「さようなら『新世紀エヴァンゲリオン』」と庵野氏は言った

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、感動した。クライマックスにシンジが「ネオンジェネシス!」と叫んで新たなるGenesis=シン・メガドライブを創出したシーンには、しめやかに失禁させられた。そのシン・メガドライブがシン・セガサターンへとシン化し、山岸マユミや霧島マナが再臨して「奇跡の戦士エヴァンゲリオン」を歌ってゲンドウに脳天直撃するシーンでは全観客が吐瀉物を撒き散らしながら宙に浮いてた。シン・ドリームキャストが産まれた時にはシネコンが爆発四散した。

 うそです。


総括:前

 実のところ、『新世紀エヴァンゲリオン』について話すべきことなんて、ずいぶん前から存在していない。

「真実は人の数だけある」「都合の良いものばかり追い続けても何も変わらない」「自分から動き出さなければ何も変えられない」「理解しようとしなければ理解できない」「人間は独りでは生きていけない」「でも他人を完全に理解できることはない」「生きてさえいれば、そこが楽園になる」

 そういった主題については、とっくの昔に語られ尽くしたはずだ。それらは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』でも変わっておらず、同じことが再度述べられている。

 ただ僕は人が悪いので、世の賞賛も批難もアホ臭く、ちょっとおちょくってやりたくなった次第である。なお、当然ながらネタバレは多分にある。

マリというモヨコと、それ以外

「モヨコじゃねーか!!」(敬称略)

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下、シン・)初見での自分の所感は、これだった。

 真希波・マリ・イラストリアスは、ストーリー上ではトリックスター的なポジションであり、『フリクリ』や『トップをねらえ2!』の系譜を継ぐ鶴巻和哉氏的なキャラであるという捉え方や、貞本義行版の描写などから、マリは「サイドストーリーの主役」的な、ある種の“部外者”と見なす傾向が主流だった。それこそ山岸マユミや霧島マナのようなものだと、自分もそう捉えていた。

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下、:破)の序盤で、マリは「すっげえ痛いけど、面白いから、良い!」と言った。庵野秀明氏の思想信条である「痛くても苦しくても進んでいかなければならない」から、「でも面白いから良い」というセリフは出てこないだろう。これは外宇宙から来たエイリアンだ。

 それが最終的に“碇シンジの物語”をかっさらっていったという結果から逆算してみると、それが本質的に何か、ピンと来る。今思えば、制作だけでも4ケタ人のスタッフが関わっていようが、“エヴァンゲリオン”の世界は庵野氏に監督された世界であるということを念頭に置くべきだったのだ。

 『新世紀エヴァンゲリオン』のTV放映当時は存在せず、後に外からやってきた、エネルギッシュで自力でバリバリ行動するものの世界(作品の / 他人の)を破壊するほど侵食的でなくて、“少年”が自然体で接せられるもの。作品外で少年に干渉し、救いの手を差し伸べられるもの。ついでに、よく古い歌を唄ってるらしいもの。

 そういう女(※なお乳がデカいか否かは検証の困難性により度外視するものとする)。

 その概念に最も近いものは何か。押井守氏が『新世紀エヴァンゲリオン』を指して「庵野の私小説」と述べていた覚えがあるが(なお『作品を語るにあたり、その作家を語るべきか否か』といった問題はあるものの、この意味で庵野氏当人からフォーカスを外すことは難しい)、それであるところ庵野氏とイコールな意味としての“碇シンジ”に対するマリとは何か。それがどうやって庵野氏にもたらされたか。安野モヨコ氏じゃねーか。

 マリの存在を消去法的な必然性として考える意見も目にするが、とんでもない。モヨコだモヨコ(敬称略)。

 『シン・』も『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(以下、旧劇)も、「他人と向き合わなければならない」といった主題の部分では同様だが、“マリが選んだ”という結果と、“(惣流)アスカを選んだ”という結果は対象的だ。選ばれなくても、目的や目論見が無くても、自分で選んで同じ道を歩く女と、苦痛を承知で選ばざるを得なかった女である。当時の「庵野、みやむーにフラれたってよ」説が脳裏をよぎったり、それとの対称性を考えてみたりもするが、虚実の確かめようが無いそれを度外視しても、やはりこう思う。モヨコじゃねーか(敬称略)。

 『新世紀エヴァンゲリオン』の後、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(以下、:Q)で示唆された「14歳で止まってしまった少年少女」が過ごした狂乱の90年代、混迷のゼロ年代、蒙昧の10年代は、結果的にモヨコが全部持っていった。言ってしまえば「お前らは(俺らは)モヨコに負けた」わけだ(敬称略)。

