『戦争論』第二篇第一章「戦争術の区分」

『戦争論』第二篇第一章「戦争術の区分」

 クラウゼヴィッツは第一篇の緒言において次のように述べている。

 いまここで考察の対象となるのは、まず戦争を構成している個々の要素であり、次にこれらの要素の集まりから成る個々の部分であり、最後に内的連関を保つところの全体としての戦争である、つまり単純なものから複雑なものへ進むわけである(上28p)

 つまり、クラウゼヴィッツは戦争を、要素-部分-全体という関係性で認識しており、彼がまず第一篇において取り組んだのはまさに「全体において戦争とは何か」ということであった。

  第二篇第一章でクラウゼヴィッツが行うのは戦争における概念の区別化である。つまり、全体としての戦争概念を踏まえさらに戦争における考察を深化させるために、全体から部分そして要素へと落とし込む作業を行っている。

 クラウゼヴィッツにおいて、戦争とは本来の意義において闘争である。武器と装備の発明は闘争の外貌を著しく変化させたが、闘争の概念は不変であり、また発明自体は闘争そのものではない。

 これを踏まえ、戦争を、闘争に備える活動闘争そのものの二種類に区別する。戦闘力を、闘争そのものの手段とするならば、戦争術とは戦闘力を闘争において使用する術である。この意味の戦争術は用兵と呼称される。これに反して広義の戦争術には戦争のための一切の活動が属する。

 クラウゼヴィッツの区分を図示すると以下のようになる。この区分を正確に理解することにより、クラウゼヴィッツがこの後の章において、この区分の中のどのことを語っているのかを把握することが出来る。

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 クラウゼヴィッツは上記の区分化を行ったうえで、狭義の用兵分野における戦争の理論化を行うことを宣言している。つまりここでは、戦闘力の創設、育成及び保持は理論化する上で排除されているのである。

 クラウゼヴィッツはなぜわざわざこのような概念の区分化を行ったのか。それについて彼は、概念の区分化を軽視する人々に対する批判も含めて以下のように述べている。

 それにも拘らず理論が、まず第一に着手せねばならぬ仕事は、互にもつれ合っている乱雑な概念や表象を整理することである。そして名称や概念を十分に理解した上で、初めて理論的考察を明瞭かつ容易に進めることができるし、また読者と常に同一の観点に立っていることを確認できるのである。戦略と戦術とは、空間的および時間的に互に交渉し合う二種の活動であるが、しかしまた本質的に異なるものでもある。それだから我々は、戦略と戦術との概念を各別に確定しない限り、この二通りの活動をそれぞれ支配するところの内的法則と両者の関係とを、とうてい明白に考えることができないのである。
 このようなことをまったく無視して顧みない人は、およそいかなる理論的考察にも無縁であるか、さもなければ彼の知性は、やくたいもない思想が一向に気にならなかったに違いない。やくたいもない思想というのは、それ自体混乱しているばかりでなくまた他者をも混乱せしめ、確固たる立場によって支持せられず、また理論的に満足すべき結論に達していないどころか、或は平板な或は空想的な或はまた空疎な一般概念のなかに、根無草さながらに漂う思想のことである。実際にも我々は、戦争指導に関してかかる思想をしばしば聞きもしまた読みもした、学的研究に徹する精神の持主にして、この問題の解決に専念する人がまだ極めて稀れだったからである。(上 153-154p)
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「たとえ外見に現れることがなかろうとも、成功のきらめきではなく、誠実な努力と義務への献身が人生の価値を決定する」ヘルムート・フォン・モルトケ