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オンラインイベント『しくじりダイアローグ』誕生秘話 ~地上最強の生物と“食”との関係性~

こんにちは。

株式会社プロタゴワークスあかねです。

先日、当社で新しいイベントサービスをスタートしました。

その名も、『しくじりダイアローグ』

第一回目の開催は、2020年5月17日(日)20時スタートです。
申込受付は、5月17日(日)13時まで受け付けています。(第一回目のイベントは終了しました。今後の開催予定を以下のリンク先から確認して下さい)

(お申込みは以下の画像をクリックして下さい)

しくじりダイアローグ 5.17

このイベントは、名前の通り、自らの「しくじり体験」を持ち寄ってみんなで語り合おうという対話型アクティビティです。
イベントの詳細な案内は、サイト内に譲るとして、今回はこれをやってみようと思った話を少し書いてみようと思います。

そもそもの事の始まりは、僕が、プロレスと格闘技とマンガが大好きだというところからでした。
この3つの要素から想起されるモノと言えば何でしょうか?
これらを好きな人にはピンときたはずです。
プロレスラ―が活躍する・格闘家が活躍する・マンガという媒体であるという要件を満たしているマンガ作品がすぐに頭の中に浮かんできたんじゃないでしょうか。


という事は、そうするともう、あれしかありません。
そうです。あのマンガです。


プロレスファン・格闘技ファン、そして、マンガ好きという3つの要素を兼ね備えた多くの方がそうであるように、僕もあの国民的漫画家である板垣恵介大先生の代表作、『グラップラー刃牙シリーズ』の大ファンなんです。
ということは、当然の如く作中に登場する、あの“地上最強の生物”である範馬勇次郎への憧れを自分の内側に秘めている事になります。この作品のファンのみなさんもそうですよね?(「そうじゃない」と言う方は、優しくスルーして下さい)

まさに“地上最強”と呼んで差し支えない生物である彼の、様々な逸話が幾つも思い返されますが、その中でも特に印象的だったのは、いつだったか彼が口にした台詞です。
そのセリフが、時折僕の脳裏に蘇ります。
それは、大抵が、相反する性質を持った何かと何かという複数の選択肢に直面した時だったりするんです。
そしてそんなタイミングが、つい最近もやってきました。

彼はこんな事を言っていました。
「毒も喰らう。栄養も喰らう。両方を共に美味いと感じ、血肉に変える度量こそが食には肝要だ」

毒も喰らう栄養も喰らう

僕はこの言葉を思い出す度に、己の物事の捉え方や考え方について、ハッとさせられます。
「何が良いのか?」
「どっちが良いのか?」
「悪いものは選びたくない」
「もし悪かったら後で後悔するだろうし」
相反する性質を持つ選択肢を目の前にした時。
例えばそれは、どう行動するのか?という場合がほとんどだったりするんですけど、自分のこの考え方と、地上最強の生物である彼の考え方を並べて眺めてみたりします。
そうすると、大抵の場合は、自分の頭の中を占めていた狭量な考え方よりも、彼のような極めて器のデカい考え方に傾いていく自分の気持ちを感じている事が多いんです。

「毒も喰らう。栄養も喰らう」
天然の食品ではない物で出来ている体に良くないと言われている物をわざわざ口にするっていうのは自分の為になるんだろうか?
逆に、体に良いとされるモノだけを口にし続けるのは、本当に健全で健康的なんだろうか?
そもそも健全で健康的というのはどういう状態を指しているのか?
2つのうちのどっちが良いかを考えるよりも、どっちも取り入れてしまって、その上でそれが最良だと言える方が良いのかもしれないのではないか?

葛藤の場面に直面すると、そんな問いが自分の中に立ち上がってくるのを、感じます。
そして、彼の言うように、両方を共に美味いと感じ、それを自分の為に血肉に変えられる度量があったなら、こんな細かい事に思考の大部分を割くこともなく、もっと大きな心持ちでゆったりと物事を考えて、余裕を持って選択して、自分のためになると言い切れる判断ができるのかもしれないよなあ。と、考えてしまいます。
もちろん、これは食べる物についての話だけじゃありません。と言うか、食べる物はあくまでも比喩として用いているだけの場合がほとんどです。

そして、この考え方を、自分がこれまでに過ごしてきた時間の中でとってきた行動とその結果についても同じように考える事がよくあります。

ですが、自分がとってきた過去の行動の結果を振り返ってみると、すぐに頭の中に浮かんでくるのは、「思い出したくない出来事」がその大部分を占めます。
「思い出すと幸せな気持ちになる出来事」が頭の中を駆け巡るのは、既に幸せな気持ちになっている時がほとんどです。
日常的に思い出される過去の出来事は、思い出すと暗い気持ちになる事ばかり。だけど、それらは当たり前ですが、自分がとった行動で引き起こされた結果です。
だからこそ、出来る限り「良かった」と思える行動の結果を無理矢理にでも思い出して、そこから「良かった要素」を半ば強引に導き出して、今後に生かそうなんていう風に考えてしまいます。そして、もちろんそんな付け焼刃のような事は大抵うまくいきません。

