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展示会とか行って思ったりしたこと

久々にnoteの文章を書きます。
期間が空いたからか、最近仕事ばかりに気を取られていたからか、
どうにも書くことが思いつかないところではあります。

最近、新たな世界、というか業界みたいなところに入ってみるみたいなことが減ったような気がします。
学生の頃は、わりあいとあっち入ってみる、こっちを見てみるみたいなことが多かったので、
何だか視点やら興味や知識が固定していくように感じています。

そういうことで、博物館やら美術館に行ったりしています。
美術館に行ったら新しい観点を持てる、ということへの期待もありますが、
「美術館に通う」という習慣がなかったので、
鑑賞することや「展示する施設」自体への新たな発見があるかなと思って行っています。

最近だと、万博記念公園の民族博物館に行きました。
生活や暮らしの作り上げ方自体が様々あって、
新鮮な驚きみたいなものがあってとてもよかったです。
家や道具を塑形をするにあたり、その素材として何を選ぶか。
土か、木か、石か、皮か、はたまた全く違うものか。
あくまで目的があり、そのための道具として利用出来るものを環境に合わせて使っている*だけなんだろうなと。

あるいは、何を食べるか。
外界に物体があり、それを消化するための方法として、
煮炊き、刻み、火を通すという行動があることに過ぎず、
先験的に「これが食品です」と提示されたわけではないのだなと。
よく、「始めてナマコを食べた人は凄いな」という話題が出ますが、それは逆で、
「あらゆるものを食の対象として食べてみる中で、毒をもつものや消化できないものが、長い時間を経る中でふるいにかけられた」
ということが正しいのかなと。
つまり、「ナマコよりえぐいものも一杯食べたが、結局食に向かなかったので、食の文化の中に残らなかった」ということかなと思います。
忍者とか、木の根とか食べるらしいですからね。
コンニャクとか意味不明なくらい複雑な工程踏むらしいですからね。

あるいは、着るもの、街中で目にするもの、商売をどう行うか、長い距離をどう移動するか。
それぞれの環境に応じて知識や知恵が蓄えられて、それが伝わっていくなかで、文化**に結実していくのだなと。
音楽であれば、周りに演奏のための道具として何があって、どういうことを歌う対象にするか。
カリンバとかは資源が少なくても作れるから広まったり。
岩波文庫で「朝鮮民謡」みたいなのがあったんで買ったんですが、
農村で歌われていた地主を風刺する歌が一番最初に載っていました。
「妾の家に地主さんがアワビを持って行ったよ」みたいな歌でした。
あるいは、音楽や歌はどのような機能や役割があったかとか。
ほんとかどうか知らないんですが、近代に入るまで日本では集団で働く時、
必ず皆で同じ歌を歌っていたとかって聞いたことがあります。
たしかに茶摘みの歌とか、湯掻きの歌とかありますもんね。

あとこれは推測なのですが、歌はコミュニケーションとしての一般的なツールだったんじゃないかと思ってます。
普通にしゃべっても聞き取れないような雑音がある環境、あるいは距離が離れていても、歌は聞こえるみたいな経験があります。
手紙や電報などと同じように過去には当たり前のコミュニケーションツールだったものが、一般的でなくなり、
特別感が出るようになったことと同じように、
歌も気が付いたら特別感があるコミュニケーションツールになったのかなと。
何にせよ、連帯感を醸し出すためのコミュニケーションツールであることには変わりないのですが。

そんな感じで、民族博物館はとてもよかったです。
他には逸翁美術館に行きました。
行きました。といっても展示替えで丁度やっておらず、
近くの小林一三の終の棲家で、現在は展示施設となっている小林一三記念館に行きました。
正直、小林一三が作った広告や、報告書とか、目論見書みたいなのが大量に見れると期待していたので、期待通りではなかったです。
展示してほしい。
なんで池田を開発しようとしたのか、どのように分析したのか、どのようにして稟議を通したのかとか。
阪急の始まったときの広告リーフレット「最も有望なる電車」も売って欲しい。
三井銀行の元調査部課長として、どうやって分析をしたのかとかも凄い気になる。
有楽町に劇場を出すことを決めるのに10年かけて分析したとかも聞きます。
めちゃめちゃ読みたい。
それとか、建築様式を決めるときの過程とかも。
とにかくそういうことが気になるんですが、そういうのはあんまりなかったです。

あと、小林一三が住んでいた母屋はレストランになっています。
そこがとにかく風格があってよかった。
威厳のある色味、建材、調度品。
フェイクの家具を使って、それっぽく外見だけ取り繕うようなマンションとかありますが、
そういう薄っぺらさとは深いところで一線を画すような建物だという印象を持ちました。
本人が使ってたかどうかは知らないんですが。
是非とも行ってほしい。
最寄りは阪急宝塚線池田駅。

あとは、「生きた建築ミュージアムフェスティバル」に行きました。
よかったのは、モリサワと日建設計でした。
モリサワは元々活版印刷機製造の会社で、今はフォント開発なんかをしてい会社です。
ガリバーらしいですね。
文字をどう効率よく媒体に写すか、っていう技術はコミュニケーション技術の根本です。
グーテンベルクしかり。
過去の活版印刷機なんかが見れたりします。
それが少しずつデジタルに順応していく過程の活版印刷機なんかも。
進化の過程が大雑把ではなく、細かくわかってとても面白かったです。

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これキー1つで9文字あります。写植も大変だったんだなあっておもったり、専門的な作業だったんだなって思いました。
どういう作業で、どういう風に印字されるかっていうことがわかったりしてとてもよかったです。
技術に応じて、作業工程や分担の仕方、かかる時間や必要な熟練なんかも全然違ったり。
昔の技術の状況がかわると、歴史上の出来事の意味合いがより深くわかったり、
それがそのまま現在の歴史を見る目になったりするから面白いです。

日建設計は設計業界のトップ企業です。
展示されていたCGの完成予想図(「パース」)のレベルがえげつないくらい高くて、これもよかったです。
これがそのまま社内で会議をする上でのベースのレベルになりますし、
事業主への提案力や公募で勝ち残る力にそのまま繋がるのだなと。
すげーってなりました。
完成予想図は作品でありながら、人と組織を動かすエンジンそのものです。
僕は、「芸術は、どれだけ頑張っても、究極的には社会や政治からは独立しきれない」って思っています。
それのミクロなプロセスとして、そういう日建設計のパースがあるんだなって思いました。
この話もそのうちnoteに書きたいです。

そんな感じで、結構展示会とかも面白いです。
あと、12月と2月にPAMで公演します。
そのうちちゃんとした告知出します。
12月はほぼ大晦日ぐらいのタイミングに大阪でやります。
是非是非。


*「使っている」とタイピングしているときに、予測変換で「使っている鍬は光る」という慣用句が出てきました。
「絶えず努力している人はそれが表に出る」という意味だそうです。

**音楽とか絵とかそういうことではなく、「人の営み全般としての文化」っていう意味合いで「文化」っていう言葉を使ってます。
 大学とかが畑違いだと、この言葉のニュアンスつかみづらいかなあって思います。

作: ナイアガラすすぎ
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