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[処女は恥ずかしい?]処女の歴史④日本人の恋愛と結婚・昭和初期の同性愛と戦前の空気

こんにちは。40代で「彼氏いない歴=年齢」&「おひとりさま」の占い師(占いカウンセラー)・可憐(かれん)です。

前回は、大正時代における、恋愛や結婚のスタイルを見ることで、処女の歴史を振り返りました(→前回の記事はコチラ)。
今回はその続き、昭和初期の恋愛、結婚、処女の歴史をお送りします。


昭和(1926~1989年)

昭和初期の空気

歌人・与謝野晶子は大正時代に、「私の貞操は道徳でない、私の貞操は趣味である、信仰である、潔癖である」と雑誌に書きました。
時代が昭和になっても晶子は、貞操は理屈や論理ではなく「大事だから大事なのだ」と『婦人公論』に書きます(「貞操趣味論」昭和4年1929年)。

そして当時の結婚は、元号が昭和になっても、明治民法にのっとって行われ、家父長制的な家制度は変わりません。女性は結婚するまでは当然、処女であるべきという風潮も続いています。
しかし、大正の自由な空気を経て、昭和というまた新しい時代に入り、性的に奔放な男女は増えていました。

今の「文春砲」でおなじみの『文藝春秋』を創刊した(1923年)、作家の菊池寛は『婦人公論』の「昭和娘気質」という特集の中で、この頃の女性の貞操観念は大きく二分されると述べています(昭和5年1930年)。

「貞操を益々重大視して、結婚まではどんなことがあっても貞操を、固守してゆく」という人と、「処女性などはたいしたものでないとして、貞操を軽く扱う」という人。中途半端な貞操観念の娘はいなくなり、どちらかになってきた、とのことなのです。

酒井順子『処女の道程』新潮社 2021年「貞操意識の二極化、そして『エス』」

同性愛「エス」の流行

貞操を重大視して固守していくタイプと、たいしたものでないと軽く扱うタイプが現れた昭和初期。

学校は「男女は七歳にして席を同じうせず」の儒教道徳のもと、男女別学。女子は女学校に通っています。
結婚は、明治民法が定めた家父長制的な家制度のもと、年頃になれば親が決めた相手に嫁がなければならない。「結婚するまでは処女であれ」という意識も強い。

そのような中で、異性の男性ではなく同性にあこがれや恋心を抱く女性の存在が目立つようになってきました。

昭和初期、女学生など若い女性の同性愛の関係やその相手のことが、シスター(sister)の頭文字から「エス」と呼ばれていました。

そして、「エス」ものの少女小説が女学生の間で大流行したのです。

少女小説と同性愛・BLへの流れ

明治から大正時代に、印刷技術の発達などにより、紙の雑誌や書籍が多く出版されるようになりました。
前々回、明治時代の記事の最後にもふれた『女学雑誌』や、他にも『少女世界』、『少女画報』など、少女向けの雑誌が出版されます。

少女雑誌の当初の目的は、「キリスト教の教育思想に基づいた女子の啓蒙」でした。それには「処女の純潔」を守る思想が含まれます。

それらの少女雑誌に、まるで男尊女卑的な家父長制社会に抗議するかのように、女性同士が助け合う「エス」の物語を次々に発表した作家がいました。

吉屋信子がその人。
吉屋の少女小説は、中原淳一の乙女心をくすぐるイラストと合わせて、少女たちの間で大ブームとなります。

少女小説では男女の恋愛よりも、あこがれの同性の先輩への恋心などが描かれることが多かった。その傾向は現在の「ボーイズ・ラブ」にも受け継がれているのですが、つまりストレートに異性との恋愛やセックスを書くのではなく、むしろそれを敬遠して、別の次元の「恋愛」に想像を遊ばせる。異性との恋愛、結婚、そしてセックスとは、結局「母」になることですから、それを避けて、読者が少女(=処女)のままで恋愛に耽(ふけ)るためには、異性との世界の外側に少女世界を確立する必要があったんですね。そこに当時の家庭や女学校での、処女・純潔教育の影響を見ることもできると思います。