そもそも、「良かった」と思える事を思い出そうとしても、浮かんでくるのは「思い出したくない事」が後から後から湧いてきてなかなか「良かった事」が出てきません。どうしたって、浮かんでくるのはいわゆる自分の「しくじり体験」です。「ああ、あの時は、本当にやっちまったなあ」そんな事を思って、「もう二度とあんな事はしないようにしよう」と考えて、また暗い気持ちになる。


とは言え、いつまでもこんな事を繰り返していても、自分にとってプラスになる事なんて何一つないと思うから、「問い」を立ててみる事にしたんです。

「もし、自分が地上最強の生物・範馬勇次郎だったとしたらどう考えるか?」
そんな無茶苦茶な「問い」を立ててみました。

「しくじり体験」すらも美味いと感じて己の血肉に変える事ができたなら、これは自分にとって良い事しかないんじゃないんだろうか?何しろ、もう既にやってしまった事なんだし。今さら何をどう思い悩んだって、やってしまった事は消え無いし、引き起こされた結果も変わらない。でも、そんな過去をしっかり喰らい尽くす事ができれば、よくよく咀嚼してみれば、もしかしたら万に一つでも、美味いと思える可能性もあるかもしれないし。そもそも、その事が持っている美味さを感じとる力が弱い可能性もあるかもしれない。今までその味の悪さと、如何にも「これは毒です」然としたその風体から、咀嚼も嚥下もしてこなかったその「しくじり」が、自分自身の血肉に変わって、文字通り身に付くことで今後の自分の人生にとって良い影響を及ぼす可能性もあるんじゃないだろうか?だけど、それって自分一人でやれるんだとしたら、もうとっくの昔にやってるはずだよな。という事は、恐らく自分一人でこの作業をするのは難しいってことだろう。何しろ、思い出す度に「くーーー」って心の中には、強烈な苦さと強烈な後味の悪さが脳みそ一杯に広がって苦痛に喘いでしまうくらいなんだから、なかなかの無理難題ってことだろう。自分一人でやるには荷が重い。だけど、一人じゃなかったとしたらどうだろう?もし、自分と同じように「しくじり体験」が頭をよぎる度に苦悶の表情を浮かべてしまうような人達と一緒だったとしたら、自分のこの思い出したくもない経験を話して、それを自分以外の人の視点から見てもらって、各々が「自分だったらどうとらえるか」とか「自分ならこうしたかも」とか、そんな話ができるかもしれない。これまでの人生で、自分のしくじり体験を色んな人に話してきた事もあったけど、そうすると大抵は、説教されたり、上から目線でアドバイスされたり、なんでか慰められたりしてきたりもしたけど、そのどれもが何一つとして心に響いた事なんか無かったよなあ。心に響いていたとしたら、その「しくじり」は既に「しくじり」とは別の何かもっと良いものに変化しているだろうから。そもそも、驚くほどデカめのお世話だし、そんな言葉が欲しくて話したわけじゃなかったし、アドバイスなんてそのほとんどがいつかどこかで耳にしたような陳腐で耳障りの良いようなモノだらけだったし。だから、そんな事じゃない、そんな事にならない場を、自分で立ち上げてみたらどうなのか?

こんな感じで、声にならない呟きが、ほんの一瞬で一気に頭の中を駆け巡りました。

創作の世界には、範馬勇次郎のように恐ろしい程の強さを持つ人や凄い人がゴロゴロしています。それはもう、めくるめく夢のような世界で、僕から見たらヒーローしかいない世界です。
そして、現実のこの世の中にも、強い人や素晴らしい実績を残した人やとてつもなく出来の良い人やポジティブで魅力に溢れた人達がたくさんいます。ネットがメディアの中心になった今の時代には、テレビ全盛の時代よりも遥かに多くの魅力的な人達に会い、その話を聞く機会が増えました。
だけど僕は、そんな人達を見たり、そんな人達の話を聞いたり、そんな人達の行動に触れたりすると、決まっていつも、「凄いなあ」という感心と憧れの気持ちを抱くと同時に、「なんで自分はこう出来ないんだろう」と自分と比べてしまって、自分への失望を感じ、他人を羨ましいと思う気持ちを抱く自分の浅ましさを目の当たりにして暗い気持ちになる事がよくありました。過去形で書きましたが、そんな気持ちになる瞬間は、今でも時々ありますから全然過去形じゃないんですけどね。

でも、いつの頃からか、それとは真逆な開き直りに近い事を考える機会が多くなりました。

「自分は、強くもないし出来も悪いしネガティブだけど、これだけの弱みが勢ぞろいしてるって事は、ある意味では他の人が持ちえない部分ばかりという事なんじゃないだろうか?つまり、強みとも呼べるような、それなりの高レベルなボンクラ具合だぞ」なんていう風に。実際のところ、自分のように、これだけのボンクラ度が揃っている人なんて、あんまり出会った事が無いのも事実だし。つまり、自分はなかなか稀な体験をしてきてるんじゃないだろうか。
もしそうだとすると、この稀なボンクラシストである自分の数々の「しくじり体験」を、自分の中だけに留めておくんじゃなくて、外に出していくことで何かに変わるかもしれない。少なくとも、自分の話を聞いた人の中には、ちょっとだけでも気持ちが軽くなったって言う人もいたし、これからもそういう事があるかもしれないよな。そうすると、「ああ、自分よりもダメな人だってこんな風に生きているんだ。それに比べたら、私は全然大丈夫なんだ」って思えるかもしれないし。
それに何より、「しくじり体験」を一度も経ずに生きている人なんて、多分どこにもいないんだろうから。

