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チャクラで生きる

読了。

タイトルからはなかなか内容の想像がつかないけれど、原題の直訳は

「人はなぜ癒されないのか? どうすれば癒されるのか?」

直観医療、波動医学といった分野の人でありながら、あらゆる治療法にオープンなところがすばらしい。

オーガニック、ヴィーガンという健康的なライフスタイルを送りつつも環境意識が低い人への怒りを抱え、30代でガンを発症した人の例があった。欠けている栄養素を補うため一時的にでも肉を食べるよう勧められても信念を曲げなかったその男性は、悪化の一途をたどり、信じてきたものに裏切られたと感じながら世を去ったという。
霊的な課題として病気と直面したなら、自分に必要な洞察を得ることがもっとも効果的だと著者はいう。先の男性はこれまでの信念にしがみつき、うまくいっていないのに手放すことができず、失意のうちに亡くなった。洞察があれば、方向転換して治癒することや、命果てるとしても、穏やかに旅立てたかもしれない。

以下、心に残った言葉たち。

今日のホリスティックな視点にみられる基本的な誤解は、すべての病を、「その人の中にあるネガティブな側面が引き起こした結果である」と定義していることだ。過去の悲しい体験や、心身に悪影響を及ぼすネガティブな態度、あるいは過去生の悪い業が原因となる、という考え方である。
セラピーやサポートグループといった場では自分を癒す「過程」にある人たちが、同時にそこに引っかかってしまっていることが見てとれた。過去のひどい体験やトラウマに何らかの意味を与えようと、勇気を奮い起こして傷に直面し、同じ傷を持つ人々に対して、思いやりのある理解を示そうとしている。だが、なぜか彼らは癒されていない。自分の人生の中心を傷におき、また、その傷を受けいれるという過程を中心にしてしまっているのである。傷を乗り越えようと努力しておらず、傷に引っかかってしまっているのだ。
世界中の人々が、自己表現のもつ治癒的な価値と、自分の傷を使って他人を操る免罪符とを混同しているのだ。傷を見め、それをさらけ出すことを癒しの初期の段階とみるかわりに、自分の傷を国旗のように掲げ、サポート・グループなどを家族、国家として使っているのである。
しかし、おそらくは感情的な傷があまりにも強力なものであるためか、文化全体としての対応はいまや適切な癒しのレベルを超えて、犠牲者の主張や要求に敏感になりすぎるところまできてしまった。教師、医師、聖職者、ビジネスマン、それに家族までもが、「不適切な振る舞い」をとがめられる危険を恐れ、子どもや異性に対して、極端に慎重な態度で接するようになっているのだ。
私は、何も日常生活における心の傷の影響を無視しようといっているのではない。だが、身体を維持していくための生命エネルギーを枯渇させるほど、過去のトラウマのことを思いわずらったり、どんな理由であれ、現在からエネルギーをそらすことは避けなくてはならないとも思っている。
病気は、人を内面に向けさせ、自分自身のことについてもっと意識するように要求するのである。
象徴意識ーいま起きていることをそのまま額面どおりとらえて反応するのではなく、象徴的にとらえていく力である。「どうして自分に?」と問いかけるよりも、さらに深く、より真実に近い問いは、「どういう理由でこれが起きているのか、どんな意味があり、どうすればいちばんいいかたちで対処できるだろうか」というものだ。
究極的な意味で最も賢い道とは、対症療法だろうとホリスティックなものであろうと、よい方向に向かうような治療法にはつねに心を開いておくというものだ。癒しを促進し、希望と力を身体に取り戻させてくれるような措置であれば、どんなものでも考慮する価値がある。
人生は謎に満ちている。というよりも、人生とは謎そのものでしかない。苦しいできごと、すばらしい出来事が、なぜ特定の時期に起こるのか、なぜそのようなかたちで起きるのかをたずねるのかは、エネルギーの無駄遣いである。


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