見出し画像

星空の向こうからドラえもんのささやきが聞こえる。

序章

見上げると満天の星空。「星降る夜」とはこのことだ。周りに灯りは何もなく、吸い込まれるような、いや、浮いているような感覚になる。

父方の祖父母の家は超の後にウルトラスーパーがつくようなド田舎だった。熊本との県境に近い鹿児島の山中で、車が来れる道から更に5分ほど山道を登ったところにあった。少なくとも半径100メートルには家がなかった。水道も来ておらず裏の小川から水を引いていた。五右衛門風呂はもちろん薪で沸かす。トイレは板に穴が空いただけのボットン便所。超ウルトラスーパード田舎である。

少年の頃そこで観た星空は、今も心に残っている。それから数年後、「光年」という単位を知り、その天球面に貼りついた星たちは、それぞれが異なった時間の姿であることを知った。すれ違いざまに袖が擦れるような微かさで、四次元世界と触れた気がした。

1章 矛盾から高次元への展開

一週間ほど前にnoteで「アイザック=ニュートンが離婚しろと言ってくる。」という文を書いた。要約すると、次ような話だ。

《あらすじ》
妻との関係に悩んでいた僕は、世の中のあらゆる出来事との関係性を万有引力の法則を応用して、その対象との心理的距離を適切に取ることで解決できるとの結論に至った。そこで妻と離婚したと想定して暮らすことにした。

その文末でも触れたが、理論に矛盾があった。まず、その理論を整理しよう。万有引力の式を人間関係に当てはめたものだ。

自分と他人の間に心理的な万有引力が作用する。その心理的力の大きさFは次のように表される。

F=G•Mm/r^2

G: 万有引力定数
M: 相手の巻き込みエネルギー
m: 自分の巻き込みエネルギー
r: 2人の心理的距離
(詳しくは本文をご参照のほど宜しくお願いします。ついでに「スキ」も!)

太字の心理的距離rだが、互いに同じであることは稀だ。貴女が感じる僕との距離と、僕が感じる貴女との距離は悲しいかな違うのだ。

とすると、僕が貴女から受ける力と、貴女が僕から受ける力は異なることになり、作用反作用の法則が成り立たなくなる。(ただの概念なので別に成り立たなくても良いといえばそれまでなのだが、それらしく語りたくて…)

どうしたらよいだろうか?

「複雑な現象の中に、真実を見いだすには、自分の心の次元を一つ高めるしかありません。」(稲盛和夫 「心を高める、経営を伸ばす」より)

貴女と僕の位置を直線上(すなわち1次元)で考えていたものを、平面、空間で捉えてみたいと思う。

2章 心理空間•世界面•距離

心理空間と世界面
(図2-1)のように、三次元空間を考える。これは実際の空間ではなく、心理的な位置を表現するための空間なので「心理空間」と呼ぶことにする。

心理空間内に観測者aが点として存在しており、aを含む平面Aが広がっていることを想定する。

aは二次元世界の住人で、平面A上でしか事象を認識することができない。したがって、平面Aを「世界面A」と呼ぶこととする。

次に世界面Aに含まれない点bについて、世界面Bを任意の角度で世界面Aと交差させる。

画像1

三次元世界に存在する僕らは四次元を認識し難い。同様に、a、bはそれぞれ自分の世界面上でしか物事を認識できない。では、自分の世界面上にないbを、aはどのように認識しているのだろうか。

世界面上の見かけの距離
例えば、bを世界面Aに垂直に投影してみる。b’はbの影として世界面Aに存在しているように見える。心理空間での距離Rは、世界面Aに投影されるとRaとなる。bについても同様のことがいえそうだ。(図2-2、2-3)三次元では二点の距離は一定だが、それぞれの世界面(二次元)では見かけの距離が異なっている。(Rが一定なので万有引力の式が成り立つ!でもお互いの見かけの距離、見かけの力は違う!矛盾が解消!)

