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亀岡市との子育てリサーチプロジェクト: 依存しあえる子育て環境と、母からわたしを生きること。

こんにちは、公共とデザインです。
2022年の頭から3ヶ月ほど、亀岡市役所SDGs創生課ブランド戦略会議チームさん・株式会社Tunagumさんと一緒に、「共働き世帯を中心とした子育てにまつわる悩み事」をリサーチするプロジェクトを実施しました。この記事では、プロジェクトの概要や明らかになったことを、簡単な考察ふまえて説明します。

プロジェクト概要

メンバー: 公共とデザイン・亀岡市役所SDGs創生課・株式会社Tunagum
期間: 2022年1月〜3月
内容: 移住促進に向けた子育て世帯へのリサーチと分析

背景: ここなら子育てしたくなる、に向けて

今回のリサーチは、亀岡市への移住を促進するためのブランド形成が出発点にでした。チームの皆さんの事前リサーチをふまえ、京都市内の子育て世帯が亀岡に移住するためのブランディングを目的に設定。
では、どうしていくか。単にマーケティングやPR、という単純な話ではありません。亀岡というまちを「ここなら子育てしたくなる」と感じてもらうための環境を整えることが重要です。そのためには、当事者の方々の子育てのリアルを理解し、理想的な状態ってなんだろう、を想像しなければいけません。
その現状を深く知っていくために、株式会社Tunagumさんと、私たち公共とデザインがプロジェクトパートナーとして、リサーチを共同実施しました。

リサーチの力点: 何を知ればよい?「わたし」と「家族」と「地域」の相互依存から子育てをとらえる

「子育て世帯の悩みや理想を知る」といっても、どういう切り口で何を知りたいのか、をより深める必要があるので、まず市役所メンバーとともにリサーチの設計を行うワークショップを実施。
ワーク以前は「子どもと向き合う時間や自身のための時間をゆっくり取りたいが、家事や仕事で時間の捻出が難しいのでは?」といったチームの仮説はあったものの、それ以上のリサーチの視点はありませんでした。
ワークショップでは事前にチームが作成していた子育て世帯の夫婦像とトピックカードをもとに、ペアを組んで夫役・妻役を決めて、夫妻の「日常の悩み」を会話する即興演劇をしてもらいました。

ペルソナとカードをもとに即興演劇をする

演劇ワークでは、女性メンバーが夫役を演じたり、子どもを持たないメンバーが子育ての悩みを語ったり。自分たちが働きかけていきたい子育て世帯がどういう気持ちなのかを、生々しく想像していける一方で、思ったよりも「演じられない・語れない」ことも多々あり、プロセスの中でチームが何を知っているのか・何を知らないのかを考えるきっかけになっていきました。
結果、以下の3つの観点でリサーチの力点を設定しました。

「親」という役割は、その人の人生のいち側面であるのですが、全てがこども優先になって”わたし自身の時間”を蔑ろにしてしまう方も多いのではないか。実際に、以下のようなTweetも見受けられます。その現状や、どうしたら子育てしながら「わたし」としても生きられるか、のヒントを探っていきました。

次に、夫婦やパートナーの育児や家事への向き合い方、例えば家事分担のルールはどのように決められているのか、そこに対しての不満はあるか...を見出していく夫婦関係を力点に設定。
最後に、夫婦やパートナーを超えた、子育てをとりまくサポート環境。どう家族だけではない周囲の人びとと、子どもへのケアを分かち合っていけるか、は大きな論点です。そこで、現状どういう地域の人・サポート組織・制度が絡み合い、どう機能しているのかを探りました。
重要なのはこの1つ1つの力点が互いに影響を及ぼしているであろうことです。例えば、夫婦でのケア労働の分かち合いや周囲のサポートが「わたし」として過ごす時間の確保にもつながる、といったように。 また、これらの前提として、子育て以外の移住にまつわる決め手や亀岡の魅力などもあぶり出していきました。

リサーチから明らかになった、子育て世帯の課題

リサーチは、主に働きながら育児をおこなっている女性で、①京都市内に住む移住検討をしている方・②亀岡市に移住してきた方・③亀岡市を転出された方、にご協力いただき進めていきました。
オンラインと対面でのインタビューを軸に、言葉にしづらい点は以下のように具体的なエピソードや感情が表現しやすいようにツールを用いました。

その後、市役所メンバーとワークショップ形式で、インタビューで得られたデータを分析し、明らかになったことをマップにまとめていきます。

分析ワークショップの最中
最終的な分析の図解

ここからは、リサーチで見えてきた発見のいくつかをお伝えできればと思います。

「母親」としてのみ生きるのではなく「わたしにもどれる時間」および「理想の生き方に向き合う時間」はどう確保できる?

