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1112「乗り物」

食うものは食っているので、たぶん体重もそんなに減っていない気もするし、東京に来ると筋トレもできないので、たぶんそんなに身体環境がよくなっているわけではないと思うが、ここ2週間以上、一切糖質を摂らないようにはしているので、身体の中はずいぶんスッキリしているような感じがする。糖質制限は身体に良くない、という説はあるが、結局私には合っているのだと思う。明らかにメンタルが良い状況にある。夏だったら、このレベルの忙しさに見舞われていたら結構心が折れてしまっていたと思うが、まあ、がんばろうと思える。

自分の身体というものは自分でつくらなくてはいけないもので、そのためには食うものを考えたり、運動をして化学的に身体の変化を促したり、体重を減らして動きやすくしたり、といういろいろな「努力」が必要なのは異論のないところだが、一方で、身体というのは自分の一部であって、同時に自分にとって究極の「環境」でもあると思う。なんかスピリチュアル気味なことを言うかもしれないが、実際問題、「自分」とは何かということを考えると、たぶん、不摂生で太った自分の身体に宿る「自分」も、節制して健康になった自分の身体に宿る「自分」も、自分なわけなので、つまり「自分」というのはどういった身体に宿ろうが関係なく、「自分」だ。

ゆえに、自分の「身体」というのは、「自分」が暮らす環境なのだよなあと思う。そう考えると、節制をして自分の身体の調子を整えて、動きやすくしていくことというのは努力とかそういうこと云々の前に「環境整備」なのだと思う。自分が生きる環境をととのえる、つまり、身体の健康を保つということは「家の掃除」とかに近い行為なのではないか。

また人の受け売りになってしまうが、たとえば筋トレは自分で行うことではあるが、実はそうやって自分で整備した良い環境の中で、「自分」が良い気持ち良く生きることができるということにもなるので、それは「自力本願」に見えて「他力本願」なのだろうと思う。何しろ、身体というのは化学であるから、たとえば脂肪吸引とかをして体重が落ちたとして、それが「自力」か「他力」かというと、正体は他力なんだろうなと思うし、ゆえに、自分の身体というものは自分のものであって、自分の「外」にあるものなのだろうと最近思う。

今私はニューヨークにいる家族と離れて東京で仕事をしている。ゆえに、「自分」という意識は身体にくっついて東京に移動しているのでニューヨークにいるわけではない。「自分」は、身体と一緒にニューヨークから東京に運ばれている。つまり、人間の意識には緯度・経度で表現できる「座標」というものがある。

その「座標」は、基本的に身体の座標と同じところにあるわけだから、身体というものはある種、「自分」を乗せた乗り物であるとも言える。というか、ガンダムみたいな、人型の何かに乗り込んで、その手足を操って活動するようなロボットもそうだし、エヴァンゲリオンのようなバイオコンピュータっぽい機構でも同じだが、ああいう、自分の身体意識を具現化したような乗り物って、そういう、「人間にとって身体とはなんなのか」という問いに対していろいろ考えた結果として生まれた想像物のような気がする。

早朝からミーティングなので、都心に出てきている。今日も「人間」を乗せた乗り物が歩き回り、コーヒーを飲み、取引先と電話をしている。

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