こんな事を、考えて、この『しくじりダイアローグ』は生まれました。

「しくじった」と思うような事があったとしたら、ここで僕たちと一緒に話してみるのはどうでしょうか?
「しくじり」を自分の中に留めておいても、それは自分の視点でしか振り返る事ができません。
自分の視点でしか振り返る事ができないという事は、しくじった時点から自分自身が成長や進歩というような変化が起きていなければ、その振り返りは以前と何ら変わりのないモノになってしまうかもしれません。
でも、ひとたび自分以外の人の視点が入ったら、自分の中から自発的には生まれてこない視点を介して、自分の中の過去の体験を眺めてみたら、もしかしたら今までに無かったような「問い」が、今までに無かったような気付きが、生まれるかもしれません。もちろん、生まれないかもしれんが、どっちに転んだとしても、少なくとも自分の中に留め続けて、いつか腐ってしまう日を迎えるだけになるよりは遥かにマシなのかもしれません。

誰かに話をするという事は、誰かに伝えるために多少なりとも客観視して外化するという事です。
客観視するという事は、既に自分一人の視点ではなく、想像の中ではあるけれど自分以外の誰かの視点でその体験を捉え直すという事です。捉え直すということは、その出来事の意味付けを変えていくという事です。意味付けを変えるということは、もしかしたら、その「しくじり体験」が、今までとは全く別の何かに形を変える可能性を孕んでいるという事です。
そして、外化するという事は、自分の中だけの保管庫から外の世界へ出して、外の空気に触れさせて、外界の刺激に触れさせるという事です。

それが、この『しくじりダイアローグ』の狙いでもあります。

自分の中の保管庫に長時間溜まっている澱のような「しくじり体験」。
思い出す度に、強烈な苦みと濃縮されたエグみや得も言われぬ臭いを感じてしまうがために、「これは毒だ」と認定してできるだけ触れないように、できるだけ口にしないようにしてきたモノかもしれません。
その自分という保管庫の奥底の入れ物から、外に出して、外界の空気に触れさせる。
その外界の空気の中には、さまざまな働きを持つ多様な微生物が漂っている可能性があります。
空気に触れる事で、空気中に漂っている目には見えない様々な微生物と混じり合い、その微生物の働きによって単なる「しくじり体験」という澱のようなものが、少しずつ少しずつ、時には、一気呵成に、何かしらの発酵を伴って、全く別の美味いものに形を変える。
まるで、ただの米と水が極上の日本酒に変わるように。
まるで、牛乳が極上のチーズに変わるように。
それ単体では成し得なかった形状の変化。
それのみでは持ち得なかったさまざまな旨味の獲得。
それによって、あんなに苦くてエグくて臭かったモノが、
とても旨くて、とても滑らかな舌触りで、とても良い香りのする、
極上の御馳走に変わるかもしれません。

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あなたの「しくじり体験」が発酵するきっかけとなる外的要因は、あなた以外の参加者とその人達との対話ですので各回によって常に変わります。もちろん、「しくじり体験」を保存している自分という器も日々の条件によって全然違うので、保存されているモノの状態も変化している可能性もあるわけです。

こんな風に考えると、自分達で考えたイベントなんですけど、手前味噌ながら、とても面白いなあと思うのです。もちろん、発酵食品の味噌にかけています。さあ、上手い事言いましたよ。

ただ、当然ながら、何の発酵も促されない場合だってあるでしょう。
そんな時には、地上最強の生物の言葉に倣えば何の問題もありません。
「毒も喰らう。栄養も喰らう。両方を共に美味いと感じ、血肉に変える度量こそが食には肝要だ」
そんな、彼のような度量を持ち合わせるための鍛錬の場としても、このイベントは機能してくれるんじゃないかと期待を込めているんです。

発酵という過程を経て、極上の御馳走に変化するであろう「しくじり体験」。
毒だろうが、栄養だろうが、全てを血肉に変える度量を手に入れる場になりうる「対話の場」。
その両面を併せ持つのがこのイベントです。

そんな極上の御馳走になりうる素材を、自分自身にはもちろん、他の参加者の人にも大盤振る舞いしてもらって、その最上級の素材をみんなで吟味して、それをみんなで隅々まで堪能し尽くして、一緒に血肉に変える事ができるのを楽しみにしています。
イベントの終わりには、「この毒が・この御馳走が、どれだけ美味かったか」について語り合えたらなお嬉しいなと思っています。

イベントコンセプトの「しくじりを喰らわば皿まで」は、こんな風にして生まれました。

喰らえ

みなさんと一緒に、「しくじり体験」について話ができるの楽しみにしています。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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