「Purpose」と朱子学・陽明学

企業経営について、最近「Purpose」という言葉が使われる。

その意味は・・・

Purposeとは、自分たちの組織がなぜ存在しているのかを表現することです。「この組織は何のために存在しているのか?」という問いへのシンプルな答えをPurposeで表します。
Purposeがあることによって、一貫性のある戦略を描くことができ、組織に一体感が生まれます。また、Purposeに共感した社員が高いモチベーションでその能力と創造性を発揮することで、大きな価値を生むことができます。さらに、Purposeから生まれた商品・サービスが顧客の共感や支持を生み、それが売上利益となり、企業の持続的な繁栄をもたらします。
Purposeは、
 社会的意義(社会に何を働きかけていきたいのか)が含まれている
 誰かから与えられるものではなく、自分ごととして捉えられている
ことが重要
(https://bizzine.jp/article/detail/3587)

ということらしい。「存在意義」と訳すのが適切なのだという。

これを見てすぐに、朱子学の大義名分を思い出した。

朱子が実際に地方官の職についていた時に行った施策は、おおむね一般庶民の苦しみを救うためのものであったが、それは同時にそうした庶民の苦しみを無視していた高級官僚と上層士大夫階級の支配に対する挑戦であったということができる。かれらにしてみれば、朱子の施策とその主張は、それが儒教の古典に則っているだけに、正面切って反対することができず、それだけに厄介な存在だったのである。
(学問の普及で爆発的に増えた読書人)は科挙の試験を受けて官僚になるのであるが、多くは国家の政策決定に参加するような地位にのぼることはできず、せいぜいが中堅の官僚の地位に達することができるだけであった。かれらがその満たされぬ権力欲を発散させるためには、朱子学のような精神主義、観念主義をふりまわして現実政治を批判する「高尚な」議論にふけることが最も効果的であったのである。
(明の)永楽帝は、官僚養成のための学校制度、官僚選抜のための科挙の試験を重視した。彼はそのためのイデオロギーとして朱子学を公認し、朱子学に基づいた四書五経の注釈書・・・、朱子学の解説書・・・を編纂させた。・・・・・・こうして科挙の試験は思想統制の一つの手段となった。
《東アジア民族の興亡》(大林太良 生田滋 日本経済新聞社 1997)

つまり、朱子学の大義名分は、朱子が生きた南宋の時代から爆発的に増えて、政府官僚の大部分を占めるようになった中堅官僚たちのPurposeとして用いられたのである。

良し悪しは別にして、明朝皇帝の立場からすれば、自律的内部統制が機能する態勢を構築した訳だ。

しかし中堅官僚も、科挙を受験することが不可能な読書人・士大夫未満の階層を見下し、現場で汗することを嫌悪する体質は高級官僚と同じであり、大義名分を振りかざして高級官僚を批判したとしても、目くそ鼻くそを笑うに過ぎない。

陽明学はこれを補う、知識の実践なのだろう。担い手が軍人、商工業者あるいは営農家であることが象徴的である。

みな、現場で汗して、日々生死の境に直面している階層である。

そもそも、王陽明自身が軍人である。そして、その後継者の多くも軍人である。もちろん、科挙にも合格して官僚としての職階も有しているが、同じ官僚でも戦場に出るかどうかは、極めて大きな違いであるのは言うまでもない。

つまり、陽明学もまた内部統制論の一部であるものの、その対象は現場実務の運営であり、実態把握/現状分析、対策検討、実施の規範なのであろう。

陽明学の言葉を市場経済にあてはめると、以下のように解釈できるのではないだろうか?

「理は性」:市場原理=「神の見えざる手」
「知は行」:Price Taker たる市場参加者


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