多くの方が生活上の意思決定が子どもファーストになり、出産前には当たり前だった買い物やお茶をするなど、わずかな息抜きをするのも難しい現状でした。また、夫の不参加や周囲に頼れる人がいない場合には、そうした時間をより圧迫していました。もちろん、子育て自体が「わたしの歓び」でもあるけれど、多くの時間を「母親」の役割として生きることで「わたしそのものの時間」を過ごせない側面もあります。

「母親」の時間が大半を占めることで、どんどんと「何が望ましいのか」を考える機会が失われていきます。たとえば、ある方は出産前に転職の機会にとことん自分と向き合う経験をされて「こういう仕事が自分にとってのやりがいだ」と見出すことで、それが育児中も「わたしの望ましさ」を保つ希望であることが重要な発見のひとつでした。どうすれば、子育て前から、また子育て中にわたしの理想に向き合う内省の機会を、カジュアルにつくることができるでしょうか。

子育てを他者に任せること・わたしの時間を過ごすことに感じる”罪悪感”を、どうやって解きほぐすことができる?

社会的イメージや親世代の発言から形成される「母親はちゃんとしなければならない」といったプレッシャーは、「子供を遊ばせて自分はゆっくりしたい...」という願望があるにも関わらず、子育てを誰かに任せてわたしの時間を過ごすことへの罪悪感を生み出しています。ベビーシッターなどサポートの選択肢を充実させることは重要ですが「理想の母親像」やそのイメージが出来た背景から問い直すことも必要です。

夫は働きに出て妻は家事・育児をやる時代にかたちづくられた「母親像」のイメージは、いまだに社会一般に根付いており、母親自身もそのイメージを持っていることが見受けられました。こうした一般的に流布している子育ての当たり前にまつわる物語やイメージを変化させていくことで、罪悪感からの解放にもつながるかもしれません。

夫婦間の育児分担のバランス問題が「ちゃんとした母親像」をさらに強める。その背後にある、育休取得や平等な育児参加をどう実現できる?

インタビューした方の家庭の多くで、夫との家事・育児のバランスが問題でした。共働きでも、男性と女性のあいだの家事・育児の分担は不均衡があり、夫に直接不満を抱えていない家庭でも「十分手伝ってくれている」という発言も。実際の育児分担の割合や「手伝っている」という言葉のニュアンスからは、メインで担うは女性であること、そのため子育てを「独り」で行う大変さを抱えていることがわかりました。

しかし、夫が家事や育児を担えるようになるためのコミュニケーション等、女性側の負担・手間が大きいことから、最終的に「これが一般的に当たり前、他の家庭もそうだろう」の”諦め”につながること。さらにはそれが、「母親はちゃんとしなければならない」といった重圧を強める悪循環につながっていました。

とりわけ、初期の育児休暇の取得の有無や期間によって、子供が産まれてから同じ経験値でスタートした夫婦のあいだで、育児経験に徐々に差がつくことから「できるほうがやる」ようになり、育児参加へのバランスが崩れ始めることも見えてきました。育休取得の促進および育児経験に差がついてしまった後のキャッチアップの支援は重要課題です。

実家が近いといつでも育児の助けを求められ、安心できる。では、実親が近くない人が助けを求められる場所をつくるには?

亀岡に移住した方の多くは、近くに実家ないしは義理の両親の家があり、良好な関係が築けている際には、必要なときに親のサポートを受けられるため大きな負担軽減につながっています。
一方で問題となるは、義理の両親の家が近くても夫の育児参加への態度如何で、気兼ねして頼りづらいケースや、実家も義理の両親も近くにいないケース。

その際、家事・育児の負担を分かち合うサポートや環境をいかに形成できるのか、が重要です。たとえば保育園でも子どもを預かってくれるといった機能面だけでなく、親に寄り添った目線や子どもに向き合っている姿勢から、親側も「子育てを独りでしているわけじゃないんだ」という連帯的な感情や負担の分かち合い、という心理的なケアの重要性もわかりました。

亀岡の風景

子育て世帯のとっての亀岡の魅力とは?

