見出し画像

通史で読み解く司馬史観5 「小牧・長久手の戦い」 戦国時代編 覇王の家 司馬遼太郎

戦国時代編で追いかけてきた斎藤道三、織田信長、明智光秀が、すでに歴史の舞台から退場し、残るは豊臣秀吉と徳川家康の二人になった。
ここまで通史で読み継いできた「国盗り物語」も「新太閤記」も卒業し、いまや「覇王の家」だけになった。

<前提>

今回の主役である豊臣秀吉と徳川家康は、後に「天下人とその大老」という主従関係になる。

ところがこの二人は、「本能寺の変」後に、一度だけ直接対決をしており、その戦いでは家康が勝利しているのだ。それが、1584年の小牧・長久手の戦いである。

家康は戦いに勝って、秀吉の政略に負けた。家康はその苦い勝利の味を、秀吉が死ぬまで14年も抱き続けることになる。

この直接対決はなぜか小説に登場することも少なく、映像化も少ないので、日本人の中に根付いていない。

さすが司馬遼太郎は「覇王の家」の下巻をほぼこの小牧・長久手の戦いの顛末について詳細に記述している。そこでこの「通史で読み解く司馬史観」でも、小牧・長久手の戦いを「安土桃山時代と徳川時代の分岐点」になる重大事件として扱ってみたい。

<背景>

前項「本能寺の変」で触れた当時の織田家臣団のなかに芽生えた「織田家支配構想=織田家中心国家・有力家臣の排除」は杞憂だった。
歴史的に観れば、信長亡き後、織田家中に、豊臣秀吉と徳川家康に対抗できる器量の人物はいなかった。実際には、「清須会議」以降、秀吉が巧妙に織田家のめぼしい候補の芽を摘んだ、とするのが正しいだろう。

本能寺の変で、織田家は信長だけでなく、後継者であった嫡男・信忠をも失った。清須会議は、その善後策のために開かれた。そこで織田家は割れる。織田信長の次男・信雄と、三男・信孝がどちらも後継者を主張して譲らない。もちろん秀吉は、その割れ目に付け込んだ。山崎の合戦で明智光秀への敵討ちを果たした勢いを借りて、亡くなった嫡男・信忠の忘れ形見の三法師(秀信)を推挙して、成功する。

最新の学説では、この嫡男・三法師(秀信)を後継とするのは、家臣団の一致であったらしい。だからこの清須会議のテーマは、その幼い三法師の名代を信雄、信孝のどちらかがするかだった、という。
いずれにしてもこの清須会議以降、織田家臣団のなかで、秀吉がさらに力を増大したのは変わらない。重臣筆頭の柴田勝家がそれをよしとするはずがない。当時3歳に過ぎない三法師を自分の傀儡にすることで天下への影響力を増した秀吉と、信孝を推して失敗した柴田勝家の差は開いていく。その後、幼い三法師を織田信孝が岐阜城で囲い込む。秀吉はこの機を逃さず信孝と勝家の謀反と断定し、織田信雄を織田家の家督に据える。そのことで秀吉と勝家は対立が深まり、賎ヶ岳の戦いが起こり、柴田勝家は敗け、秀吉の天下取りは決定的になる。

残るは、織田信雄となるのだが、そこに家康が取り入るのだ。当時、信雄と秀吉は密に結んでいたが、家康は策謀をこらし信雄と岡崎城で密会する。
これが今回の小牧・長久手の戦いの遠因となる。

清須会議からわずか数年で秀吉は自分の天下取りの設計を張り巡らす。その重要事項には、もちろん家康対策が入っている。秀吉による家康懐柔策は巧妙で、家康には従三位参議という、秀吉より上位の破格の位階を与えられたりする。しかし、家康はそれを無視する。「秀吉の天下は幻影の一夜城のように見えた。このような幻影は一撃すればこわれる、とも家康は踏んだ」、と司馬は記す。ここから秀吉と家康の駆け引きが始まる。

だが天下取りへの策略は、秀吉の仕込みの方が一枚上だった。織田信雄に対して秀吉は自ら「秀吉が信雄を殺そうとしている」という虚報を流すのだ。
人間が小さく単純な信雄はこの罠にかかる。正月の席で逆上して秀吉に対する宣戦布告の真似をしてしまう。

ところがここまでは、家康にも思うつぼで、信雄との共闘することで秀吉と一戦構える気であったのだ。百四十万石の家康と百七十万石の信雄が共闘してはじめて秀吉との勝ち目が見えるからであった。

面白いのは秀吉にとっても、信雄が秀吉戦に立ち上がることが是が非でも必要であったことだ。「織田家から天下の簒奪をそうと気づかさずに実行する」こと、それこそがこの時期の秀吉の一世一代の大事業であったからだ。

