見出し画像

通史で読み解く司馬史観2  戦国時代編「信長と光秀編」国盗り物語 司馬遼太郎

「通史で読み解く司馬史観」、この読み解きは、道三、信長、光秀、秀吉、家康などの思惑を裏と表の両側面から、登場人物を入れ替えながら続いていく。

前回の読み解きの主人公だった斎藤道三から、今回の光秀と信長の評。
「光秀は、ゆくゆくは天下の軍を動かす器量がある。わしは一生のうちずいぶんと男というものを見てきたが、その中でも大器量の者は、尾張の信長と我が甥光秀しかいない。(中略) ひろく天下を歩き、見聞をひろめ、わしがなさんとしたところを継げ」

天下布武

さて戦国時代編は「天下布武」を巡る話だ。

中世の構造改革に手をつけた斎藤道三。その直系の弟子・明智光秀と、道三から濃姫を得て婿になった織田信長のふたりが、互いの思う「天下布武」にむかって行動を起こす。

明智光秀は、足利幕府の伝統と、織田信長の革新の狭間で揺れる、道三の愛弟子である。光秀は、あくまで伝統に則り、足利幕府による天下布武を構想する。しかし戦国時代を経たこの時代の地域大名たちは、なにもいまさら足利幕府に頼る必要はないと気づき始めていた。そしてそうした幕府軽視の土壌から信長が躍り出てくるのである。
だからこの後、この二人の間には、「足利将軍」を巡る同床異夢のかけ違いが生まれていくのだ。 

織田信長は中世の破壊者である。

「国盗り物語」の第3巻は吉報師、若き織田信長の登場で始まる。
そこでは、尋常ではないカブいた美意識の持ち主とされている。徹底した合理主義と前衛精神による、おかしな風体と行動が幼少期の信長の特徴である。それが「うつけ」と呼ばれた原因だった。
このうつけ話を密偵から聞いて美濃の斎藤道三は濃姫を嫁に出すことにした。うつけならそのまま美濃を飲み込めばよいという蝮らしい算段である。
しかし、うつけはうつけでも、この信長のうつけはレベルが違っていた。今でいうなら、いわゆる不可知論の態度を極めており、なんでも自分で実証しないと気が済まない。すべての前例を排するという徹底した科学的なアプローチだったのだ。
この尾張の信長に嫁に出されたのが濃姫(帰蝶)である。 明智光秀とは、道三と小見の方を通す、いとこ同士という設定になっている。これは「麒麟がくる」でも同じ設定なのだが、実際の明智光秀の素性は明らかではない。司馬遼太郎のなかでは、道三は子供時代からこの聡明な甥・光秀を可愛がったとされる。

さて、吉報師・信長の転機は父織田信秀の急死にあった。わずか42歳、信長はこの年、数えで18歳に過ぎなかった。その死は未熟な信長を戦国時代の渦中に叩き込むことになる。このとき「お父は身勝手だ」と罵る信長に対する、司馬遼太郎の評が信長の特徴を捉えている。

「もともとこの男は自分の思っている構想どおりに事が進まぬと、物狂わしいほどに腹が立つ性癖がある」。結局、信長はこの物狂わしいほどに腹を立てる性癖のために、部下から反感を買い、裏切られ続け、最後は謀反で死ぬのだ。

斎藤道三はこの娘婿・織田信長に一度だけ会ったことがある。聖徳寺の話である。道三がこのときの信長の行軍を盗み見るという場面は、大河ドラマでは「国盗り物語」でも、「麒麟がくる」でも描かれた。公式の 会見の記録では「デアルカ」と信長が一言だけ言い、二人は湯漬けを食したとある。この聖徳寺での会見以降、信長の後見人は斎藤道三になる。信長は、これによって道三から、実父・織田信秀からよりも厚い信頼を得たといえる。

「やがておれの子等は、あのたわけ殿の門前に馬をつなぐことだろう」という道三の予言は、「美濃における道三の敵討ち」という皮肉な形で的中することになる。斎藤道三は、こうして織田信長と、明智光秀という愛弟子を二人持つことになる。そして道三の革新の志は信長に、道三の保守の志は光秀に受け継がれていく。