 当の少年少女にとっては、言ってみれば『残酷な天使のテーゼ』の莫大な印税を及川眠子氏と交際していたトルコ人男性が実家へ持っていったことにも似た話だろうが、個人的にはバカみたいに清々しい。逆に、変な慰めや励ましを贈るでなく、少年少女を振り切って最期まで主張と信条のままエゴイスティックに突っ走ったことこそ『新世紀エヴァンゲリオン』らしいとすら言えはしないか。モヨコじゃねーか(敬称略)。

 それは、ある種の裏切りであり、ある意味では予定調和と言える。

「自分の目的のために大人を利用するのは気が引けるな~」

アヤナミレイ(仮称)という幻想と、その消失

 綾波レイは『新世紀エヴァンゲリオン』を代表するキャラクターだが、『シン・』での扱いは割と雑だ。

 綾波レイというエニグマティックな存在は、そのデザインにしても劇中の設定にしても、つまるところ「都合の良い妄想を形にしたもの」だった。アヤナミレイ(仮称)は、その“妄想”の劣化コピーだ。個としての基軸も無く、例えば『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が飲食店だアパレルショップだとコラボレーションするにあたっても、出てくるのは「綾波レイ」であり「アヤナミレイ(仮称)」ではない(まあフィギュアは出ていたが)。

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』劇中、アダムスの器として用意された綾波シリーズは、妄想のコピーをさらに先鋭化させたもので、劣化どころか形骸と化した。『新世紀エヴァンゲリオン』のスマッシュヒット後、雨後筍の如く数多作られ消費されていった、使い捨ての“綾波系”のように。

 アダムスの器の綾波シリーズは、冬月コウゾウいわく「雌雄の無い」ものであるという。「妄想から生み出された雌雄が無い戦闘少女」というビジョンは、まるでヘンリー・ダーガーの『非現実の王国で』だ。ネルフが碇ゲンドウの妄執に支配され、劇中の現実を汚染していく様も、“非現実の王国”と呼ぶに相応しい。

 妄想の劣化コピーであるアヤナミレイ(仮称)は、非現実の王国でしか存在できない。劇中のリアリティとイマジナリーがまだらになった世界ではある程度まで耐えられたが、作劇上では碇シンジが現実と向き合えるようになったり、自身が現実を学んでいったりするのにつれて、崩壊していく。

 『シン・』はつまるところ“現実と向き合うための物語”だったので、妄想に居場所はない。

「虚構に逃げて、真実を誤魔化していたのね」
「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」

アスカという元カノと、その独立

 『:Q』時点からそうだったが、『シン。』の式波・アスカ・ラングレーは輪をかけて、“元カノムーブ”以外に適切な形容が見当たらないほどの元カノムーブをシンジに向ける。元カノなり(かつ心根の良さなり)にシンジを見捨てることはできないが、シンジを助けることはしないし、「シンジのため」という動機は欠片も無く、助けも求めない。ザ・元カノ・オブ・元カノである。

 これは単なる元ネタ解説となるが、言及を目にしないので書いておくと、アスカの作劇上のポジションは『七人の侍』の菊千代(演:三船敏郎)と同じだ。『新世紀エヴァンゲリオン』の第拾九話「男の戰い」でも多数の武器を地面に突き刺して敵の襲来に備えるという菊千代オマージュがあったが、今回は「農民を守るために戦う、親無き出自の乱暴者」とあって、菊千代オマージュに拍車がかかっている。ジェットアローンの部品を使って修復された2号機はアウターから右肩を露出させたような姿となっているが、これも戦闘時の菊千代と似た様相だし、ご丁寧にも最期は右手に太刀をぶら下げている。また『七人の侍』で菊千代が「百姓ほど悪ズレした生き物はないんだ!」と宣うシーンがあるが、これは鈴原トウジが「生きるためには、お天道様に顔向けできんこともやった」と述懐するシーンにダブる。そして、『七人の侍』で菊千代が壮絶に散り、ラストに「勝ったのはあの百姓たちだ」と語られるように、アスカ個人が“勝つ”ことは物語の必然として無い。

 ただ、そんな敗北が確約されたアスカが、『旧劇』のように膾にされることなく救い出されるのは、なかなか含みがあるように感じられる。アスカは、『旧劇』で“選ばれた”概念であり、『新世紀エヴァンゲリオン』自体のテーゼでもある。

 『シン・』におけるアスカは“エヴァの呪縛”に囚われた「14歳で止まってしまった少年少女」の1人であり、それが新カレを見つけてムチムチに育って舞台外に放り出される……というのが「『新世紀エヴァンゲリオン』に囚われて精神的成長が停止した人間に進歩を促し、外の世界での活躍を祈る」という意味合いなのは、見てそのままだ。

 その一方で、『新世紀エヴァンゲリオン』のテーゼだったアスカが舞台からパージされるということは?

