして悪霊を消滅させるだけのパワーを持っているのだから、人は見た目では分からない。『バイオ・ハザード』社の選択もあながち間違ってはいないのかも。
「さて、これから吸血鬼狩りをはじめるとしようか。ミツミネ、さっきから起きているのは分かってるんだからね。いつも狸寝入りして悪い子だ。子供の頃、ペットシーツにオシッコをしないでカーペットでした時もそうやって狸寝入りしてたよね」
 子犬の時のおもらしを曝露されたミツミネは宙を蹴る早業で起き上がると目を三角にしてワンと吠えた。僕にはキレ気味の抗議に聞えた。
「ちょっと調査表を見せてよ。東京が7。大阪が5.福岡2、名古屋2.札幌2、横浜1、広島1、って何これ。吸血鬼は野球が好きなの? まあいいや、どこから行く? 遠い順に片付けようか。正樹〜、福岡行きの新幹線は何時に出るの?」
 賀茂さんはでっかい声を張り上げて階下の兄に呼びかけた。「知らないよ。自分で調べたらいいじゃん」と素っ気無い正樹君の答えがした。まだテレビを見ているようだ。
「まったく、頼りがいのない兄だこと。ま、いいか。旅費と諸経費は田中っちの会社持ちだから。後で文句を言われたくないから領収書を貰うのをちゃんとチェックしておいてよ。ミツミネ、バッグの中に入って。田中っちは無賃乗車OKよね。私の傍から離れないように、いいわね?」
 社命とは言え五百年も年下の女に田中っち呼ばわりされ、もやもやした気分を抱えたままの僕と賀茂さんとミツミネはアウトロー吸血鬼退治の旅に出発した。なぜ僕がこんな不幸な目に二回も会わなくてはならないのだろう。

第三章へ続く
 


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