浅野祐吾の「兵学の師」西浦進

西浦進氏追悼録編纂委員会『西浦進』(1971)非売品 より

 兵学の師
陸上幹部学校教官 浅野祐吾(51期)

 「西浦という男はなあ・・・・・・」にはじまる岩畔将軍の話は過去三十年の間折に触れ、さまざまのエピソードとして聞かされてきた私である。

 去る昭和十六年十二月の開戦直前岩畔大佐の率いる近歩五連隊がプノンペンに在って作戦準備中、同隊の某将校が泰仏印国境で、あやまって泰の武官を殴打すると云う国際的大事件を引き起こし掛け、我々は色をなして狼狽したことがあった。しかしこれは極めて瞬時にして解決されたのである。それが如何にして処理されたかの詳細はわからないが、結果的に見ると当時東條総理の秘書官だった西浦大佐の快刀乱麻の処置によるものであったことを一中隊長であった私は連隊長から聞かされ、爾来西浦さんへの畏敬の念がはじまったのである。

 爾来二〇年幻の西浦さんが私の胸の中に育っていったが、初めてお目にかかったのは昭和三十五年の春であった。突如戦史室長室の扉をたたいたのは私が本格的に兵学に取組もうと決意し、先づその教えを請おうとしたからである。

 長駆痩身、白髪の老軍人は十七年も後輩の私を笑顔をもって温く迎えてくれたが、その高き気品と、控え目ながら犯し難い威厳が先づ私の胸を打ったのである。約二時間に亘る対談は、クラウゼウィッツの戦争論第二篇の中の「理論と教義」の関係を中心とする激論に終始した。その間の此の師の顔には老人とは見られない若さと学問的情熱のみなぎっているのを感じ、私は思わず心の昻まりを覚えずにはいられなかった。師が最後に「理論の勉強は、これを創造する過程において能力をふりしぼることに重要な意義があるので、出来上がった成果はたとえ瓦礫の如く捨て去られても惜しくはないのだ」と云われるに到って、私は松坂の一夜真淵の言葉に打たれた宣長の心境に似たものを感じたのである。

 兵学の師はやがて心の師となり、此の十年間私はむさぼるように此の師から吸収しようと努めて来た。研究が孤独と不安を生むときは、知らず、知らずのうちに戦史室長室に足が向いた。お伴をして各所に出向く機会も多くなった。

 京都に旅したとき師は自分の若き日を懐かしがり、私をつれて深夜の祇園の街を数時間歩るいて様々の話をして呉れた。健脚の老人に引きづり廻され漸く明け方ベットに横わるや、師が私より一足先きに健康そうな軽いイビキをかいておられたのが忘れられない思い出である。

 常に控え目な西浦さんに積極さが強く感ぜられたのは昭和四十五年の春であった。

 それは岩畔将軍と二人で「昭和の動乱史」を書こうと決心された時であり、私がこの御両人の御手伝いをすることを誓ったときであった。

 この御二人の昆布を傍の見る目も羨しく、実に丁々発止として、さながら一幅の名画を見るようであり、曽ての軍事課長と高級課員の関係も斯くやと目をみはるばかりであった。

 しかし運命のいたずらは、この状態を続けることを許さず、先づ西浦さんを治らざる病の床に送り、更に岩畔将軍をも死出の道に旅出たせた。一時絶望といられた病状も十月中頃小康の一時に病院を訪ねた私に向って「僕は元気になれるかも知れない。例の問題(昭和動乱史のこと)だが、僕は必ずやるぞ、君も手伝って呉れよ」と言って、細くなった手で力強く私の手を握られた。

 葬儀が滞りなく終った半月後、その涙も乾かない十一月の末に、私は陸上幹部学校の学生教育のため教壇に立つことを命ぜられた。

 それは西浦さんの担当する兵学概論の代講であり、命ぜられたと云うよりは進んでやらせて貰ったと言った方が適切であるかも知れない。尤も私が代講し得るだけの力があると思ったからではない。代講しなければならないと思ったからである。西浦さんの御冥福を祈りつつも、道統を継承することのきびしさをしみじみと感じたのである。

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