「そっか。私、笑えるんだ」

綾波レイという現実と、その解放

 アスカが『新世紀エヴァンゲリオン』のテーゼ的な象徴である一方で、フェノメノン的な象徴が綾波レイだ。『シン・』の綾波レイは初号機の中で14年間も封じられていた、ザ・冷蔵庫の女・オブ・冷蔵庫の女として登場する。アスカやシンジ以上の「14歳で止まってしまった少年少女」ぶりだ。それについて、現実的な意味で語るべきことはほとんど無い。エヴァばかり四半世紀も追っていた人間には何もないように。

 『:Q』で冷蔵庫から解凍されたシンジが周囲に振り回されるばかりだったうに、綾波レイも割と勢い任せで舞台からパージされる。ただ、エニグマそのものであり物語と共に消えていった『旧劇』の綾波レイとは、表現がまるで異なる。

 それに、舞台外に放り出された綾波レイ(達)の姿はどうだったか?

「にんにくラーメン。チャーシュー抜きで」

碇ゲンドウというシンジの鏡像と、メタフィクション

 碇シンジの原初的な行動原理となるのは、碇ゲンドウの存在である。作劇上のゲンドウの意味合いは「碇シンジの鏡像」だ。シンジはゲンドウとの関係性を基軸として、他人や自分自身と向き合い、現実性の理解へと至る。

 ゆえにゲンドウという存在は、設定やモチーフこそいろいろあるようだが、作劇上ではマクガフィンに過ぎない。怪盗ものにおけるネックレス、スパイものにおける機密書類のような、ストーリーの基軸となる、それ自体に大した意味合いが存在しないものだ。その行動原理である「ユイとの再会」を目指す方法論は、『新世紀エヴァンゲリオン』では「自身や初号機内のユイも含めた全人類の同一化」だったところ、『新劇場版』では「世界の改編」へと大きく変わっている。舞台設定のために存在するキャラクターなので、舞台設定をデザインできるバックボーンならば何でも良い。シンジの鏡像とするため「ピアノをやっていた」設定を後付しても良い。キャラクターとしては空虚であり、ゆえに“非現実の王国”の帝王たりうる。

 劇中のゲンドウは、劇中の非現実=メタフィクションのレイヤへとシフトしてシナリオを変えようとした。ただ、それが許されるのはマーベルのデッドプールくらいのものである。マクガフィンでしか無い彼にはメタなツッコミはできないし、アルティメットまどかにもなれない。量子テレポーテーションでモグラ叩きムーブをキメるも綾波バックドアで即破られる小ボケをかましつつ、ゲンドウはシナリオの“落としどころ”へと向かった。「他人の死と想いを受け取れるようになったか。大人になったな、シンジ」と、実像が虚像を超えたことに驚愕し、感慨深げに、自己嫌悪を交えつつ呟きながら。

 どうでもいいが、セリフからするに『旧劇』で発動した人類補完計画は、シンジによって不完全な形になったものの、ゲンドウにとっては一応の成功(目的を果たしたもの)だったようだ。もちろん、完遂しても成功になる。そして『シン・』のアディショナルインパクトも完遂すれば成功だし、シンジによって頓挫させられたものの結果的に一応の成功となった。結局のところユイが中心にいる以上、ゼーレの計画と使徒のアダム接触以外ではだいたい成功するわけだ。話の上では綺麗にまとまったように描かれているが、ラスボスとして考えてみると、どんなルートを取っても途中ゲームオーバー以外は成功してしまうクソ厄介ぶりだ。なんかムカつくな。ヒゲむしったろかマダオ。

