私とイエス・キリスト

私たちは職員室前の柱にピタリとひっついて立っていた。柱はおよそ2m間隔で、共犯者10人がそれこそソーシャルディスタンスを取っている。1人ずつ尋問されるので待つのも一苦労だ。宙を見ていた。
私は何をしたのかハッキリ覚えていて、その罪も償うつもりだ。しかし行為に及んだ刹那、全く罪悪感などなかった。なぜなのか。なぜあんなことをしたのか。

結局のところ、私は女子トイレに入ったのだ。確かにその時、私は真剣な眼差しをしていた。これは私だけの責任ではなく、多数の友人に後押しされた結果だった。
私は女子トイレの奥の壁にタッチすると、ようやく安堵して帰路についた。向こうで待つ友人たちを思うと誇らしい気持ちになった。胸を張ってのれんをくぐった。


先生がいた。壊れたゲームのように硬直し、こちらを凝視していた。怒号が響いた。鼻腔が外のひんやりとした空気に包まれるのも束の間、私は腕を掴まれてそのまま引きずられた。

思い出しただけで嫌になり、今にも座り込みそうになる。が、私は懸命に立ち続ける。

茫然としながらイエス・キリストに思いを馳せる。ここはきっと現代日本に蘇ったゴルゴタの丘だろう、とかなんとか考えながら柱に磔り付けられていた。
この柱に立たされるまでに食べた給食を思い出した。とっくに給食の時間は終わり、ご飯や味噌汁は冷め、魚は硬くなっていた。あれが最後の晩餐だったとしたら、ひどく悲しかった。あの時逃げた共犯者はユダなんだと思った。

冷えた生き物を胃に詰め、私は立っている。私はますます自身がイエスの生まれ変わりだと思い始めている。

その日は金曜日だった。やはり、処刑後3日目に復活を果たしたイエスが重なった。私は週明けの月曜日に復活を果たすのだと信じた。私の弟子たちが私の無実を証明すると信じた。


しかし、月曜日、クラスに私の居場所など無かった。それに無実ではなかった。我にかえった。
この出来事を引き金に私は自分が選ばれし人間なんだ、と心のどこかで抱えていた自尊心が崩れ、ひどく謙虚になった。そして、残りの中学校生活を窮屈に暮らした。私はイエスではなかったのだ。

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