[処女は恥ずかしい?]処女の歴史③日本人の恋愛と結婚・大正の「皆婚」時代と自由恋愛
こんにちは。40代で「彼氏いない歴=年齢」&「おひとりさま」の占い師(占いカウンセラー)・可憐(かれん)です。
前回は、明治時代における、恋愛や結婚のスタイルを見ることで、処女の歴史を振り返りました(→前回の記事はコチラ)。
今回はその続き、大正時代の恋愛、結婚、処女の歴史をお送りします。
大正時代(1912~1926年)
「大正デモクラシー」とは、明治以来のさまざまな制度や思想に対して改革を求める、政治・社会・文化などのあらゆる面に現れた、民主主義的・自由主義的な風潮のことです。
なお「大正ロマン」という言葉は、昭和の1960~70年代頃に言われるようになったと考えられています。
「大正ロマン」が意味するものは、西洋文化の影響を受けた新しいモダンなファッション、文学や絵画、建築など、自由で開放的な芸術といった、当時の趣を伝える思潮や文化事象です(Wikipediaより)。
「皆婚」時代
それまでの結婚といえば、明治時代で既述の通り、
・明治民法が定めた家父長制的な家制度のもとで行われる
・女性は家長や親の同意がなければ結婚できない
・家長や親が決めた男性に嫁がなければならない
そのため、「結婚しない」という選択肢はほぼありませんでした。
その結果、大正時代には国民のほぼ全員が結婚する「皆婚」時代となります。
大正14年(1925年)には50歳までに結婚したことがない男女がそれぞれ2%*を切っていました。つまり、98%以上の男女ほぼ全員が、生涯で一度は誰かと結婚を経験していたのです。
*生涯未婚率(45~49歳と50~54歳の未婚率の平均値)
1920年:男性2.2% 女性1.8%
1930年:男性1.7% 女性1.5%
(牛窪恵『恋愛結婚の終焉』光文社新書 2023年p.34)
自由恋愛へのあこがれ
そんな状況ではありますが、自由で開放的な「大正デモクラシー」「大正ロマン」の空気の中、自由恋愛や恋愛結婚へのあこがれも高まります。
明治時代、「LOVE」という言葉を初めて「恋愛」と解釈した北村透谷は、恋人と恋愛の末に結婚(1888年)。著書でも今日の恋愛結婚につながる流れを打ち出しました。
さらに大正時代には、英文学者の厨川白村(くりやがわはくそん)が、『近代の恋愛観』(大正10年1921年)で、新しい恋愛を主張します。
白村は「恋愛は精神的な情熱がすべて」という恋愛至上主義を唱えます。セックスは性的欲求と切り離され、恋愛感情があって行われるべき、と肉体的な恋愛を否定。
そして、愛のない結婚はナンセンス。女性が生活の安定のために結婚するのは「奴隷的売淫生活」と非難。「恋愛の先に結婚があること」を理想としたのです。
この著作はベストセラーになり、大正時代の人々の恋愛観に大きな影響を与えます。
平塚らいてう
大正時代には、自由恋愛を自ら実践し、当時の恋愛観に大きな影響を与えた女性もいました。
日本の女性史、フェミニズムの歴史で必ず名前が上がる、平塚らいてうがその1人。
思想家、評論家、作家、女性解放運動家、社会運動家など、さまざまな肩書きで呼ばれる彼女は、明治の末、明治44年(1911年)に、女性が編集する女性のための文芸雑誌『青鞜』を創刊します。
『青鞜』創刊号に掲載された彼女の次の文章は、女性の自由解放宣言として有名です。
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。(以下略)」
太陽とは自ら発光して輝く存在ですが、月は太陽の光を受けて輝きます。つまり、女性は男性に依存して生き、男性がいなければ輝けない、ということ。
らいてうは家父長制的な家制度に疑問を抱き、恋愛と結婚の自由を説き、女性解放を目的として、さまざまな活動を行いました。
プライベートでは、夏目漱石の門下生の作家と心中未遂事件を起こしたり、年下の画家と恋愛、同棲するも入籍せず、夫婦別姓で事実婚のスタイルを取ったり、生まれた子どもは私生児とするなど(のちに自分の戸籍に入れる)、まさに自由恋愛に生き、当時の恋愛観に大きな影響を与えました。
与謝野晶子
『青鞜』の創刊号に、
「山の動く日来たる (略) すべて眠りし女(おなご) 今ぞ目覚めて動くなる」
で始まる「そぞろごと」という詩を寄せたのが、歌人の与謝野晶子です。
まだ恋愛結婚がめずらしかった時代に、晶子は与謝野鉄幹との不倫を貫き、妻からの略奪婚を成就させ、13人の子をもうけます。