亀岡という土地に住むことが子育て世帯の方々にどう受け止められているのか、何が魅力なのでしょう。いくつかの観点はありますが、とりわけ自然環境が豊かでありながら、京都市内からのアクセスのよいため、通勤できる場所柄です。ただ、実際には市内から山を超えるためなのか物理的には近いのですが心理的に「亀岡って遠い」になりがちなところもあるので、一つの課題です。

「亀岡の保育所はカニ取り、田んぼの畦道を歩くなど都会ではできない体験ができてファンになった」という方もいて、幼少期の自然教育の環境と都市での仕事、どちらかではなく、両取りできるのは魅力的なポイント。
しかし、こうしたアクセスや教育面などはうまくPRできていないと漠然と持っている「田舎へ住む不安感」や「都会に比べて(教育なども)遅れているのでは疑念」がつきまとい、ハードルになることも明らかに。すべてを都市部とおなじにできないからこそ形成される魅力から、子育てや暮らしを営むイメージをどう生々しく築いていけるか、が問題です。

分析により見出した取り組むべき領域を、問いのカードに落とし込む

こうしたリサーチから分析と議論を経て「どうしたら他の家庭の子育て方法を知ることができるか?」のように、取り組む必要がある領域を問いの形式に落とし込みました。それを今後の議論やアイデアの発想にチームで活用してもらえるようにカード化してお渡ししました。

リサーチを経て: ここなら子育てしたくなる。依存しあえる環境づくりへ

公共とデザインでは、「わたしの内なる光を灯す」をミッションに掲げ、誰もが肩書や役割という仮面ではなく<わたし>の望ましさを実現するための環境づくりに取り組んでいます。その視点からとりわけ印象だったのは、「母ではなくわたしとして生きる」ことの難しさでした。子どもを持つと、あらゆるものごとの基準が子ども優先になるけれど、それ以上に重要なのは夫婦の子育てへの対等な向き合い方・分かち合いや、血縁家族を超えたケア環境の欠如がそれを強化していたこと。
これは、夫婦の関係性の問題もあれば、社会が期待する女性像の支配的イメージ、労働力として人を扱う企業文化、地縁コミュニティの薄れによる助け合いの欠如、過酷な労働を強いる経済システム...など多くのレイヤーの問題が複雑に絡まり合っています。

わたしたちは、何をしていても他者に依存しています。誰しもが子どもとして生まれ、親をはじめ多くの人に依存しながら育ってきましたが、現在はその子育てをする親自体が、子育てのためにもっと助けが必要な状況です。『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』という本は、現在の経済理論の基礎を唱えたアダム・スミスが、母親の全面的な家事労働に依存していたにもかかわらず、そうした女性の犠牲に目を向けてこなかったことを指摘しています。

子どもを宿したときから、それまでのやり方は通用しなくなる。公私を分けておくのはもう不可能だ。ふくらんだおなかを私生活の領域である家に置いてくることなどできない...それは自分の一部であり、自分自身なのだから。 『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』

<わたし>の望ましい生とは、子どもを持てばもはや<わたし>だけのものではありません。子どもも自身の一部だからこそ、望ましさに向き合うときに子どもが気がかりになってしまうのは自然なことなのでしょう。一方で、周囲の助けがないと<わたし>と<母親>が重なりすぎてしまう危うさがあります。そうなることで、自身の望ましさが分からなくなってくる、という悪循環に陥ってしまう。そのために母親じゃない時間も必要であり、そうするには周囲の助けがいるのです。

改めてそこに目を向けなければ子育て環境を想像しなおすことはできません。つまり、いかに依存しあえる=ケアしあえる環境をつくるかが、「ここなら子育てしたくなる」と感じるために必要です
一昔前はケアする母親がケアされる子どもに労力を注ぎ、夫がその母親を支える構図が一般的でしたが、今は共働きが当たり前の時代、それでは成り立ちません。しかし、夫婦だけでやる限界もある。ケアがなければ子どもも育てられないし、子どもを育てる親も心身ともに持たなくなってしまうのですから。そこで、ケアする第三者が多様化することが重要であり、家族に閉じずに広い範囲で少しずつ負担を分かちあうためにどうすればいいか、が問題です。