「ひろったのじゃないおまんじゅうは砂が付いてなくておいしいなあ」

使徒化するエヴァと、エヴァ化する使徒

 『新世紀エヴァンゲリオン』というコンテンツは、多数の派生作品と模倣作品を生み出した。中には醜悪な劣化コピーも少なくない。名探偵とか、ぷちとか。

 『新世紀エヴァンゲリオン』における使徒は特撮作品の怪獣を換骨奪胎したものだった。だが『シン・』で襲来するのは、死んだ猫ドローンゲリオン、ラインダンス発電ゲリオン、荷電粒子おみこしゲリオン、小月光ゲリオンなど、醜悪なエヴァンゲリオンの劣化コピーたちだ(ヴィレが補給中に使っていたドックアームだかフロートユニットだかがエヴァンゲリオン系なのは、動いている描写も無いのでよく分からないが)。また、ゲンドウが妄執で駆る第13号機という初号機が肥大化・異形化したかのようなエヴァンゲリオンは、肥大化・異形化した『新世紀エヴァンゲリオン』というコンテンツ自体のメタファーではないだろうか。

 それに対してヴィレのエヴァンゲリオンは、最終的には全リミッターをカットして立ち向かう。アスカは第1使徒相応のものになるし、マリのAT捕食は第10使徒のリフレインだ。往年の特撮を特撮のパロディで超克しようとしたのが『新世紀エヴァンゲリオン』だったとすれば、往年の(それから、肥大化・異形化のうえ増殖した)『新世紀エヴァンゲリオン』を自身のブレイクスルーで超克しようとするのが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』だったと言える。

 ただ、『新世紀エヴァンゲリオン』が『ウルトラマン』や『機動戦士ガンダム』などの代替には成り得なかったように、物語上の超克はともかく、現実的にミームがオリジンを打破することはできない。

生命のコモディティ化と、資本主義コンテンツのジレンマ

 綾波系クローンも劣化ゲリオンも、何故それが生じるかと言えば“商業的価値”に尽きる。『シン・』劇中、赤城リツコがガフの扉から噴出した先史文明人の物質化された魂に対し「生命のコモディティ化」と言うが、コモディティ(代替可能性を持つ経済的価値またはサービス)というフレーズは流石に露骨だ。これはそのまま“生命(アニマ)のコモディティ(商品)化”として“アニメの商業主義化”の揶揄だろう。

 モヨコ氏の『おおきなカブ(株)』でも描かれたように、作品とは属人的な性質によって支えられているものだ。資金を投じてベルトコンベア作業員のようにスタッフを調達することもできるが、そういったものがどうなるか(とくに資金が限られていた場合)はアニメファンや映画ファンなら言わずもがなだろう。

 ただ人間は、ワタミのサイコ社長の妄言のように気持ちだけを食べて生きていくことはできない。資本主義社会で生きていくにはカネが必要だし、カネを稼ぐには劇場用アニメーション制作などの仕事が必要だし、カネを稼ぐための劇場用アニメーション作品である『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』がそもそもの制作資金を集められたのは何故かと言えば、そこに「商業的価値があるから」に尽きる。

 そのうえ、本質的に興行事業であるエンタテインメントというものが資本主義を否定することは、根本的に不可能だ。クソコラボで量産される雑なシティファッションのチルドレンや、エヴァンゲリオン石油ストーブ、エヴァンゲリオン原付、エヴァンゲリオン水撒きホースみたいな形骸化も甚だしい商品(いずれも実在する)だって、それらの各種販売元にしてもエンタテインメント産業全体にしても大事な飯の種である。

 極端な商業主義は自由意志を否定するが、しかし自由意志は全体主義や管理社会の中では死んでしまうため、自由経済の上でしか成立しない。その意味で、肥大化・異形化・形骸化・増殖した『新世紀エヴァンゲリオン』を“殺す”ことは、そこから生じたカネの上に成り立っている『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』には、いくら揶揄や批難を重ねたところで不可能だ。

 ただし、「真っ当に戦うならば」。

エヴァと愉快な仲間たち

 ロジカルな演出メソッドの積み重ねで成り立っていた旧劇場版は閉塞的な空気に満ちていたが、『シン・』は悪ノリ的なバカ演出が散見される。旧作オマージュのネルフ本部殴り込み無人宇宙戦艦ミサイル艦隊(しかも『無人』とか『ネルフ本部殴り込み』とか露骨に言う)をはじめ、天元突破ドリルゲリオン対ATシュレッダー、ゼロじゃなくて無限大、『カタカナ・タイトル EP』などのVaporwaveレコードジャケットみたいな知恵無し・仲良し・全裸大行進、浮いた画調で出てくる綾波ヘッド。また、異様さに北上ミドリがツッコミを入れたり、鈴原サクラの浪花節にアスカがツッコミを入れたりする。そのツッコミは、例えるなら第26話「まごころを、君に」で、ミサトが「なんてインチキ!」と第九話「瞬間、心、重ねて」のセリフを言うようなもので、旧態的な作劇メソッドでは許容されないものだ。

