「給料の 半分くらいは 我慢代」

念のため、最初に書きますが、今回のnoteはナイアガラすすぎが完全に自分の見解で書いてます。今回の話についてPAMは団体としての見解を、そもそも、持っていません。

とにかく僕が言いたいのは、
「(給与含め)お金を与えることが相手をコントロールするための道具」という側面が大きすぎるということです。
取引先を、下請けを、従業員を、妻を、子供を、「自分の方が上だ」と相手に思わせるための道具なのではないかと。
そもそも、労働の対価として、あるいは何かの対価としてお金を与えているという論理それ自体が、
最近はただの欺瞞だろうと思ってきました。

お金の分配のされ方に、公正さを感じないのです。
給料上てくれ、というじゃないです。
世の中のお金の回り方に、社会を歪める力を強く感じるのです。

正直、働いていなくても、働いたということにされて、
お金が流れていくような場面をよく見かけます。
お金が回る/回らないという分岐スイッチを変えるのは、
決裁者の気分次第ということです。

いや、当たり前だろと。
今更何をわかったようなことを言ってるんだ。
恥ずかしくないのか。
って思うかもしれないんですが、
「相手を奴隷に出来る白紙委任証券/委任権利」が世の中の基礎、社会の基礎を成してるって状況改めて見ると、
めっちゃヤバないですか?

だって、「働いて稼ぐ」ってことが馬鹿馬鹿しくなりますよ。
組織としての指示に従って結果を得たから対価として給与って感覚が一般的なのかなと思います。
「下の者が上から有難く拝受する」ような贈与感覚が、お金の流れと一対一対応すると、
行政は企業を税金やお金を口実に操りたい放題だし、家長は家の者を言いなりに出来てしまいます。
にもかかわらず。
その実、そこで生まれるお金は社会的に何らかの物を生産したかどうかとは関係が無くなります。
よく言えば「貢献度合い」ですね。こう言われると、ああ確かに社業への貢献度合いで給与が決まるのねって感じがします。
でも、「言うことに従った度合い」にしか過ぎないんです。
取引先の無理な注文、不合理な命令、目的合理性の欠けた事業と仕入・生産・提供プロセス。
それでも対応すれば、構築すれば、お金になってしまいます。

貨幣的な価値が生産に裏付けされていないので、ただひたすらに「無茶を聞いた」「言いなりになった」ということでお金が回るので、
いつまでたっても社会は豊かになりません。
無茶を聞けない健康面の、家庭面の、信条面の、生まれた時点のスタートラインでの負い目がある人は、
必ず貧しくなります。
というか、わざわざ無茶を聞く気にもなれない人は豊かになることが出来ません。
無茶を聞くというと、「挑戦的な事業創生のための無理難題の解決」っぽいですが、
どちらかというとがなり立てるチンピラの言いなりになるようなニュアンスです。

最初から「絶対に上手くいく指示」なんか出せないから、
「指示に応じた分を給与にしている」と言うむきもあるでしょう。
だから、生産(上手くいく結果)と給与を結びつけるのは現実的に無理、
失敗は成功の母だ、みたいな考えもあると思います。

でも、あからさまに削減がされている公務員の給与や、
初等中等教育・高等学究への投資額の少なさ
福祉への投資の少なさを見ると、
とにかくお金の分配の仕方に浅慮と深くとごる支配欲を感じてしまいます。

僕が言いたいのは、お金を相手に渡したら言いなりに出来る、
お金を渡す奴の言うことを聞かなくてはいけない、
という性質を徹底的に煮詰めこんで、
自分の支配下に置こうとする人間が嫌だということです。

