音を奏でること

私は子供の時、言葉を話すようになる前から歌を歌っていたらしい。
テレビやレコードから流れてくる歌を聴くことが大好きだった。

そして、それに併せてよく一緒に大声で歌っていた。

ピアノを弾くようになったのは、自分の意思ではなく両親の勧めで、3歳の時から習っていたらしい。とても厳しい先生だったので楽しくピアノのレッスンを受けた、という記憶は残念ながらないのだけど、ピアノを弾く事は好きだと思って育った。

厳しい先生のレッスンについていくのは大変で、いつも怒られていたし、上手な子が多いピアノ教室だったのでどちらかというと落ちこぼれ組だったけれどピアノはいつも自分の側にあった。

中学2年生の3学期に突然、父が事業で失敗をして全てを失ってしまうまでは。

その時の経緯、家族の話は色々とかなり複雑なのだけど、私個人に起こった事で今語れる事は、いわゆる「夜逃げ」同然の突然の引越をすることになり学校の友人達にお別れも言えずに転校しなくてはならなくなったことと、ピアノを置いて逃げて来たということだ。小さかったけれどグランドピアノと呼ばれるもので、とても愛着があり、毎日毎日弾いて親しんでいた楽器を突然失ったことは、友人達との別れと同じくらい悲しいことだった。

けれどもその悲しみ、喪失感はそんなに長くは続かなかった。転校先の中学校にブラスバンド部があり、そこでサクソフォンとフルートを吹かせてもらったのだ。学校にこんな素敵な楽器があるなんて、それまでピアノこそが楽器!と思い込んできた私にとって全然知らない、新しい世界だった。

なにより私の心を捉えたのは人と一緒に演奏出来る楽しさだった。

それまで、私は人と一緒に演奏することを殆どせずに来たのだ。その原因にはもう、今となってはどう考えても「間違った」ピアノ教育があった。

小学生の頃、音楽の先生に歌を褒められて合唱部に推薦されたことがあった。合唱コンクールに毎年出場するなど熱心に活動している合唱部で、指導の先生も子供の音楽教育を真剣に考え、学校活動の色々な場面に音楽を取り入れてくれたり、楽しく工夫された授業をしてくれるなど、素晴らしい先生で子供心にも尊敬していた先生だった。だけどその合唱部には私は参加出来なかった。合唱部の練習は放課後で、その時の私のピアノの先生は子供が放課後課外活動をする事を許してくれなかったし、「正しくない音楽」の演奏に子供が参加する事を嫌ったのだった。古い体制のクラッシック音楽の世界を、クラッシック音楽だけを、または自分の信じる演奏法だけを「正しい音楽」と信じている先生の、おかしな論理に子供がかなうわけもなく、私は合唱部で歌うことを諦めた。そして気の小さい、素直で従順な子供だった私は、仲間と一緒に音楽を奏でるということにその時点から全て蓋をしたのだ。

その後の私はただひたすら一人でピアノを弾いた。来る日も来る日もエチュードをさらい、課題曲をさらった。だけど小学校を卒業する頃から私のピアノはちっとも上達しなくなった。練習しても練習してもうまくならない、エチュードは一向に先へ進まず、コンクールでも他の同じピアノ教室の子が良い点数をとる中で一人落第点。親や先生は落胆していたけれど私はあまり気にせず、ただ練習し続けた。自分の部屋に置いてもらった可愛らしいピアノを弾く時間が大切な時間だったことは変わりなかったのだ。

ところがそのピアノが突然無くなって、音楽が毎日の生活から無くなった。実のところ14歳の私がそこで感じたのはとてつもない解放感だった。もちろんピアノが無くなったことは最初とても悲しかった、大好きな友達のようなピアノがいなくなってしまったことに大変な喪失感を持った。でもそのあとにやってきたのは解放感だ。とてもすっきりしたのだ。もう毎日ピアノを練習しなくても良い、友達のうちに遊びに行って遅くなるとピアノの練習が出来ない、、と心配しなくて良い、コンクールまでに課題曲を仕上げなくちゃと焦らなくて良い、レッスンで先生のガッカリする顔を見なくても良い。そして私はピアノのことを忘れた。

続く




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