 庵野氏は『旧劇』において、『新世紀エヴァンゲリオン』を“閉じる”ことで殺そうとしたが、当時にして既に肥大化・異形化していた『新世紀エヴァンゲリオン』自体の大きさゆえに叶わなかったし、中途半端に無理やり閉じたことで多くのユーザを『新世紀エヴァンゲリオン』へ閉じ込める結果になってしまった。

 それに対し、殺し損ねた『新世紀エヴァンゲリオン』を改めて殺してやろうというのが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』だったと言える。前回は“閉じる”で失敗したので、今回やったのが“開く”方法論だ。

 コンテンツを開く、つまり外部ミームを取り入れる方法論には、オマージュ、引用、出演声優ネタなどいろいろあるが、その内とくに毒性の強いものがパロディだ。例えば、今更「敵の幹部が主人公の父親だった」とか「親指を立てて溶鉱炉に沈んでいった」とか「自由の女神で地球と分かった」とかで衝撃を受ける人間は居ないだろう(よっぽどの映画知らずでなければ)。パロディは、元ネタをカリカチュアライズすることで殺して(=コンテキストに依らない新鮮な驚きを失わせて)しまう。

 つまり『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とは、本質的にはリメイクでもリブートでも続編でもなく、実のところ『新世紀エヴァンゲリオン』を改めて“殺す”ためのセルフパロディであり、そのネタバラシが『シン・』だった。

今日の日はさようなら また逢う日まで(1)

 『シン・』の全体的なテーマとなっているのは「別れ」である。劇中で繰り返される「さよなら」のメタ的な意味合いを素直に捉えれば、「みんなでエヴァンゲリオンにさよならしよう」という意味合いに感じられる。

 それも間違いではないだろう。ただ自分には、庵野氏の視点が客席と同じ高さにあるとは思えない。『旧劇』では客席にカメラを向けた映像を使うような人物だし、『シン・ゴジラ』の声出し可能上映で行われた記念撮影でも、周囲がゴジラのポーズを取る中でウルトラマンのポーズをやっていた。どこか絶対的にスタンドアロンな部分がある。

 庵野氏が個人として本当に別れを告げたのは誰だ?

客観的なカメラと、庵野秀明氏

 今の世の中、“考察”と呼ばれるファンメイドコンテンツが掃いて捨てるほどあるが、それらは大半が「裏設定あさり」だったり「細かくて伝わらない演出解説」だったり、あるいは単に妄想だったりする。真に“考察”と呼べるのは、新たなイメージを創出したものだけだ。

 ほぼ全編にあたって、本文もその域を超えていないが、この部分だけは手前味噌ながら考察であると言いたい。というのは、劇中のカメラワークから“考”えるに、庵野氏の作品に対するヴィジョンが“察”せられるということだ。

 カメラワークというものは、すなわち監督の目線だ(撮影監督が総監督の意向をパワーバランスを振りかざして無視、あるいは総監督の指示やヴィジョンが不明瞭であるため、勝手に画作りをするというケースも聞かなくはないが)。

 劇中を「実は劇中劇(のようなもの)」として表現する手法は、TV版の第弐拾伍話「終わる世界」および第弐拾六話「世界の中心でアイを叫んだけもの」から行われてきたが、それは「舞台上のカメラ」を用いていた。パイプ椅子に座るシンジへ人々が口々に言葉をぶつけるシーンではカメラが壇上にあるし、「おめでとう」のシーンではカメラがキャットウォークにある。「まごころを、君に」の客席シーンも、カメラが置かれていたのは床上だろうが、「舞台側から向けたカメラ」という意味で舞台の一部だ。

 しかし『シン・』では、舞台の外から舞台を写すカメラワークが存在する。庵野氏の視点は、かつて舞台上の役者(キャラクター)たちと同じ位置にあったが、今回は外から役者たちを見ている。全体的なカメラワークとしても、「まごころを、君に」における“シンジ絶叫からカメラ引き”や主観的イメージのような画作りを極力廃し、客観的なカメラワークになるよう努めている雰囲気がある。『旧劇』におけるアスカの「殺してやる」は正面から描かれていたが、『シン・』の封印柱ぶっこ抜きが側面から描かれているということも象徴的だ。

 この傍観を「それが作品に対する今の庵野氏の視点」と判断するのも、『シン・ゴジラ』におけるiPhoneをコロ付きイスに乗せたカメラワークなどを鑑みるに、違うだろう。庵野氏は基本的に主観的なカメラワークを好む。傍観は『新世紀エヴァンゲリオン』に対してのものだ。

 また、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』では、第5の使徒の機電風演出や、「ミニチュア感を出してくれ」といったオーダー、「『ウルトラマンタロウ』のセットの広さをくれ!」という発言、AAAヴンダーの吊り操演など、全体的に特撮のオマージュを色濃くしていることが感じられる。『シン・ゴジラ』では、むしろ(人間のシーンでは)リアリティを重視したのに、だ。これは勿論、庵野氏の特撮好きという嗜好が反映されたという面は大きいが、同時に虚構を虚構であると強調してもいる。

 これが何を意味するか?

