ソフィ

読書から得た知見を元に記事を投稿しています。

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最近の記事

「死」の学びとは

近頃、私が昔から応援していた俳優の方が亡くなられたり、誹謗中傷による自殺などから「死」を考えさせられることが多くなった。 その中、ふとアルフォンス・デーケン著の『生と死の教育』を手に取った。彼は「死への準備教育」の必要性を説いていた。「死への準備教育」とは言葉の通り、死と向き合うことへの準備段階的な教育のことを指している。そして著書の中で海外の実例とともに、「死への準備教育」が小学校から必修のカリキュラムとして組み込むべきであると述べていた。 たしかに幼少期に「死への準備

    • DIOと悪

      以前、Kotoba-悪の研究-という雑誌を買った。私の好きな漫画家(荒木飛呂彦先生)が悪役ついてのコラムを執筆していたので手に取ったが、これが面白かった。全体として各分野の著名人が悪について分析し、執筆していた。 今日はその”悪”について、荒木飛呂彦が描くDIOの記事を読んで考えたことを綴ろうと思う。 荒木飛呂彦先生の代表作として有名なのが、”ジョジョの奇妙な冒険”である。わたしは高校二年生の時にこの漫画に出会って、ディオ・ブランドー(後のDIO)というキャラクターに夢中

      • 空間表現について

           絵を描くうちにそもそもデッサンってなんだろうかと疑問が湧いたり、空間表現の意義について考えることが多くなったので、今回このようなテーマを掘り下げてまとめてみた。  最初に、そもそも空間とは何かについて、また空間性における描くという行為を、哲学者イマヌエル・カントの価値観を参考に自分なりに考えてみる。 カント的な空間性について 空間性というものはカントが言うようにアプリオリなものであると思う。つまり経験に基づかない、それに論理的に先立つ認識において成り立つものであるとい

        • 存在の在処と不確実性

          私はハイデガーというドイツの哲学者が好きだった。彼の”わたしはわたしである可能性でしかない”という価値観はとても印象深い。それは論理的な説明を考える前に直観的に納得できたことだった。このことからわたしという存在についてもっと掘り下げて考えてみようと思い、自分なりに考察してみた。   本当のわたしの在処   ここではまず、わたしは私が思うわたしと他者が思うわたしとで構成されており、私が思うわたしは他者にはわからない、内側と仮定する。また他者が思う、私にはわからないわたしを外

        「死」の学びとは

          イタリアでの水彩テンペラ

           わたしは1年間イタリアのフィレンツェ という都市の国立美術院に交換留学していた。絵画の学部でtechniche pittoriche(絵画技法の授業)を取っていて、水彩テンペラの技法を教わったので、今日はその水彩テンペラについて紹介したいと思う。 テンペラ画 水彩 tecniche pittoriche 下地作り-用意するもの- ・Colla di gesso(ジェッソの膠) ・板 ・Bologna石膏 ・Colla di coniglio (うさぎの膠) ※左:

          イタリアでの水彩テンペラ