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引用文献の自覚

こうやってnoteに書いたり、人と話をしたりするとき、自分の経験を参照することが増えた。

そりゃ実際、他人と同じ経験はできない。だから自分の経験に基づいて話すしかないのだけど、その上で自分が話すとき、何の経験に基づいて話しているか自覚的になったと思う。

本で読んだ、テレビで見た、といった体験を含めた「あの経験」を元に今喋っていると気づけるようになったとも言える。

何となく〜と思う、〜と感じるだけではなく、◯◯という経験をしたから今自分は〜と思っていると意識するようになった。

論文調に言えば、常に引用文献(田中、2020)(鈴木、1999)みたいなものをきちんと記して文章が書けるようになった。こういう考えを受けた上で、私はこう考えました、と書くのは論文の世界では大前提だ。

日常会話に置き換えたとき、引用文献は本だけじゃなくて実体験も含むし、1つの考えに1つの経験とは限らない。

これまでの◯◯と△△と◻︎◻︎という経験から、今こんなことを考えるようになったんだなあと気づくときもある。

後から全く別物と思っていた知識や経験が、ちょっとしたきっかけでつながって新しいことを思いついたりする。

現在の思考や感情の元となる原体験のようなものを意識することを「引用文献の自覚」と定義したいと思う。

引用文献の自覚は、これまでの経験を物語として自分自身がより納得できる形で語ることと密接な関係がある。

例えば、カウンセリングの場面。精神的な悩みがあったとき、混沌とした状況やこんがらがった不安で自分の心がいっぱいになる。それが外から見て異常な思考や妄想的な行動につながったりする。まずその不安を少しずつ語り、安心を取り戻すことがカウンセリングの役目の1つだと思う。

これを引用文献の話でも説明することができる。不安で苦しい状況にいるとき、なぜ自分がこんな状態なのか、そもそも今自分が何を感じているのかすら分からないことがある。

そこで1つずつの経験(引用文献)と感情(言葉)を他者と共に整理して、自覚的に語ることで、自分の状況をとらえ直し、安定した足場を作ることができる。納得できる理由(物語)は安心への一歩へとつながる。

実際とても困難な道のりであることは承知の上で、理想的にはこういう道が目指されていると思う。

つまり、自分の思考や感情の引用文献の自覚は、悩みや不安に対応する方法の1つとしても有効と言える。この話自体はナラティブセラピーを意識している。

ただし、この自覚を推し進めていくと、今自分が考えていること全てに元となる文献(経験)があって、何が「自分の」考えなのか分からなくなってくる。

もちろん全て「自分の経験」基づく「自分の考え」であるのだけど、例えばその「自分の経験」の多くが他人(例えば、親や先生)からコントロールされたものだったり、経験自体が実体験ではなく他人を通して見たり聞いたりしただけ(例えば、本やインターネット)だったらどうだろうか。

自分の意思で選択して、飛び込んだ環境で得た経験。それに基づいた思考や感情には「自分のもの」という感覚が生まれるかもしれない。しかし、それほどの主体的な選択による経験はどれほどあるだろうか。

さらに、そもそも自分の意思すらも、他人から与えられた経験から生まれているとしたら、何をもって主体的な選択と言えるのか。恵まれた環境にいるからこそ、その選択肢が見えているに過ぎないことを引用文献の自覚は暴いてしまう。

引用文献の自覚は、論文を書くときはもちろん必須だが、日常の悩み対策的にも非常に優れたツールだと思っている。

でも、この自覚は日常でちょっと嫌なことがあったりしたらたちまち、つまらんことしか考えられないし、大したこともできない、自分らしさなんてない、といった無力感のトリガーになりうる。

所詮、今与えられている狭い環境の中で、自分の思考の源泉を巡り、秘密の財宝を見つけた気分になっている「内向的冒険ごっこ」なのだと。そこには落ち込む自分自身に酔う感覚もきっとある。

自分を見つめ直すという意味では、一度自分の引用文献を自覚して、その文献の狭さに絶望してからが本番だと思う。そこに至っていない反省はただの愚痴じゃないか。愚痴を否定するわけではないけれど。

こんなことを書いたけど、今はとってもハッピーだ。特に嫌なことも不満もない。今夜の雨で靴下まで濡れたこと以外はいい日だった。ふと落ち込むときの自分を思い出して書いてみただけ。

1つの概念を自分なりに定義して進めると、文章がぐっと締まる感じがする。詰め込んで書いても、何を書きたかったのかが明確になる。どこかで誰かが「人文科学は定義に始まり定義に終わる」と言っていたけど、その通りだ。

ただ、できたらもう少し馴染みやすい形で「定義」を使っていきたい。引き締まる分、硬く読む気が失せる。

一方で概念定義に比喩的な表現を使えたのは評価してもいいと思う。人間を本に見立てて、その経験を引用文献とする感覚は、本読みの人間に共感を得られやすいと思う。たぶん。

抽象的な言葉で論理を進めると、クリアで切れ味のいい展開ができる。その分、その抽象的な概念とその前提知識を共有していないと読みにくいし、読み手の体験に直接にアクセスできない。

僕個人としては、受け手の体験に訴えかけられる話ができるようになりたい。受け手の体験を引き出すために、具体例や比喩を使いこなしたい。

いかに日常的な言葉選びから、新しいアイデアを語れるのかを考えよう。

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