今日の日はさようなら また逢う日まで(2)

>『新世紀エヴァンゲリオン』のテーゼだったアスカが舞台からパージされるということは?
>庵野氏が個人として本当に別れを告げたのは誰だ?
>虚構を虚構であると強調してもいる。これが何を意味するか?

 『新世紀エヴァンゲリオン』はディスコミュニケーションをテーマの1つとしていた。そして『旧劇』では、その先にある「それでも生きていかなければならない」をテーマとしていた。だが、分かり得ないもの達が“生きていく”なら、その間に(死ではなく、意図的に袂を分かつ意味での)別れは避けられない。つまり、『シン・』とは庵野氏からの、虚構に捕われてしまった「14歳で止まってしまった少年少女」たち――誰の言葉だったか忘れたが、「作家の最初のファンは自分自身」であるところの庵野氏自身も含めて――への「さよなら」ではないだろうか。

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(以下、:序)と『:破』の「やり直し」と、『:Q』の「改めて向き合う」ということは、それをするための布石だった。綾波を助け出すためプラグ深度を深めたシンジのように、『:Q』後の庵野氏はズタボロになったそうだが、そうしなければゲンドウのように別れを告げられないから。

 精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは、人間が死を宣告されてからの精神状態の推移を、5段階でモデル化した。すなわち「否認・孤立 → 怒り → 取引 → 抑鬱 → 受容」であるが、これを「 『旧劇』 → 実写作品期 → 『:序』『:破』 → 『:Q』(および後の鬱期) → 『シン・』」と考えてみると、やけに綺麗に当てはまるように思える。『新世紀エヴァンゲリオン』という絶望=デストルドーを“済ませる”ために、『シン・』が受容と離別の物語となることは必然だった。

「おさらばです」

 素直なファンは『:序』『:破』で「今度こそ向き合ってくれる」と思い、拗らせたファンは『:Q』で「今度もやらかしてくれる」と思った。だが、やってることはセルフパロディで、苦難の果てに庵野氏が刻んだ言葉は「モヨコLOVE!」で、身勝手な自身の過去の受容で、一方的な決別だった。

「大人の都合に子供を巻き込むのは気が引けるな」

 額面通りに「決着が付いた」とか「エヴァは最高のエンタメだったと」とか、気易く受け取るような人は良いだろう(それはそれで間違いではない)し、自分は「バーカバーカ!」と笑いながら指を指すような気分だが、“期待通りのもの”を得られなかった「14歳で止まってしまった少年少女」の憤りというものも分からなくはない。言ってみれば、ゲンドウに捨てられた幼少期のシンジみたいな状態だし、恐らく庵野氏は帰ってこない。

 20数年前の庵野氏当人にしても、仮にシンを観たとしたら「そんなの綺麗事だ」と認められないのではないだろうか。「それは見せかけなんだ。自分勝手な思い込みなんだ。祈りみたいなものなんだ。ずっと続くはずないんだ。いつかは裏切られるんだ。僕を、見捨てるんだ」と。

「でも、僕はもう一度会いたいと思った。その時の気持ちは本当だと思うから」

伊集院光と「いつまでも絶えることなく友だちでいよう」コーナー

 ただ、“期待通りのもの”を得られなかったことへの憤りを見るにつけ、脳裏に『伊集院光の深夜の馬鹿力』の「いつまでも絶えることなく友だちでいよう」コーナーで採用されていた「じゃあ、もうエヴァの新作はお前が作ればいいじゃん!」というネタが脳内にリフレインする。

 実際、「作る」ということが『シン・』ではフィーチャーされている。

 第3村で描かれる幼児や出産、成長、農業といった分かりやすいモチーフから、主題を「子を持つこと」や「肉体的体験への回帰」と読み解く人が少なくないようだが、それは物の見方として陳腐が過ぎる。庵野氏が農業好きには思えないし、相田ケンスケがアスカを「式波」呼びするあたり、がっついた肉体交渉を褒めそやす風でもない。