故に「この両者があらゆる手で信雄をそそのかす以上、この不覚人(信雄)が腰を浮き浮きとあがりはじめたのは当然のことであった」という記述が面白い。

じわじわと戦雲を呼び寄せる秀吉、そして織田信雄を盾に一戦を企む家康、両者の思惑は、濃尾平野の小牧長久手の地で衝突する。

<天下簒奪>

秀吉は、天下人として人気があるが、実際したことは明智光秀と同じく、「織田家からの天下の簒奪」である。
光秀は謀反でその簒奪を行い、結果、それに誰ひとり追随することなく早々に失脚した。後に家康は豊臣家から天下を簒奪するのだが、そこには同じく暗い闇が宿る。
「天下を奪う」とは、そういう薄汚く、陰惨な面を内包するものなのだ。

その天下の簒奪を秀吉は、大いなる明るさのもとで行ったから、快挙なのだ。同じ簒奪した天下取りであっても、そこに宿す暗さは微塵もない、そのくらい豊臣秀吉の天下取りは見事であった。

「この時期、秀吉というこの明るい大人気者が、その生涯において必死の奸謀をめぐらしたときだろう」
「無理がある。巨大な無理を、秀吉はこの時期やってのけねばならなかった。もともと天下構想などは一個の壮大な虚構であるとみなければならない。その大虚構を地につけるために一世一代の大悪謀をやってのける以外に、旧織田家の天下を簒奪することはできない」

<司馬の秀吉評と家康評>

司馬遼太郎は関西出身なので、秀吉に肩入れしていると言われている。特に新太閤記が天下取りの過程で終わり、朝鮮出兵などに言及しない点が理由に挙げられる。
また、徳川家康を田舎者扱いして、京都の情報に疎いために、決定的に秀吉に後れを取ったとする記載が多く、その点でもこの説を裏付けるという。

通史で司馬遼太郎を追い続けていくと、長く続いた戦乱の室町時代と、人間の欲に着目して、身分や家柄からの人間解放を目指した織豊時代と、京から離れた江戸に閉鎖的な武士政権を作り上げた徳川幕府時代という3層が見えてくる。
そしてこの日本史に残る天下の興亡は、濃尾平野から近畿圏という、非常に狭いエリアに集中した。その地から離れた武田信玄や上杉謙信、伊達政宗には渦の中心に入ることすらできなかった。

結局、天下取りを成し遂げたのは、豊臣秀吉と徳川家康の二人だけ。
司馬はその二人をこう表現する。「生涯を一夜城にした手品師・秀吉」と「敗けから学ぶ独創性ゼロの男・家康」。

下剋上という伝統の破壊を象徴した斎藤道三。その「人の欲望を操作して勝つ」という功利主義的な近代意識は、織田信長を経て尾張衆に受け継がれ、家柄などまるでなくてもその才覚だけで取り立てられ、その後革新に次ぐ革新を繰り出す豊臣秀吉を生んだ。
その欲望操作はいつしか暴走して、当の秀吉にも制止が効かない武力拡大を招き、世界最高戦闘集団の自負を増長させアジア侵略の夢を抱き朝鮮半島派兵に至る。
まさに、後の太平洋戦争と同じく、暴走する日本人の根幹がここにある。
これが「生涯を一夜城にした手品師」の人生である。

こうした近代意識や革新の反動として、徳川家支配を描くのが司馬の狙いだと思われる。
利に敏い尾張衆に対して、三河衆は、鎌倉武士的な質実剛健、功利に浅く、忠誠心に富む。半面、風通しが悪く、陰湿で姑息だったと気風を書く。
この三河の田舎者の棟梁は、幼いころの人質経験や信長の命令で妻子を奪われた過去から学び、さらに多くの敗戦から学んだ。
特に信玄の西上作戦の際、三方ヶ原の戦いで大負けしたことを反省し、信玄亡き後、甲州勢を徳川方に引き抜き、武装をすべて甲州式に改めた。
秀吉との一戦では信長を苦しめた足利義満の包囲作戦を真似る。そして関が原ではこの小牧長久手の秀吉の作戦を真似る。
また政治については、信長、秀吉を半面教師として英雄的専決を決してせず、総意を求めた。まさに「独創性ゼロの男」なのだ。

家康のこうした背景や人柄が、江戸幕府の「鎖国」を呼んだと司馬は評する。
「三河衆の絶対的統一とは、裏を返せばそれだけに閉鎖的で、後に日本国そのものを「三河的世界」として、外国との接触をおそれ、世界的な大航海時代において、外来文化をすべて拒否するという怪奇としか言いようのない政治方針を打ち出した」

歴史的には、この徳川幕府の閉鎖社会だからこそ安定が生まれ、固定された身分制度のなかで反政府的な動きを制し、豊かで平和な社会を運営することで、中世においては世にもまれな庶民文化や高い識字率を生み出すのだが、世界に対して致命的な遅れを取ったのは事実である。

