期待された役割~シンプルな自分へ

2月最終日のイベントはつつがなく実行されました!久しぶりにキレイ目の女装して都会へ出たら楽しくて。実用に終始する生活とは違う時間が流れていました。たまにいつもと違うことをするのはいいですよね。

今日は、期待された役割ということについてちょっと考えました。

例えば私は妻であり母であり、保護者であり地域の大人であり、4月からは専門学校生になり2年後には有償労働者になる予定なのですが、そのそれぞれの社会的役割について、ある程度の期待された内容を想像しながら行動しています。

期待された内容とは何か。その役割を文句のない水準でこなすこと。もっと言えば、他の人から「きちんと役割を果たしている」と認めてもらえるであろう内容です。けれど、実は「他の人」とざっくり想定している相手は、自分のコンプレックスだったり、思い込みだったり、見栄や欲だったり、つまり自分でハードルを上げている部分が結構大きいのではないかと思います。元エセ完璧主義者だったから今ではそう言えるのですけれど、当時は他人より秀でていてなんぼ、劣っている部分はとにかく隠し通せ、みたいな単純な構図で生きていたような気がする。…ムリですよねw

ざっくり想定の「他の人」はなかなか心から離れてくれないけれど、今では別の基準で行動するようにしています。それは「必要と感じるか」とか「自分が楽しいか」とか、他の人ではなく自分基準で行動を選択すると同時にその責任も自分が負うということです。場の雰囲気を悪くしないように上手に自分の意見を伝えるとか、楽しくやるためにはどんな条件が必要か考えて整備するとか。具体的な技術をたくさんの失敗から学んできて、ようやく自分が好きなことを言ったりやったりしてもいいんだな、って心から納得できました。

だから、今現在いろんな期待された役割を抱えて暮らしている人も、その中で自分にとって必要なことは何かとか、自分が楽しいと思えることは何かとか、探しつつ準備しておいて、人生の階段の踊り場みたいなところに出た時にぱっと行動を替えちゃおうって思っていれば、いつかそういうチャンスはくるんじゃないかな。一概にいつとはいえないけれど。大概自分目線では猛烈なピンチで大きな変化がある時にそういうことがぐっと効いてきます。結婚とか育児には時折シビアな場面があって、見かけ上も実質も確かにつらいですけど、長期的に見れば人生をシンプルにしていくための試練なんですねきっと、洗練と言ってもいいかもしれない。期待された役割を繰り返し考え直していくとついに、納得がいくシンプルなものが残っていく。

大きな試練にぶつかって、そこから自分の知恵と工夫でなんとかバージョンアップしてきたことの確かな手応え。その人にふさわしい試練が与えられるっていうけれど本当だなぁ、見事な解決だよな。自分もこの持ち場で精一杯やっていこう、きっと大丈夫、って感じられることの不思議。なんかそんなことを考えながら、すばらしい完成度の音楽をずっと聴いておりました。とてもしあわせな時間。ありがとう。

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