今回のリサーチから、すでにあらゆるかたちー実質的なケア労働を肩代わりするだけではないー心理的なケアの分担がなされている側面も見えました。例えば、真摯に子どもに寄り添ってくれる保育園の先生は、一緒に子育てを担っている感覚がこころの重荷を解きほぐしていたり、近所のおじいちゃんが挨拶してくれることで、地域の目があるので安心できたり。高校や大学の友達と、ママ友でも担っているケアの役割が異なることも明らかになりました。当たり前かもしれませんが、すでに子育ては夫婦や家族だけで閉じないネットワークで支えられているのです。ただ、実際に子どもを面倒みる、といったケアの分かちあいの体制はまだまだやれることもたくさんあるのだと思います。すでにある関係性をよりケアできる方向へもう一歩進めることができれば大きなインパクトにもつながり得ます。

こうした「ケアしあえる環境づくり」と同時に、「ちゃんとした母であらねば」といった重圧にも対峙していかなければいけません。これは、互いに影響しあう鶏と卵のようなものでもあり、ケアしあえる環境ができれば自然にもっと周囲に頼れるようにもなる可能性もありながら、自身に内面化してしまった思い込みを変えること、つまり夫や他者と一緒に子育てをするのが当たり前という共通イメージを望ましさとして持つことで、取っていける行動も変わりえるのだと思います。

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やるべきことは多いし簡単な話ではありません。しかし、今すでにあるものを活かしながら改善していく小さな一歩だって踏み出せます。たとえば、インタビューの中で室内の子どもたちの遊び場的な公共施設である「かめまるランド」を活用している、と多くの方々から伺いました。

かめまるランドのイメージ

この結果をふまえた議論の中で市の職員さんは「でも、来ているのは母親と子連れが多いよね」と問題提起。もしここに父親が集まったら?そうすれば、よその家では父親が来るのも当たり前なんだ、と内面化した子育てイメージを変えていく一歩になりそうです。意外にも、重要なことはそうした日常の風景の中でこれまでと違ったかたちに出逢えることなのかもしれません。

またリサーチでは「ママ友をつくることの難しさ」も明らかになりました。こうした拠点性の高い場所で、子ども同士が遊ぶなかでママ同士も雑談を楽しみます。もちろんフランクに顔が合わせられたり、他愛もない話ができればOKな距離感がよい人もいるが、より仲を深めたいけどできないきっかけが足りない場合もあります。しかし、こうした時間は「わたしにもどる」までは行かずとも、大人同士で話せる重要な時間です。

そこを後押しする何かがあれば、互いにいざというときに助けを求められる関係性につなげられることもできるでしょう。
さらには「ママ友」という言葉はあるけど「パパ友」という言葉はないっておかしいですよね。「パパ友」のつながりをつくるには?なんてことを考えることも必要かもしれません。

上記はほんの一例ですが、今すでにあるものに目を向けて、一歩ずつできることを考え、試し、住民の方々と話ながら成果を確認しながら積み上げ続けること。それに尽きるのだと思います。市役所として、かめまるランドに見て取れるように、現在子育て世帯の方々と持つ直接的な接点は非常に重要ですが、そのあり方を改めて見直すことは最初の一歩としてやりやすくもあるポイントです。

おわりに

今回のリサーチプロジェクトはこれにて一旦終わりとなりますが、取り組むべきことだけでなくもっと知らなければいけないさらなる疑問も多々出てきたと思います。行政として、継続して施策だけではなく子育て世帯やその他住民の方々との対話を重ねていくことで、理解をさらに深めながらともにまちづくりを進めていけることを願っています。
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今回のようなリサーチや行政ー住民との協働、クリエイティブ視点での市民参加やソーシャルイノベーションなどの理論と実践例について興味をもっていただけたら、本マガジンのフォローをお願いします。また、このようなコミュニティ活動の支援、その他なにかご一緒に模索していきたい行政・自治体関係者の方がいらっしゃいましたら、お気軽にTwitterDMまたはWEBサイトのコンタクトページよりご連絡ください。

一般社団法人公共とデザイン


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