この低位な安定と世界的な進化からの遅れが、後の明治政府の異常なキャッチアップ戦略を招き、ついには太平洋戦争に突入していくというが、司馬の本意ではないだろうか。

<戦いの行方>

さて、簡単に小牧長久手の戦いをサマリーする。

秀吉と家康の調略合戦で、織田家の最後の砦は翻弄される。戦いの火ぶたは織田信雄が切る。秀吉に宣戦布告し、家康のもとへ走る。家康はそれを喜んで向かい入れ、濃尾平野を舞台にした戦争の準備をする。「義」による応援を頼み、秀吉を包囲する策をめぐらす。
秀吉は、利によって軍をまとめなければならず、朝廷を巻き込んで「利」の包囲網を引いた。
この「義」と「利」の戦いは、「小牧山と申す丘」で激突する。当時最強と言われた信玄の軍を吸収した家康が武力に任せて緒戦をもぎ取る。司馬はこの戦の明暗を分けたのは、徳川軍の「切り捨て命令」にあったとする。

当時の戦闘における「利」の基準は、敵将の首級を上げることであり、恩賞はそれでポイント加算された。この「切り捨て命令」は、その根幹を無視したオーダーである。つまり「功利性の一時停止」を意味した。「利によって集まった軍団」である秀吉軍には絶対に採用しようがない作戦だが、「義」で集まる三河衆はそれをやってのけた。そこに「義」が「利」に勝つ一筋の道があったのだ。

家康は長久手の戦いに勝った。

その後、戦局は小牧山を巡る馬房柵に囲まれた持久戦になる。これも武田勝頼と織田信長の長篠の戦いに家康が学んだものだ。勝頼はこれを突撃して自滅した。それを知る秀吉がとり得る手は同じく馬房柵をめぐらすことだった。秀吉は、策に策を重ねて家康を誘いだそうとするが、泰然自若の家康はやすやすと乗らない。時だけが過ぎてゆく。

この長期戦を良しとできないのは秀吉の方であった。「せっかくの天下にひびが入る」と思い、狙いを家康から、信雄に変える。
秀吉の新戦略は「家康の同盟者である織田信雄という男を立ち枯れに枯れさせてしまえ」であった。

結局、信雄はあっさりと秀吉と和睦する。このとき、信雄は同盟者の家康に相談もしていない。まさに単独講和である。
「貴人、情を知らず」と司馬は書く。尾張集は三河衆を犠牲にすることで物事を治めてきたのである、信雄にしては信長と同じことをしただけなのだ。

戦闘は「義」によって決したが、戦争は「利」によって動くのだ。その利については、誰よりも秀吉が知り抜いていた。

この時に「家康は激怒すべきであったであろう」が、それをせず、家老酒井忠次が進言する北条氏との関係強化もしなかった。
「理由はない。家康がその前半生においてときどき見せてきた絶望的な思い切りが、このときにも現れた。家康は元来が利害計算のたくましい男であり、その頭脳は常にその計算で旋回したが、しかし利害計算の及ばぬ絶体絶命の極所に立ち至ったとき、この男は少年のように初々しい自尊心と少年のような果敢な勇気を見せるのである」と司馬は書く。

結果、家康は、戦闘に勝って、天下取りという戦争に負けた。

<家康の黙殺>

小牧長久手の戦いの後の2年間、天下が豊臣秀吉のものになっていく過程で、不思議なことに徳川家康は秀吉に降らなかった。

「戦勝者が、戦敗者に臣従するというようなことは古今、聞き及ばず」が「浜松評定」における決定だった。これにより「秀吉を相手にせず」の外交政策がとられた。この評定には、異例なことに北条氏からも出席を得ている。

そして2年、秀吉の天下が定まっても、家康は京に上らないという外交上の異例な事態が過ぎ去る。秀吉は最後の策を差し出す。家康に対して、姉の嫁入り、それに伴い母までを人質に差し出す。なりふり構わぬ「利」の献上である。

最終的には、この決断によって、秀吉と家康は「天下人とその大老」という主従関係になる。ところが、司馬は、「覇王の家」はその関係を描かずに、大坂夏の陣の後にワープする。


もちろん秀吉はこの世になく、家康も七十四歳となっている。徳川十五代の基礎を築いた男の一生もこの年に終わる。

この省略は新太閤記に同じ構造を取る。大事なのは、小牧長久手の戦いを巡る攻防なのだ。それが戦国時代の趨勢を決めた。通史で読み解く司馬史観もこれにて「戦国時代編」を読み修めとする。

補足

この後、「関が原」を読み継ぎ、その後、「幕末・明治編」につなごうと構想している。また機会があればお読みください。


ご愛読いただきありがとうございます。 テーマごとにマガジンにまとめていますので、他の気になる記事も読んでいただければ幸いです。