黄色の花2

【柴田葵→俳句】「柚子の花君に目があり見開かれ(佐藤文香)」について

作りながら生きていくための同人『Qai〈クヮイ〉』

毎月一つのテーマについて、同人4人が順に書き綴ります(毎週日曜更新予定)

今月のテーマは「他詩形の気になる作品について語る」
Qaiのメンバーには詩人(亜久津歩)、俳人(箱森裕美、西川火尖)、歌人(柴田葵)がいます。それぞれのメインフィールドではない詩形の作品について、自由に語る企画です。

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今回は、短歌に取り組む柴田が、この俳句について書きたいと思います。

柚子の花君に目があり見開かれ
/佐藤文香

(句集「君に目があり見開かれ」より 港の人・2014年出版)

収録されている句集のタイトルにもなっている作品です。この句集が出版されてしばらく経ったころ、駆け出し短歌クラスタだった私は、Twitter上でこの句を目にしました。そして冗談でなく、目を見開きました。

最初にお断りしておくと、私は俳句についてはごく一般的な知識しかありません。短歌に取り組んでいる流れから俳句にもずっと興味はありましたが、縁あって詩人・俳人の方々と同人を組むことになり更に興味が増し、勉強したいと思いはじめたところです。というわけで、今回は「知識がない状態だからこそ語れるものがあるはずだ」という強引さで乗り切りたいと思います。知識は一度身につけちゃったら、身につける前の状態にはならないんです。そうだそうだ。

「柚子の花」を調べると、初夏の季語だそうです。柚子の花を「君」は見たのかもしれません。花は見えずとも、香りがしたのかもしれません。もしかしたら、実在する柚子の花ではなくて、何かの喩えなのかもしれません。柚子の花的な何か。そして、君は目を見開いた。
目を見開いた「君」とそれを見ている「私」がいます。私が君に抱く気持ちは、少なくとも好感だろうと読者は思います。もっと言うと、恋愛感情の可能性が高いような気がします。それは「柚子の花」という言葉の効果かもしれません。例えば、「柚子の花」ではなくて「冷奴」で目を見開いたら海原雄山だなあと思います。柚子の花の真っ白な可憐さ、柑橘系のなかでも苦味を伴う甘酸っぱさが「世界一短い詩」と言われる俳句のなかで「君」と「私」の関係性を表しています。

この「柚子の花」は、
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
/俵万智

(歌集「サラダ記念日」より 河出書房新社・1987年初版)
の「サラダ」だとも言えそうです。俵万智さん自身が著書の中でも語っている有名な話ですが、実際に恋人が褒めたのは手作りの「からあげ」だった。しかし、恋人に対する思い、若さ、初夏の雰囲気を表現するのに油モノはどうなのか。そこで歌にする際には「サラダ」にした。やはり、サラダであり、柚子の花でなければいけなかったのだと思います。

ここまで書きましたが、私が本当に書きたいのはここから。「君に目があり見開かれ」の部分です。

提示される情報としては「君は目を見開いた」だけです。「君は見開いた」だけでも目だとわかります。もしくは「見開かれ」とするならば、主語は主体である「私」ではないはずなので「君は」すら情報として必須ではありません。「柚子の花 見開かれた目」でも、情報はほぼ変わらない。
短歌でも、初心者の短歌を添削するコーナーなどで「これは言わなくてもわかる」と指摘され、語が削られるケースがよくあります。一首のなかで「食卓の椅子に腰掛ける」とすると八音/五音使いますが「食卓につく」なら七音だけで済みます。短歌は基本的な音数が定められているため、特に入門書などを読んでいると「その音数を有効につかわなければならない」という前提、強迫観念のようなものを感じることがあります。

俳句は短歌よりも短い十七音。そのうちの十二音を投じて、まず【君に目がある】こと、そして【見開かれた】ことを述べています。

君に目があるって!!!


「君」が動物なら、だいたい目があります。まず「君」という時点でおそらく人間だと読むのが自然です。

では、この部分は不要なのでしょうか?
そんなことはない!!!!!

俳句の十七音がその時の「私」の心だとしたら、柚子の花と【君に目があること、それが見開かれたこと】でもう溢れそうなほど一杯になってしまったのです。溢れそうっていうか、「見開かれ」という言いさし感、これはもう溢れています。他の情報が入る余地などないのです。【君に目がある】という馬鹿みたいに単純な気づき、【見開かれた】というほんの少しの変化で「私」の世界が埋めつくされてしまった。静かながら暴力的でもあり、ドラマチックで、嵐のようで、そんなことが一生に何度あるだろうと思います。もちろん(果実や樹ではなくて)柚子の花という開くものと、君の見開く目、私から感情が溢れ出す感情がすべて繋がって、重層的に響いていることは言うまでもありません。

俳句や短歌など「短詩」と呼ばれる文芸は、緻密にたくさんの情報を配することも、それを逆手に取ることもできる。
そうなると、自由詩はどうなのでしょうか。

同人Qaiは、詩人と俳人と歌人がいます。
新しい世界を知ることが、とても楽しみです。

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