[処女は恥ずかしい?]処女の歴史②日本人の恋愛と結婚・明治民法による家父長制的な結婚
こんにちは。40代で「彼氏いない歴=年齢」&「おひとりさま」の占い師(占いカウンセラー)・可憐(かれん)です。
前回は、奈良、平安、鎌倉、戦国、江戸時代における、恋愛や結婚のスタイルを見ることで、処女の歴史を振り返りました(→前回の記事はコチラ)。
今回はその続き、明治時代の恋愛、結婚、処女の歴史をお送りします。
明治時代(1868~1912年)
明治維新により、日本はガラリと変わります。
政治的には、江戸幕府が倒れて、武士の世は終わり、天皇を中心とする新政府が成立。富国強兵が推し進められたり、憲法ができたりしました(大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法。明治22年[1889年]発布)。
社会的には、西洋文明を積極的に取り入れ(文明開化)、多くの改革が行われました。
たとえば、以下のようなことが、今から130~150年くらい前の1870~1898年頃の明治時代に決められたのです。
苗字・姓を持つ
江戸時代には、農民や町民には「苗字(みょうじ)・姓=氏(うじ)」の使用は許されていませんでした。
しかし、明治3年(1870年)、平民にも氏の使用が許され、その5年後、氏を使うことが義務になります。
これは、「兵籍取調べの必要上、軍から要求されたものといわれる」とのこと。
さらに翌年、「妻の氏は『所生ノ氏』(=実家の氏)を用いる」ように、とのお達しが出ます(夫婦別氏制)。
「明治政府は,妻の氏に関して,実家の氏を名乗らせることとし,「夫婦別氏」を国民すべてに適用することとした。なお,上記指令にもかかわらず,妻が夫の氏を称することが慣習化していったといわれる」
(参考:法務省「我が国における氏の制度の変遷」)
つまり、明治のはじめ頃まで、庶民は苗字を持っていなかったし、苗字を使わなければならなくなってからも、結婚後の妻は、実家の苗字を使っていた、ということ。
それが変わり、妻が夫の苗字を使うようになったのには、「明治民法」が大きな役割を果たしたからだ、と思われます。
そして令和の今、夫と妻のどちらの姓にしてもいいはずなのに、夫側の姓を名乗るのが現状9割とのこと。「世間体のため」という理由が多いそうです。
明治民法による結婚
それまで結婚は村落や家にゆだねられていましたが、明治31年(1898年)に施行された民法(旧法)、いわゆる「明治民法」により、家制度が確立します。
これには明治4年(1871年)にできた戸籍制度が関係しています。
「政府は、税金を集めたり男子を兵隊に取ったりするために国民の状況を把握して管理する必要があり、戸籍制度を整えた」とのこと。
では、家制度によって、明治時代に「結婚」はどのように変わったのでしょうか?
●苗字・姓を同じにする
・夫婦は、家を同じにすることにより、同じ氏を称することとされます(夫婦同氏制)。
さらに、「戸主および家族はすべて同一の氏を称する」(旧[明治民法]746条)。
これが戸籍を通じて国民に周知されました。
つまり、結婚をして、妻が夫の家に入ったら、夫の家の姓になる。
子どもが産まれたら、子どももその家の姓を名乗る、ということです。
(参考:法務省「我が国における氏の制度の変遷」)
なお、令和の現在、「結婚する」ことを「入籍する」と言う人がいますが、それは誤り。
今は結婚すると、それまで親の戸籍に記載されていた2人は親から独立。新たに夫婦単位の新しい戸籍が作られます。
結婚することをいまだに「入籍する」「○○家の嫁になる」というのは、明治時代の民法で定められた家制度の意識(妻は婚姻によって夫の家に入る[旧788条])が残っているから、とのこと。
●家族は戸主(家長)に服従する
・家は、戸主(家長)とその家族によって構成される(旧732条)。
・家族は戸主(家長)の命令・監督に服従する。それに対して戸主は、家族を扶養する義務を負う(旧747条)。
●家督相続は長男
・家の財産と戸主の地位は、原則として戸主の長男が継ぐ(旧970条)。
家督相続は次の順番で継承されます。
「戸籍では「直系(親子など)・傍系(きょうだい、いとこなど)」「男性・女性」「尊属(両親や祖父母など)・卑属(子や孫など)」の三つの基準に従って家族が序列化」
つまり、直系と傍系だったら、直系が優先。
男性と女性だったら、男性が優先。
尊属と卑属だったら、尊属(年長者)が優先されたので、
家の財産と戸主の地位という家督を相続するのは、「直系、男性、年長者が優先」という順番になったのです。
●結婚に戸主と父母の同意が必要
・結婚に適する年齢は「男性が17歳、女性が15歳」(旧765条)。
・しかし、結婚は家と家との契約なので、家長(戸主)の同意が必要(旧750条)。
・さらに「男性が30歳、女性が25歳」になるまで、父母の同意も必要(旧772条1項)。
つまり、結婚するには常に家長(戸主)の同意が必要で、
「法律的に結婚ができる年齢」とは別に、「男性は30歳、女性は25歳」になるまで、父母の同意、許しを得なければ、結婚できませんでした。
そのため、女性は女学校で学を修めていても、家長や親の同意がなければ結婚できず、家長や親が決めた男性に嫁がなければなりません。
●妻は無能力者となる
2024年度前期、NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』を見ていたみなさんにはおなじみのアレがコレです。