 肉体的充足を良しとするのは、むしろ「知を捨て、融和し、安寧に身を委ねよう」というゼーレや、「単独で完結している準完全生物」である使徒の信条だ。

 ジブリ的な自然回帰思想と取る人も散見されるが、第3村の労働が何のためにあるかと言えば、ヴィレの神殺し計画を支えるためだ。『天空の城ラピュタ』のような「人の手に余るテクノロジーは捨てよう」とか、『崖の上のポニョ』の「心地よい理想(妄想)に身を委ねることこそ幸福だ」とかとは対局に位置する。第3村の人々にしても、「生きるためには、お天道様に顔向けできんこともやった」ような「悪ズレした生き物」だろう。強いて言うなら、最も近いのは神殺しを支えるべく難民たちが働いている、『もののけ姫』のタタラ場だ。

 農耕の描写が意味するところの本質的なものは、補給直後にAAAヴンダークルーの食事に添えられた、切れっ端程度のオレンジと生野菜だろう。生活における、ほんのちょっとの瑞々しさというものは、名も知れぬ誰かの――時には、結実を見届けられず散っていった者の――仕事で作られている。また、それを作るには肉体を動かすしかない。

 アニメーション、特撮、漫画、ゲームなども、「生活における、ほんのちょっとの瑞々しさ」であり、それもまた肉体を動かさなければ産み出せない。肉体を動かすということ、仕事するということは、その成果物がまた誰かを動かし、完全には分かり合えない人間たちを連鎖的につないでいく。

 鑑みてみよう。カラーがドワンゴと、なぜ「日本アニメ(ーター)見本市」をやったのか。庵野氏が、「アニメーターだけがアニメを制作しているわけではない」として、(ーター)と括弧で囲んだことの、より深い真意は。なぜアヤナミレイ(仮称)は、小さなカブをもらったのか。

 逆に、手と頭を動かして「作る」ということの苦労を知らない者ほど、軽口を叩くものだ。もっと言えば、軽口を常とする者は楽観的自虐性と消極的加害性を持った敗北主義者に過ぎない。

「いいから口の前に手を動かせ!」
「駄目って言うな。奥まで探して!」
「無理って言うな。バイパス増やして!」
「弱音を吐くな。これだから若い男は!」

今日の日はさようなら また逢う日まで(3)

 『シン・』のラストシーン、再誕した世界(のイメージ?)の中で、駅のホームでベンチに座っていたシンジは、向かいのホームにレイとアスカの姿を見る。このパートの背景は実写の取り込みだ。

 実写パートは『旧劇』にも存在した。だが、それは人間を撮影したものであり、方法論としては「アニメーションの世界に現実を持ち込むため」だった。

 しかし、『シン・』の実写パートでは実写背景にアニメーションの人物が描き込まれている。「アニメーションに実写が入っている」のではなく「実写にアニメーションが入っている」と、逆転している。

 『新世紀エヴァンゲリオン』が拡散した今の現実は、もう90年代の現実とは異なる。「幻想を捨てて現実に帰れ!」と言ったところで、下手すると「幻想でこそ現実と向き合うことができ、現実は幻想に満ちてしまっている」という状態すらありうる。

>舞台外に放り出された綾波レイ(達)の姿はどうだったか?

 これはあくまで主観的な解釈だが、綾波レイを舞台外に放り出すというのは、『新世紀エヴァンゲリオン』しか持たないレイでも、『新世紀エヴァンゲリオン』が肥大化・異形化・形骸化・増殖した(そして抹殺された)現代では、現実を生きていけるということではないだろうか。また、レイの隣には渚カヲルの姿がある。劇中でも言及されるが、渚は地と海の境目だ。カヲルもまたエニグマティックな存在だが、その老獪ぶりならレイの保護者も務まるだろう――つまるところ、『新世紀エヴァンゲリオン』ばかり四半世紀も追っていた人間でも、『新世紀エヴァンゲリオン』を通して世の中と付き合っていけるはずだ、と。

 それくらい『新世紀エヴァンゲリオン』は、良く言えば一般化しているし、悪く言えば希釈されている。和田アキ子氏が綾波レイのコスプレをして、剛力彩芽氏が初号機のコスプレをして、桜 稲垣早希氏が「あんたバカァ?」と言えば笑いを取れる。山梨県・富士急ハイランドでは「EVANGELION: WORLD」、大阪・ユニバーサル・スタジオ・ジャパンでは「エヴァンゲリオン XRライド」や「ゴジラ対エヴァンゲリオン・ザ・リアル 4-D」、京都・東映太秦映画村では「エヴァンゲリオン京都基地」……稀代の衝撃的カルトアニメだった『新世紀エヴァンゲリオン』は、今や「ウキウキワクワクみんなだいすきエヴァンゲリオン」だ。