ニートやヒモは親だの女の言うこと聞かんでええいうことじゃないです。
ちょっとここは改めて議論します。

僕は『賃労働と資本』しか正直読んだことがないんですが、
めっちゃいいかげんにまとめると、
労働によって生まれた価値を資本家が中抜きし過ぎだ、っていう感じの論旨だったと思います。
「搾取」なんて言ったりします。
そこでは、搾取によって得た資本の蓄積と再投下、継続的な拡大と権力の掌握とより大規模な搾取に向かう、
みたいなプロセスがあるって話だっだとおもいます。
この話では、生産も資本の再蓄積も拡大も起きません。
その時その時での権力者のご機嫌を良くすることに対して報酬が与えられているだけなので、
社会に資本は蓄積されません。
功利も貯まりません。その場の感情を宥めるだけなので、
次の瞬間、次の時刻、次の日には無かったことになっています。
経済活動ではありません。
演劇的に、各人が想定する社会関係の再現をその瞬間ごとに行っているだけです。

それが当たり前になっている社会では、
科学的な知識や勉強に基づくような議論はむしろ「極めて邪魔」です。
「ごっこ遊び」に対して、外部の人間が「それ白ご飯ちゃうやろ。泥やんか。」って言うのと同じことです。
演劇的なコミュニケーション世界における、自分の役の権威の箔を剥がすような人間だと思われてしまいます。
舞台に急に入り込んできて、「今何してるんですか?」ってハムレット役に聴き始める用務員と同じです。
そうなると、専門的なノウハウや研究の蓄積に基づく議論や検討は忌避され、極めて情熱的に非難され、
むしろ「お望み通りの答えを返す御用聞き」の役を演じる人間を、科学者の代理として、傍に置くようになります。
益々、新しい物を知識の蓄積と議論と分析によって産みだすプロセス自体が無くなり、
しかし自分の支配する時代でそういった状況が無くなったことにするわけにもいかず、
「今新しいことが進んでいます」といった大本営発表的な嘘を信じ込ませることに全力を尽くすようになります。

そして。
自分が新しい物を産みだす人に対して膨大な給与を与えれば何か生まれるんじゃないかとも思えますが、
実際にはそうはいきません。
科学や知識を集団で磨き上げるプロセスには、無数の人間の関わりが必要になります。
その上、金払いの悪さ、金の投資の仕方の甘さがあるため、
新しい物が発明されるプロセスはほぼ尻すぼみだと思います。

僕はどちらかというと、「報酬を与える」あるいは「何らかの金銭的な見返りを与える」というプロセスの悪用
にこそ色々な問題があるような気がします。
労働契約に基づいて、役務の提供の対価でお金をもらうだけなのに、
委託契約に基づいて、役務の提供の対価でお金をもらうだけなのに、
婚姻関係に基づいて、一緒の生活を送っているはずなのに、
「お金をあげている」というロジックとそこに起因する服従関係を構築するパワーが強すぎる気がします。

これに輪をかけて個人の倫理の基にあるのが、
「迷惑」と「筋」です。
ちゃんとしている論理に見えて、
極めて使い勝手のいい言葉です。

「理屈と軟膏はどこへでも付く」

相手が迷惑の原因になっている、筋が通っていないということにすることが出来る便利な道具です。
結局権力者の匙加減一つで全てが決まるのであれば、「迷惑」や「筋」という言葉をいいように使って、
相手を言いなりにすることが出来ます。

ちゃんとした理屈に裏打ちされているようで、
実はお気に入りにお小遣いあげて、
どんな少ないポチ袋でも深々と頭を下げなくてはいけない状況、
この状況って誰が得しているのでしょうか。
イモータン・ジョーはなぜ水を独占し、
戦士は嬉々として自殺を志願したのでしょうか。
あの国では誰の希望に基づいて制度や分配がなされていたのでしょうか。

上が下を支配している状況をフラクタルのように社会のいたるところで作り出すことで、
誰が得をするのでしょうか。
目上に服従するフラクタルを作り出すための道具は、行動は、感覚は、世界観は一体何なのでしょうか。

論理がなんだかぼやけてたりするので、改めていつか書き直します。

作: ナイアガラすすぎ
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