画像2


画像3

3章 揺らぐ「常識」と乱立する「ジョーシキ」

常識人と非常識人の心理的距離
「ほんっと、ジョーシキのない人ね!」
「そんくらい、ジョーシキっしょ!?」
「ジョーシキ的に無いわ!ウケる!」

大多数の人々の世界面の広がりには、ある基準となるものがありそうだ。それが「常識」と言われるものだろう。

観測者xの世界面Xは理論的には無数に取れるが、その存在確率は均一ではなく、ある平面に近い傾きで存在しそうだ。すなわち、基準となる常識面Jである。(図3-1)

画像4

似た世界面を持った2人は互いに似た距離を感じることができる。逆に大きく異なる世界面の場合は互いの感じる距離の差異が大きくなる。(図3-2、3-3)

画像5

画像6

これは、「常識から外れた人は、周りとの心理的距離の差が大きい」ことを示している。生きづらさを感じることも多いだろう。しかし、常識から外れているからこそ、大多数の人が感じられない距離感で物事に触れることができ、イノベーションを起こす可能性も高くなるはずだ。

揺らぐ常識、新しいジョーシキ
しかし昨今、ずっと常識としてコンセンサスが取れていたものが揺らぎ始め、確固としたものではなくなっている印象だ。時代遅れ、廃れたものというニュアンスを含んだ言葉にもなりつつある。社会通念としての「常識」はなくなりそうなので、コミュニティにおける共通ルール的なローカルな意味合いとして「ジョーシキ」という言葉を定義したい。

すると、心理空間にはコミュニティ毎にジョーシキ面が多数存在することになる。(図3-4) ジョーシキ面が大きく異なるコミュニティどうしは対立が起こりやすいだろう。

画像7

この時、自分のジョーシキに固執してしまうと「アイツらは常識がない!」という感情を抱き、対立は深まる。逆に、自分のジョーシキは時代に則していないかもしれないと不安になると、「新しい常識とはなんだ?」と何処かに新しい基準面を探し始め、不安はさらに大きくなる。

いずれにしろ、物事との見かけの心理的距離を正しく取れないことがストレスの原因であろう。その対策、および具体例を次章で考えていきたい。

4章 心地よい距離をとる方法

対象との間の心理的距離を変えるには、以下の2つの方法が考えられる。(図4-1、4-2)

①世界面の交差する角度を変える。
②世界面に投影される角度を変える。

①世界面の交差する角度を変える
これは「自分や相手の世界面を変える」ということである。(図4-1)

画像8

しかし世界面を変えるのは非常にストレスがかかることだ。新たなジョーシキとは何かを探し求め心理的放浪をするのは辛い。(特にオッサンには。)

かと言って、相容れない人に敵対心を持ち、相手の価値観を変えようとするのも、何か違う感じがするし、ストレスフルだ。

世界面を変化させることは、じっくり取り組む必要はあるが、短時間で効果を発揮できそうにはない。


②世界面に投影される角度を変える

三次元世界に住む僕らは、より高次元の事象を三次元以下の世界に投影することで認識できている。僕らが見ているのは実態ではなく、ただの影である。どうせ影しか見ることができないのであれば、投影方法によって色んな影が映るはずである。

これまで対象を自分の世界面に向けて垂直に投影してきた。これを意図的に別の角度で投影することができれば、自分との距離をコントロールできる。(図4-2)

画像9

投影角度を変える具体的方法としては、社会的システムを整備することや、テクノロジーを使うことが考えられる。僕はテクノロジー、とりわけAR(Augmented Reality: 拡張現実)技術に大いに期待している。

すでに、ポケモンGOや、Google翻訳、航空機や自動車のHUD(Head Up Display  写真参照)など、AR技術は人と外の世界の心理的距離をコントロールするインターフェースとしてその力を発揮している。

画像10

導入イメージ (うちの場合)
僕の次男は重度の知的障害があり、言葉を話せない。簡単な単語は聞き取れるので、状況と単語で「おふろ」「トイレ」など、基本的なことは理解できている。しかし、実社会で生きていくには世界面が違いすぎる。最低限のルールが分からないと非常に大変だ。