女性はたとえ結婚前は成年として能力者であっても、結婚して妻になると無能力者となる。
重要な法律行為をするには、常に夫の同意を得なければならない(旧14条~18条)。
つまり、夫の許可がなければ働けず、土地の売買や借金などの契約を結ぶこともできません。
●夫が妻の財産を管理する
夫婦の財産については、「夫が妻の財産を管理する(旧801条)とともに、婚姻によって生ずる一切の負担は夫が負担する」(旧798条)。
●貞操義務を負うのは妻だけ
離婚の原因は「妻が姦通(※夫ある女が他の男と関係)したとき」。夫が他の女と姦通しても、それだけでは離婚原因はなりません(旧813条2号)。
だから、夫がいくら浮気しても、それを理由に離婚することはできない。
夫の姦通が離婚原因となるのは、強姦をするなど「夫が姦淫罪によって刑に処せられたとき」のみ(旧813条3号)。
「また、貞操義務が刑法によって義務づけられていたのも妻だけである。すなわち、姦通罪で罰せられるのは、妻の側だけであった(旧 刑法353条)。」
●離婚は不平等
夫の死亡または離婚によって婚姻が解消した場合、夫は次の日から再婚が可能。一方、妻は再婚するために6カ月を経なければならない(旧767条)。
(この項の引用と参考:
結婚って何ですか:結婚制度って何?「家制度」ができた背景とは | 毎日新聞 (mainichi.jp)
「日本の家族と民法」名古屋大学大学院法学研究科教授 加賀山茂)
前回の記事で、最後にふれた江戸時代の「女大学」には、男女平等などという視点は見られませんでした。
続く明治時代の「明治民法」は法制度として、さらに男尊女卑、女性差別を強めた、と見られます。
家長や親が決めた相手と結婚しなければならない。そして、結婚するためには相手を見つける必要があります。
そこで、明治17年(1884年)には東京の日本橋に「渡辺結婚媒介所」という、今でいう結婚相談所のようなものができました。
男女をくっつけ、結婚の橋渡しをする「仲人(なこうど)」が「高砂(たかさご)業」というプロの職業にもなりました。
恋愛至上主義につながる流れ
日本社会がガラリと変わった明治時代。
現代で主流の結婚スタイル、「恋愛結婚」につながる流れも、この頃に生まれます。
詩人の北村透谷が、恋人と大恋愛の末に結婚。著書『厭世詩家と女性』(1892年)で恋愛の純粋性をあらわしました。
明治の貞操と処女の純潔
キリスト教は、江戸時代には邪教とされていましたが、こちらも文明開化で西洋の価値観が流入し、「キリシタン禁制」も解禁されます(1873年)。
古代に中国から入ってきた儒教をベースにした貞操観念が、江戸時代に「女大学」等の書物によって普及しました。
さらに明治期には西洋から入ってきたキリスト教的な考えが、処女の純潔を尊重する意識を高めていったのです。
そして明治民法により、家長や親が決めた相手と結婚しなければならない。
ですので、「結婚して実家を出て、夫の家に嫁ぐまでは処女」というのが常識だったことでしょう。
女子教育と男女交際
江戸時代に、儒教ベースで女性に道徳(父母、夫、舅姑に従順に仕え、良妻賢母となり、家政を治めるなど)を説いた「女大学」の類の教訓書は、明治になっても出版され続けていました。
ただ、それを批判し、異議を唱える男性もいました。旧一万円札でおなじみの福沢諭吉がその一人。旧来の「女大学」を厳しく批判します。
江戸時代は「男女は七歳にして席を同じうせず」と、学校の男女共学が認められていなかった。しかし、男女を別にしても互いに幸せにはならない。「男女交際」が必要だ、と諭吉は考えたのです。
とはいえ、交際といっても現代の感覚とは異なります。明治時代の男女交際とは、異性と親しく会話を交わしたりする、コミュニケーションを取る程度の意味。
この「男女交際」については、女性向けの雑誌『女学雑誌』でも特集テーマとしてよく取り上げられました。
なお、『女学雑誌』は明治18年(1885年)に創刊された、キリスト教に基づく女性啓蒙雑誌で、現在の文芸雑誌『文学界』の前身です。
明治時代には、紙の雑誌、それも女性のための雑誌、女性誌という新しいメディアが登場しました。
そして、明治の末、明治44年(1911年)には、日本の女性史、フェミニズムの歴史で必ず名前が上がる、「女性が編集する女性のための雑誌」『青鞜』が創刊。
大正5年(1916年)には『婦人公論』も創刊され、女性誌が女性たちに広く教えや思想を示すことになるのです。
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さて、長くなりましたので、今回はここまで。
明治時代を振り返りました。
次は、大正時代の「恋愛、結婚、処女の歴史」をお送りします。
つづきはコチラ
●参考文献
酒井順子『処女の道程』新潮社 2021年
牛窪恵『恋愛結婚の終焉』光文社新書 2023年
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龍泉寺可憐|40代で「彼氏いない歴=年齢」&「おひとりさま」の占い師(占いカウンセラー)
新卒で出版社に勤務
親の介護&コロナで働けなくなってから派遣で図書館に勤務
ライターとしても活動
電話占い師として1年で老若男女のべ750人鑑定
現在、占いカウンセラーとして「彼氏いない歴=年齢」・「おひとりさま」の女性のお悩み相談に乗ってます
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