歌集『みだれ髪』の中で有名な歌が、
「やは肌(※柔肌)のあつき血汐(ちしお)にふれも見で さびしからずや道を説く君」
(現代の歌人・俵万智の現代語訳:燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの)
当時はまだ、女性が性愛を表現するなど考えられなかった時代。
このような情熱的で官能的な作風の歌を作った晶子は、歌壇に多大な影響を与え、世間の注目も浴びました。
「処女信仰」
恋愛は情熱的で、夫・鉄幹との性・生殖には積極的で、13人の子を産んだ与謝野晶子。
しかし意外に思われるかもしれませんが、貞操には厳しく、処女の純潔を重んじる人でした。
「私の貞操は道徳でない、私の貞操は趣味である、信仰である、潔癖である」
と雑誌(『太陽』大正4年1915年)に寄稿します。
また、「処女には性欲が無い」とも書いています(「私の貞操観」『女子文壇』明治44年1911年)。
そんな晶子は、平塚らいてうが結婚する前に処女ではなかった、と聞いて落胆。「涙がにじんで来る」と雑誌(『中央公論』大正2年1913年)に書いて、らいてうを追及します。
今なら、インフルエンサーがSNSやYouTubeで、別のインフルエンサーを非難、みたいな感じでしょうか?
「処女喪失」文学
明治44年(1911年)に、平塚らいてうが創刊した、女性のための文芸雑誌『青鞜』。
これに、田村俊子の『生血(いきち)』(明治44年1911年)という小説が載ります。処女喪失を題材にした作品です。
「夜這い」はどう変化したか?
さて、上記は都会の進んだ「新しい女」たちの様子。
それに対して、地方の様子はどうだったのでしょうか?
地方での「夜這い」は明治、大正期になっても続いていました。
前々回の記事で、江戸時代、地方の農村部では、「若者宿」や「娘宿」で、公然と「夜這い」が恋愛や結婚の手段として行われていた、と書きました。
(「江戸時代・庶民の夜這い」はコチラ )
地方の村落では、子どもが産まれなければ次世代の働き手がいなくなるので、村が存続しなくなる。そのため、周囲の大人たちが結婚を推奨し、年頃の男子女子たちを「一人前」の大人にするために、彼らの恋愛や結婚を後押ししていた模様。
これは民俗学者・赤松啓介の『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』によって書かれたもので、「男性からの夜這い行為に対して、女性は拒否権があった」とされています。
夜這いについては、NHKのこの番組でも。
「夜這いは拒否できた。男が夜、やってきたら、家族が守ってくれた」などという証言もあります。
2024夏号(2)「夜ばい」「男のモテ」 - はなしちゃお! 〜性と生の学問〜 - NHK
しかし、現代で「夜這い」といったら、強姦・レイプのような行為をイメージする人が多いのでは?
その理由がこちらです。
つまり、「夜這い」は、古代(奈良・平安時代)では男性が女性のもとに通う「妻問い婚」という結婚のスタイルを指しました。
しかし、中世(鎌倉・室町時代頃)以降、女性が男性の家に嫁す「嫁入り婚」が普及してからは、「夜這い」は強姦・レイプまがいの、いかがわしい、不道徳なことを意味するようになった。
けれども、地方の村落では明治、大正期まで、恋愛や結婚のスタイルとして公然と行われていたところもあった、ということ。
夜這いの証言
宇野千代の自伝『生きていく私』(昭和58年1983年刊行)には、まだ10代の頃の宇野が、村の男に夜這いをかけられて処女を失ったときの体験がつづられています。
宇野は明治30年(1897年)、山口県の生まれ。14歳で義母の姉の子(いとこ)と結婚しますが、10日ほどで実家へ帰っています。
宇野千代といえば、作家、編集者、着物デザイナー、実業家など、多才で知られ、また恋多き女性としても有名です。作家の尾崎士郎、洋画家の東郷青児、作家の北原武夫らと結婚したり、他の男性たちとも恋愛したり。
もともと腕力や体格などでは女性は男性には及びません。そこに家父長制的な権力構造や、「目上の人には従うべし」という道徳教育があれば、拒否することはむずかしいでしょう。
よって、夜這いは、
・地方の村落では大人たちが若者の恋愛や結婚を後押しするため、公然と行われていたケースもあった
・女性が拒否・拒絶したり、家族が守ってくれたりしたケースもあった
・いかがわしい、不道徳な行為として強引に行われるケースもあった
