空間表現について


 絵を描くうちにそもそもデッサンってなんだろうかと疑問が湧いたり、空間表現の意義について考えることが多くなったので、今回このようなテーマを掘り下げてまとめてみた。
 最初に、そもそも空間とは何かについて、また空間性における描くという行為を、哲学者イマヌエル・カントの価値観を参考に自分なりに考えてみる。



カント的な空間性について

 空間性というものはカントが言うようにアプリオリなものであると思う。つまり経験に基づかない、それに論理的に先立つ認識において成り立つものであるということである。私たちは日々空間の中で「対象」をとらえている。つまり、直観しているのである。そしてその「対象」を感覚的に直観することを感性と呼ぶ。私たちは感覚を通してあらわれる「対象」のありようをとらえるが、それは現象の形式と現象の素材によって成り立つものである。

 形式が質量を整理して明確な「対象」の像にするが、形式の能力は感覚自体を持たず、形式を与える枠組み自体がアプリオリで人間の感性にはじめからあるものなのだ。一方現象の素材はつまりは質量の側面においてはアポステリオリ(後天的、生得的)であるのだ。そしてそれらの能力は「対象」へとまとめあげる人間の感性の形式性それ自体として考察できる。これを純粋形式と呼び、またこれもアプリオリであり、外部からの感覚的な像によらない、一つの独自の「直観」、つまり純粋直観を可能たらしめるものであるのだ。

 その純粋直観によって感覚的な直観から、実体、力、可分性、を取り払い、さらに硬さ、不可入性、色なども取り払うと、残るのは「延長」と「形態」、量と形である。これこそが「空間性」であり、どんなものの感覚にも経験的直観として付きまとう共通性であり、また「純粋直観」として残るのである。

 よって「空間性」は感覚によって経験的に与えられるものではなく、むしろ人が物を感覚するための「形式的条件」あるのだ。つまり「空間性」はアプリオリなのだ。


空間表現とは

 空間はいわば様々な物事がその上に描かれる白地のキャンバスのようなもので、それがなければ個々の対象の絵が存在しない。だから人間の感性が物をうけとる(認識する)その基本の形式性から空間は物を可能たらしめるものではなく、物の現象を可能たらしめている。

 よって「対象」の完全な認識は神のように、「制限されない認識」を持つ存在にしか可能ではない。物自体は「対象」が空間という感性形式を通してあらわれる前のものだから、これを経験=知覚することは全くできないということである。またそれにのっとって考えると、空間自体も認識することは不可能ということである。そもそも無数の空間として認識しているイメージがあり、人はそれを一つの「空間」という言葉でくくっている。しかし私たちは日々様々な空間のイメージの中で存在しているように、それらは無数にあるだけなのだ。よって根本の空間はあるのだが、その存在可能性を垣間見るだけで、その本質的な存在を認識できないのではないだろうか。つまり無数の空間と、空間概念の相互関係は演繹的なもので、その根本の空間概念はつまるところは空間自体であり認識は不可能であるのだ。このことから、平面に三次元の空間を出現させようとするのは、全く認知できない空間概念自体を表現するという、人の認識から神の認識に脱出しようとする、昇華の欲求からくるものではないだろうか。


空間表現の意義

 では昇華の欲求は私たちに何をもたらすのか。神の認識に近づくことによって、私たちは何を求めているのだろうか。

 神の視点は客観的に物事を見ることのできる、いわば理知の境地。そこに至ろうというのだから芸術は哲学の意義を十分に持っているのではないだろうか。むしろこの空間表現においては具体的に意味や目的を求めるというのではなく、空間を表現するという行為に意味があり、それはエネルゲイアを成しているともいうだろう。よって空間表現の意義はそのこと自体の行為にあり、高次の欲求は私たちの心を豊かするだろう。



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