うちの扉には鍵を4つかけているのだが、先日何かのタイミングでそのうちの2つをかけ忘れた。その隙に彼は脱走をしてスーパーに行き、ぬりえを万引きしてしまった。鍵が2つだけだった頃は何度か自分で開け、お隣の家に上がり込んでしまったこともあった。大迷惑である。

また、他人に対する迷惑だけでなく、家の中での悪戯も毎日のことなので地味に辛い。彼にとっては、ただの強い興味によるもので悪気は全くないのだけれど。(恥ずかしい話だが、精神的に参ってしまって手をあげてしまったことが何度もある。)

そこでARである。彼は視覚情報に対してよく理解を示すので、一人で家を出ていきそうな時や、信号を無視して飛び出しそうな時に、大きな「✖️」マークを何らかの形で表示させれば、抑止になる。また、ごちゃごちゃと情報が過多な街中で、トイレなどその時に彼が求めている情報をわかりやすく大きく表示させたりできれば助かるだろう。

このように、各々にカスタマイズされた最適な方法で世界との距離をコントロールするデバイスは作れないものか。聴覚障害、視覚障害、知的障害、精神障害、認知症、ひいては国籍、民族、地域差…。AR技術を使うことで、TPOに合わせた最適なサポートをすることができないだろうか。それは「自分はジョーシキ人」と錯覚しているかもしれない、僕らに対しても、である。

5章 1次元上の世界観

ARを使う人間の意識も重要となるだろう。いかに心地よく自分の世界面に投影するかだけを考えていては、全体的な最適化はできない。

数年前、僕は左遷のような感じで、全くの別会社に出向した。その会社では、同じ仕事でありながら、仕事の「常識」がそれまでと全く違った。なのに、仕事は回っている。その時、今までの「常識」は、もっとローカルな「ジョーシキ」だったんだと気付いた。これは大きな経験だった。つまり、自分が別のジョーシキ面に投影されることで、面から空間を意識できたわけだ。そして少し軽やかな気持ちになった。

近年、多様性が叫ばれているが、それは常識から外れ苦しんでいる誰かを助けるためではない。

多様なジョーシキが存在できるということは自分が多様な選択肢を持てるというセーフティネットになるのだ。全て「自分自身」のためだ。形だけの多様化運動はやめて(自分の世界面に投影するだけの行為はやめて)、全く違う角度の誰かの世界面に自分が投影されることこそ想像しなければならない。そして、自分の世界面から離れられるんだという意識は心を軽くすると思う。

1次元上の世界観を皆が持てば、色々な角度で、心地いい距離感で、世界と関わることができるのではないか。

終章

星を見るのが好きだ
夜空を見て 考えるのが
何より楽しい
百年前の人
千年前の人
一万年前の人
百万年前の人
いろんな人が見た星と
ぼくらが今見る星と
ほとんど変わりがない
それがうれしい

(詞: 北野武/曲: 玉置浩二「嘲笑」より)

三次元空間が時間軸に沿って変化しているなら、その空間の変化量は大きい。百万年前なんてヒトはまだいなかった。でも、さらに次元を落として天球「面」の星空という切り口で見ると、百万年前もそんなに変化はしていない。…という意味の歌詞ではないと思うが、星空を見上げると時間軸や深遠な距離感、そしてその中の自分という点を意識してしまう。(隣にカワイコちゃんがいたら完璧だ!求ム!カワイコちゃん!)

自分の世界面を無理に変える必要はないが、変えたい時は自由に変えられる。そんな世界は素敵ではないか。それには、他にも色んな傾きの世界面があって、そこに自分を投影できる想像力、自分が見ているものは影でしかないという意識が必要だと思う。

それを意識しておけば、四次元世界からドラえもんがやってきて、その先の「ゆたかな世界」を耳元で囁いてくれるんじゃないかな。きっと。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?