 シンジとマリが駅のホームを発つ後、カメラは上空に周り、駅舎から地上の人々を捉えつつ左にPANし、市街を舐めるように流れて“現実”を映す。カメラ中央から外されているので気付きにくいが、PANするカメラのスピードは線路上を走る列車とシンクロしている。この列車は実写でなく、作画(3DCG)で加筆されたものだ。乗っているのは、おそらく向かいのホームにいた彼女らと彼。カメラは、その後までは追わない。エヴァの呪縛から解放された彼女らと彼を乗せて、フレームの外へと去っていく。

碇シンジという庵野秀明氏と、エヴァの終わり

 あんのくんがげんきになってぼくはよかったとおもいます。
 ウルトラマンもすごくたのしみです。

総括:後

 個人的には、貞本版が終わった時に『新世紀エヴァンゲリオン』というものに対して自分の中でのケリが付いていたので、『シン・』に対しては「今日の庵野」的な見方をしていた。あんのくんがげんきになってぼくはよかったとおもいます。

 SNSには『新世紀エヴァンゲリオン』に毒された、自身を「14歳で止まってしまった少年少女」的なものと定義している人々が散見されるが、そういった子供じみた熱狂や妄執も、逆に大人気取りの冷笑や白眼視も、当時から今日まで理解しがたい。自分は碇シンジよりも年下のときに『少年エース』を読んでいて「凄いものが始まったぞ」と思い、加持リョウジよりも年上になった今「庵野監督、そこでモヨコとはやりますねえ」と感じている。エンタメをエンタメ以上ともエンタメ未満とも捉えないが、消費的なものとして捉えるわけではなく自分の中にある棚へとしまい込むような感覚だ。「エヴァンゲリオン大好き〜♡」みたいな人たちとは相容れないし、かと言って「エヴァンゲリオンの真実はカバラがフロイトがあーだこーだ」みたいな人たちとも相容れない。あと「エヴァンゲリオンは黙示録の真の預言! 我らが魂の救済!」みたいなのは論外。

 今の自分にとって、『新世紀エヴァンゲリオン』というのは「その程度」のものである。社会現象が巻き起こったって「その程度」のこと、何億何兆の経済効果があったって「その程度」のこと、たかが人間が四半世紀も惑わされたって「その程度」のことだ。そして「その程度」と思うと同時に、心中のビデオ棚にしっかりと『シン・』を収める。

 アニメや映画で何億人が死んだって、預かり知らぬ大恋愛が成就したって、すごいサイエンス・フィクションがあったって、ちょっと気分が良くなったり悪くなったりするだけで、『:Q』でシンジとカヲルが見上げた星空のように、環境は別段変わらない。周囲の環境を変えるには、自分の手と頭を動かすしかない。

 かく言う自分は、誰かが「生活における、ほんのちょっとの瑞々しさ」を届けるべく作った商業アニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』を遠因のひとつとして、だいぶワケのわからんところを右往左往している。手の中にはワケのわからんコントローラの基板があり、これは使いようによってはデカい列車すら動かせるらしいが、パーツや取説は不十分だし、対応した列車も本当にあるのか分からない。まあ、腰を落ち着けていても、真面目くさってダイヤ通りに走っていても、欲するものには到底辿り着けないから、ワケのわからん列車がバグった鉄路を走り出す日に備えるだけだが。

「すっげえ痛いけど、面白いから、いい!」

 エヴァンゲリオンは終わった。ただ「その程度」のものなので、自分の何を終わらせることもない。庵野氏も『シン・ウルトラマン』へと続く。自分は自分で続く。アニメも特撮もゲームも続いていく。線路は続くよ、どこまでも。

次回予告

(むせるメロディ)
 テーレーテーレテーテー テーレーテーテーテー♪

(影ナレ:三石琴乃)
 エヴァーの手を逃れた庵野を待っていたのは、また地獄だった。
 破壊の後に住み着いた欲望と暴力。
 百年戦争が生み出したソドムの街。
 悪徳と野心、頽廃と混沌とをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここは惑星ツブラヤのゴモラ。

 次回「怪獣殿下」。ゴモラなだけに。
 来週も庵野と地獄にサービスサービスぅ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?