その斎藤道三が跡目争いで義竜に倒されてから、信長は美濃攻めを何度も謀るが失敗をし続ける。信長はそんな時に堺に行く。 当時の堺は南蛮渡来の宣教師が「ベニス市のごとく市政官によって治められている」と評するくらい、近代化されて自由だった。 
南蛮の海外貿易のすさまじさに圧倒されながら、「日本制覇」の先に「海外進出」の志を掲げる、信長。
信長の「天下布武」は、日本に閉じていなかったのだ。当時、宣教師たちはこの時代の戦国大名に鉄砲だけでなく、世界地図を含めありとあらゆる大航海時代の証を紹介している。世界制覇という野望を抱くものが現れなかったと誰が決められよう。鎖国の江戸時代があまりに長かった為に、信長のこの海外志向を見落として評価するのが、日本人の悪い癖だと思う。日本における「天下布武」を最終目標などではなく単なる通過点に過ぎないとした織田信長の構想の巨大さに、明智光秀も、徳川家康も、そして朝鮮出兵をした豊臣秀吉すらも届かなかっただけなのだ。

その織田信長のスタイルは、人の欲を利用した斎藤道三の新国家のイメージを膨らませ、彼が楽市楽座ではじめた「投資と回収」という経済モデルで国家運営を行うという真に革命的な思想だった。悲しいかな、この革命的な国家経営モデルを完全に理解した後継者はいなかった。それは秀吉も家康も及ばない独創性だったのだ。加えて、この信長時代の戦闘能力の高さは、宣教師たちも本国に驚きをもって報告しているように、アジアナンバーワン、もしかしたら列強とも伍す可能性があったのだ。

この織田信長の経済モデルの革新性に、その戦闘能力を掛け合わせて、世界に乗り出していたら、という「歴史のif」を夢見てしまうのはいけないことだろうか。織田信長の急逝、それが惜しむらくも、日本の世界デビューを致命的に遅らせた要因だと思うのである。

明智光秀の大望

さて織田信長側の流れを見たならば、同時に明智光秀の動向にも目を配らないと面白くないだろう。

斎藤道三の没後、国を追われた明智光秀は、足利家の幕僚の細川藤孝と懇意になり、幕府再興を契る。そこで越前の一乗谷に向かうが、旧態依然とした朝倉家での任官は叶わない。越前での生活は窮して、病も得る。
司馬は書く「光秀の野望は一つである。幕府を中興せねばならぬ。京で虚位を擁するに過ぎぬ足利将軍家に天下の権をとりもどさせ、むかしどおりの武家の頭領としての威信を回復し、諸国の兵馬を統一し、それによって戦乱をおのが手におさめてみたい」この当時の光秀の大望と現実には大きな乖離があった。真面目な光秀は荒んだ京都を憐んでおり、心の底から救いたかった。時の将軍、足利義輝は、三好長慶と松永久秀に権力を奪われていた。この窮状を救い、「将軍に志を通じ将軍を協け、将軍の命のもとに諸大名を糾合し、将軍の命によって服せぬ諸大名を討ち平らげる大名のみ、天下を統一する者」と考えていた。
こうした光秀の真摯な思いがついに足利義輝に届き、越前朝倉氏と幕府のパイプ役として働き始める。ところがそこへ将軍義輝の暗殺の報が届く。主犯は松永弾正久永である。こうして、次の将軍候補を巡って、明智光秀と織田信長の運命が交錯する。次回は、この「明智光秀と織田信長の運命の交錯」をテーマにしよう。これが「通史で読み解く司馬史観」の醍醐味である。

信長と足利義昭の上洛の場面から、本能寺の変までを、信長側と光秀側の双方の正義を見つめていく。そして、そこに豊臣秀吉が絡んでくる。この3人の接点を確認してみたい。


関連リンク:1冊1P  司馬遼太郎史観「戦国時代」

https://note.com/q_do/n/n436b1c43c81e?magazine_key=m07ef02f58364


ご愛読いただきありがとうございます。 テーマごとにマガジンにまとめていますので、他の気になる記事も読んでいただければ幸いです。