と思われます。
地方の貞操観念
さらに、地方の女性の性道徳について、以下のような資料が残されています。
関東大震災の翌年、大正13年(1924年)の『婦人公論』に、作家・柳川武彦による「処女の尊さを知らぬ地方の処女に与う」という文章が載ります。
これには、震災によって東京から地方へ引っ越した柳川が、地方の若い女性の性道徳が乱れていることを知り、他の地方についても調べた内容が書かれています。
それによると、
・移り住んだ地の未婚女性達は貞操観念が薄く、「平然として婚前の身で、花恥しきその腕を若者に任せ」ていた
・「婚前に男を知って置くことを、結婚の一つの資格と考えている」という地域もあると知る
・祭の晩に若い男女が関係を持つ習慣がある地域もある
(※盆踊りの後に乱交パーティのようになった地域もあったとか)
・娘が十五歳になったら男を知らないのは恥だとされる地もある
地方で公然と行われていた、恋愛や結婚の手段としての「夜這い」。
その風習、習俗、慣例、ルールが村社会によってさまざまだったのでしょう。
それらが、都会の文化人である柳川の目には野蛮な因習に見えた。そして、地方の若い女性たちは貞操観念を強く持ち、「近代人としての自覚」を深めるべき、と警鐘を鳴らしたのです。
大正期の文化人たち
では、それに対して、都会の文化人たちは貞操観念を強く持ち、自由恋愛を謳歌して幸せになっていたのでしょうか?
この時代、既婚の伯爵令嬢・柳原白蓮が年下の男性との熱烈な恋愛の末に駆け落ちし、夫に対する離縁状を新聞に発表(白蓮事件)。世間の非難を浴びながらも、自由恋愛を実らせたケースもありました。
しかし、恋愛は人を悩ませ、場合によっては心を狂わせるもの。
大正時代には、自由恋愛の流行による弊害、負の側面も見られるようになります。
作家や芸術家といった文化人の間で、薬物依存や自傷行為、自殺、失踪、心中などのスキャンダルが多発したのです。
例:
・詩人の北原白秋が、夫と別居中の人妻と恋愛し、姦通罪で告訴される
・「命短し恋せよ乙女」(ゴンドラの唄)と歌った女優の松井須磨子が、妻子ある劇作家の島村抱月と恋愛関係に。須磨子は抱月が病死した後、彼の後を追って自殺
・無政府主義者の大杉栄をめぐり、『青鞜』編集者の伊藤野枝、大杉の妻、そしてもう1人の女性が四角関係に。そのもう1人の女性が大杉を刺して重傷を負わせる(葉山「日蔭茶屋事件」)
・伊藤野枝と大杉栄夫妻が憲兵隊に虐殺される(甘粕事件)
・小説家の有島武郎が女性誌『婦人公論』の既婚の女性記者と心中
・大正ロマンを代表する画家の竹久夢二には数々の恋愛遍歴があるが、同棲中の恋人が自殺未遂をする
おわりに
明治・大正時代をまとめると、
・明治民法により、家父長制的な家制度のもと、家長や親が決めた相手と結婚しなくてはならなくなった
・「女性は結婚するまで処女でいるもの」が常識。固く信じている人もいる。キリスト教の影響もある
・地方では各地の村社会のローカルルールにもとづいて、夜這いも含め、さまざまな恋愛や結婚のスタイルがあった
・そこでは結婚する前に処女を奪われることも当然のようにあった
・そして大正時代(1920年代)に、国民の98%が結婚する「皆婚」時代になった
・そんな、「結婚しない」という選択肢がほぼなかった時代に、女性解放を目指す動きや、自由恋愛の気運も高まった
日本人の恋愛と結婚は、この後、昭和に入り、どうなっていくのでしょう?
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さて、長くなりましたので、今回はここまで。
大正時代を振り返りました。
次は、昭和初期の「恋愛、結婚、処女の歴史」をお送りします。
つづきはコチラ
●参考文献
酒井順子『処女の道程』新潮社 2021年
牛窪恵『恋愛結婚の終焉』光文社新書 2023年
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龍泉寺可憐|40代で「彼氏いない歴=年齢」&「おひとりさま」の占い師(占いカウンセラー)
新卒で出版社に勤務
親の介護&コロナで働けなくなってから派遣で図書館に勤務
ライターとしても活動
電話占い師として1年で老若男女のべ750人鑑定
現在、占いカウンセラーとして「彼氏いない歴=年齢」・「おひとりさま」の女性のお悩み相談に乗ってます
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