千木良悠子・辛酸なめ子『だれでも一度は、処女だった。』理論社 2009年
「コラム・専門家に聞いてみた②文学のなかの処女 文芸評論家・清水良典」

吉屋信子は昭和10年(1935年)に随筆『処女読本』を発表。自身のことを「処女の筆者」と書き、自身のファンの少女たちに向けて、生きる上での心がまえなどを説きます。

そして吉屋は処女性を、与謝野晶子と同じかそれ以上に重要視していました。
性欲を「邪悪本能」といい、男女が性交せず、生殖せず、人類が滅亡してもよいというくらい、「処女の純潔」を強く信仰していたのです。

吉屋信子の『処女読本』は、少女達にインパクトを与えました。同書では、結婚したら女は「服従と従順と義務と責任」を背負い、「男への快楽を呈上」し続けるという犠牲者としての生涯を送らなくてはならないとされていますが、そのような未来を知る少女達が「永遠の純潔」を理想としたのも、無理はありません。

酒井順子『処女の道程』新潮社 2021年「貞操意識の二極化、そして『エス』」

吉屋はプライベートでも、男性と結婚せず、生涯、女性のパートナーと暮らしました。

同性愛者はいつの時代も存在します。ただ、異性愛を強制する家父長制社会では、年頃になったら男女は家長や親が決めた異性の相手と結婚するもの、それが当たり前とされていました。そのため、同性愛者の存在が「見えないもの」にされていただけです。

昭和初期の女学生や若い女性たちは、同性愛をどうとらえていたのでしょうか?
吉屋が書いた「永遠の純潔」を理想としたのか、性的指向がそうだったのか、結婚するまでの遊びや思い出作りなのか、流行に乗っただけなのか、真意は不明ですし、人の数だけそれぞれに理由やきっかけがあったでしょう。

しかしこの頃、松竹少女歌劇団のスターと「男装の麗人」と呼ばれた元銀行頭取の娘が心中未遂をするなど、同性愛関係を結ぶ女性の存在が「目立って見えていた」のです。

戦争の暗い影

男性が支配する社会で、女性たちが自由な恋愛や同性愛関係に楽しみを見出していた頃。
戦争の暗い影が射してきます。

昭和12年(1937年)、日中戦争勃発
昭和13年(1938年)、「国家総動員法」制定 国民は自己を捨てて国のために尽くすよう求められます。
昭和14年(1939年)、「結婚十訓」発表
昭和15年(1940年)、「国民優生法」成立
昭和16年(1941年)、太平洋戦争勃発

「結婚十訓」とは?

ナチス・ドイツの「配偶者選択10か条」にならって発表されたもの。
(なお、ユダヤ人や同性愛者らを強制収容所で虐殺したヒトラー率いるナチスは、1933年に政権を獲得しています。そのドイツと日本、イタリアが同盟を組んだ「日独伊三国同盟」は昭和15年[1940年]に締結)

「結婚十訓」の内容は、
1.一生の伴侶として信頼できる人を選べ
2.心身ともに健康な人を選べ
3.お互いに健康証明書を交換せよ
4.悪い遺伝のない人を選べ
5.近親結婚はなるべく避けよ
6.晩婚を避けよ/なるべく早く結婚せよ
7.迷信や因習にとらわれるな
8.父母長上の意見を尊重せよ
9.式は質素に届出は当日に
10.産めよ育てよ国のため

この最後の第10条が「産めよ殖(増)やせよ国のため」に転じて、一種のスローガンとなりました。
現代の少子化対策でもキャッチコピーとして使われています。

当時は他にも、「結婚報国」「産児報国」などもスローガンになりました。
「結婚して、子どもを産んで国に報いなさい、尽くしなさい、恩返しをしなさい」という意味。
それも、「遺伝子的に良質で健康な子どもをできるだけたくさん、早く産みなさい」ということです。

「国民優生法」とは?

