スピリチュアル再入門 第10章 祈り1

 祈りについて

「寒々として霊性を寄せつけない地上生活にあっては、あなた方の魂と、その欲求を叶えようとして待機している背後霊との間の磁気的霊交が、真摯な祈りによって如何に強く促進されるかをあなた方は知らない。
 その絆は使うほどに強化され、交わるほどにその親密度を増す。
 祈りが如何に豊かな霊的恵みをもたらすかを知れば、あなたもより多く祈るようになるだろう。
 

 博学な神学者は、祈りの価値について、その核心を知らないまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けている。

 彼らは、神を求める魂の真の欲求を聞き届けようとして待ち受けている背後霊たちの存在を知らない。
 もっとも無理もない話しである。
 現時点における科学では立証できない性質のものだからである。

 そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計ろうとする。
 結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価しようとするのである。

 が、それでもなお彼らは迷路をさ迷い続けている。
 なぜならば、そうした努力によって掴めるものは形骸のみであり、その真相は、彼らの視界へは入らないからである。

 祈りの結果は、そのようなことでは計ることはできない。
 人間の科学では捉えられないものである。
 それは、あくまでも霊的なものであり、個々の祈りによって、結果もまたさまざまな形式をとる。
 背後霊たちが異なるように祈りの結果の表れ方も異なる。



 無言の願いが叶えられないままであることが、実は魂にとって最高の恵みであることが往々にしてある。
 虚空に向けて発せられた悩める魂の叫び―悲しみによって絞り出された叫び―それ自体が魂の救済であることがある。
 
 が、待機している背後霊たちが、その重荷に苦しむ魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込もうと努力している姿を見れば、魂が覚える何とも不思議な安らぎと、神への確信が、どこから来るかが理解できるだろう。
 
 それをもって祈りが叶えられたという。
 
 魂の奥底からの叫びが、背後霊たちとのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶える心が慰められる。

 緊密な関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実な叫びがもたらす恩恵の一つである。
 真の霊交は、それ以外の条件下では実現しない。

 天使の住む“神秘の間”に入れる者は、よほどの霊性を開いた者に限られる。
 同時に、私たちの側から最も近づき易い魂は、普段から霊的交わりを重ねている者である。
 友よ、これに例外はない。
 それがあなた方の世界とのつながりを支配する不変の法則の一つである。
 
 すなわち、霊性に目覚めた魂が、豊かな霊的恵みを受ける。

 願いごとへの真の回答は、必ずしも人間がその無知から勝手に期待する通りのものとは限らない。
 往々にして、その願いごとを叶えることが、当人に害を及ぼすことにもなりかねない。
 当人は真相を知らないまま、性急に、愚かな願いごとをする。
 当然その祈りは無視される。
 が、切実に祈る心の姿勢が、待機している背後霊たちとの連絡路を開き、その必要性に応じて力と慰めが授けられる。

 人間がもっと祈りの生活をしてくれれば、と思う。

 それは、無理強い的かつ非現実的な嘆願や、為すべき義務を怠り、貴重な試練の生活を、病的とも言うべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰な瞑想に費やす病的な信仰生活のことではない。

 真の祈りの生活は、それとは全く別である。


 真実の祈りは、守護しようとして待機している背後霊たちへの魂の奥底からの叫び、直情的発露でなければならない。
 気まぐれな要求に応え、変え得ない筈の法則を喜んで変えてくれるような神への他愛のない幻想が、祈りの観念を大きく傷つけている。

 そのようなことを信じてはならない!

 
 祈り―魂の無言の希求を読み取り、それを叶えようとして遥か上界との連絡の労を取ろうとして待機している背後霊たちを通じての神への直情的叫び―これは形式の問題ではない。

 一語一語述べる必要はない。
 宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要もさらにない。
 
 真の祈りとは霊と霊の直接の交わりであり、日頃から交信している見えない仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じて、その要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつ、その回答が思念のような速さで送り返される。その一連の営みを言う。


 言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒すことのできる霊の手にあずけることである。
 言葉も身構えも形式もいらない。
 むしろそうしたものへのこだわりが消えた時こそ、最も真実味を帯びるものである。

 必要なことは背後霊たちの存在の認識と、それとの霊交を求めようとする直情的衝動のみである。
 そのためには、日頃の訓練が望まれる。
 さもなければ、日頃の使用を怠った手足のように、その衝動に反応を示さなくなる。 
 よって、日頃から霊性に目覚めた生活を営む者ほど、霊的世界の深奥に入ることができる。
 その種の者には、私たちの方からも近づき易い。

 外界の喧噪に影響されることなく、その者のみが有する、私たちにのみ反応する奥深い部分に触れることを得る。
 彼らは地上に在りながら極めて高い霊性を発揮する。
 なぜなら、日頃から霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しているからである。

 彼らには、物的生活に明け暮れている者には一層閉ざされている霊的真理の秘密への扉が開かれている。
 そして不断の祈りによって彼らは、少なくとも、地上生活においては、苦しみも悲しみも、彼らの成長にとって必要不可欠であることを悟り、それらに超然とした生活を送ることができる。


 ああ!このように素晴らしい摂理を、地上の人間が知らないとは何と悲しいことか。

 この真相が、いま少し理解されれば、人間は、清純にして気高い霊の雰囲気の中で暮らせるものを。

 霊性の自覚によって、覗き見趣味的好奇心に駆られ、己の分際も顧みず心霊の世界に深入りした者を悩ませ、また時に悲しいかな、真摯な探求者をも悩ませる邪悪霊らの影響から免れることを得るだろう。

 たとえ完全には免れ得なくとも、その真理の普及は、少なくとも危険からの保護を提供し、かつ人間に為し得る他のいかなる手段にも増して、私たちの力となるだろう。
 それは、私たちの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする最も有効なる力となるだろう。

 ひたすらに祈るがよい。
 但し、心のこもらぬ絞切り型の嘆願とならないよう心がけよ。
 魂と霊で、私たちと交流せよ。
 あなたを尊重してくれる霊との交流に専念せよ。
 他のことは収まるべくして収まる」

『霊訓(上)』W・S・モーゼス著 近藤千雄訳(P166~169)『Spirit Teachings』William.Stainton.Moses (P96~98)

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