ナチスの断種法、「遺伝病子孫防止法」にならってつくられたもの。
断種とは、手術によって生殖機能を失わせること。

この時の「国民優生法」は、
「悪質な遺伝性の病気の素質を持つ人」の遺伝子を持つ子が増えないよう、不妊手術を強制。
また、「健全な素質を持つ人」の遺伝子は増やすために、人工妊娠中絶を制限しました。

つまり、日本民族の優生保護の視点から、国家が国民の生殖を管理した、とんでもなく差別的な法律です。
人権の意識などはそこにはありません。

なお、これは戦後も形を変えて続きました。令和の現在も終わってはいません。

優生思想にもとづいて、障害や病気を持つ人を「不良」とし、強制的に手術を行い、子どもを産めない体にした。それにより、結婚できなかったり、愛する人と結婚して子どもを望んでも産めなかったり。また差別や偏見のせいで、家族がバラバラになったケースもありました。
ちょうど昨日2024年10月9日、強制不妊補償法が成立しました。これは「戦後最大の人権侵害」といわれる旧優生保護法(1948~96年)下で、強制不妊手術を受けた被害者(約2万5,000人)に補償をする枠組みがようやく整った、ということ。

昭和14年(1939年)の「結婚十訓」と、翌年の「国民優生法」は、昭和12年に勃発した日中戦争などのため、出生率が下がっていたこと、また戦争には兵士となる若い男性が多く必要になることなどを理由に、軍国主義の日本の人口を増やすことを目的として成立しました。

戦争中、アジアの各地を侵略した日本ですが、現地女性との「混血」は、国の好むところではありませんでした。日本民族の「純血」を保つために、日本の若い女性が満州などの侵略地まで赴き、現地に住む日本人男性と結婚して子供を産むことによって、「混血」を防止する必要があったのです。
今を生きる私達は、そのような事情を知るにつれ、日本における「純潔」「貞操」の意味に思い至ります。すなわち当時の女性にとっては、自己の性の決定権を放棄することが「純潔」であり「貞操」だった。セックスをするタイミングも、目的も、そして場所も男性に任せ切って初めて、日本女性はよしとされたのであり、「する自由」も「しない自由」も、そこには無かったのです。

酒井順子『処女の道程』新潮社 2021年「『する自由』と『しない自由』の消滅」

昭和12年(1937年)の日中戦争の頃から、女性の自由度はどんどん低下していきました。
自由に恋愛なんか、していられる状況ではありません。国によって、「出産・生殖のための結婚」が推し進められるようになったのです。

(この2項の参照:朝ドラ『虎に翼』で映った「結婚十訓」とは? 「産めよ殖やせよ」と女性に迫る戦時下の日本 | 歴史人 (rekishijin.com)

「皆婚」は続く

「早く結婚して子どもを産み、国のために報いなさい、尽くしなさい」と国家によって推し進められた結果、
国民のほぼ全員が結婚する「皆婚」状態となりました*。

*50歳までに結婚したことがない男女がそれぞれ2%を切った。
つまり、98%以上の男女ほぼ全員が、生涯で一度は誰かと結婚を経験していた。

生涯未婚率(45~49歳と50~54歳の未婚率の平均値)
1920年:男性2.2% 女性1.8%
1930年:男性1.7% 女性1.5%
1940年:男性1.7% 女性1.5%
(牛窪恵『恋愛結婚の終焉』光文社新書 2023年p.34)

前回の記事にも書いたとおり、
1920年代(大正時代)の皆婚状態は、明治民法が定めた家父長制的な家制度のもとで結婚が勧められ、「結婚しない」という選択肢がほぼなかったから。

続く昭和初期の戦前1930年代と、戦中戦後の40年代の皆婚状態は、
「遺伝子的に良質で健康な子どもをできるだけたくさん、産めよ殖(増)やせよ国のため」という国策のためでした。


さて、長くなりましたので、今回はここまで。
昭和初期を振り返りました。
次は、終戦(昭和20年1945年)後の「恋愛、結婚、処女の歴史」をお送りします。

つづきはコチラ

●参考文献:
酒井順子『処女の道程』新潮社 2021年
牛窪恵『恋愛結婚の終焉』光文社新書 2023年

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龍泉寺可憐|40代で「彼氏いない歴=年齢」&「おひとりさま」の占い師(占いカウンセラー)
新卒で出版社に勤務
親の介護&コロナで働けなくなってから派遣で図書館に勤務
ライターとしても活動
電話占い師として1年で老若男女のべ750人鑑定
現在、占いカウンセラーとして「彼氏いない歴=年齢」・「おひとりさま」の女性のお悩み相談に乗ってます

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