書評 巨椋鴻之介『禁じられた遊び』(毎日コミュニケーションズ)

 詰め将棋というのは、将棋を知っている人間なら誰にでも楽しめる遊びである。しかし、それにのめり込むと、底知れぬ世界が見えてくる。遊びであったはずのものが、ただの遊びではなくなる。そうして詰め将棋の魅力に取り憑かれたマニアたちは、詰め将棋のことを必ず「詰将棋」と表記する。本書『禁じられた遊び』は、昭和三〇年代を中心にして活躍し、一時代を築いた詰将棋作家である巨椋鴻之介が、自らの言葉で詰将棋観を余すところなく語り切った詰将棋作品集である。
 詰将棋を解いたことしかない人間には、詰将棋をどうやって作ればいいのか、想像がつかない。詰将棋創作はとんでもなくむつかしいことのように見える。しかし実際には、詰将棋作家の立場から言えば、詰将棋はどのようにも作れる。そしてどのようにも作れるからこそ、詰将棋創作はむつかしいのだ。つまり、作者があるはっきりとした意図で制御しないと、作品はかたちのないものになってしまう。このことに最も自覚的であった作家が巨椋鴻之介であり、『禁じられた遊び』は、詰将棋の理想的なかたち(それを巨椋鴻之介は「フォルム」と呼ぶ)を求めてたえず模索し、作り上げた作品に何が不足しているのか、どこが欠点なのかを見極めながら、次に作る作品の取るべき姿を考えていった、自意識的な軌跡が描かれている。もちろん、創作にここまで自覚的な詰将棋作家が絶無だったわけではない。しかし、そうした作家たちは、格闘の最終的な産物である詰将棋作品だけを残した。言葉では語りえなかった。『禁じられた遊び』は、そこに収められた圧倒的な作品群もさることながら、それを緻密で分析的な言葉で語ったという点で、おそらく初めての「批評的」な詰将棋作品集となっている。
 優れた芸術作品は、鑑賞する者に至福を与える。たとえば詰将棋なら、それを自分の頭で解き、作者が仕組んだ絶妙な構想を自力で発見し、配置されている駒が何重にも働く機能的な美や、全体的なまとまりの美しさに触れた者は、詰将棋という芸術パズルを知ってよかったとつくづく思う。ただその一方で、芸術家が自作について明晰な言葉で語ってくれたら、どんなにすばらしいだろうかと夢想することもしばしばある。『禁じられた遊び』では、その夢想が現実になっているのだ。
 本書の読みどころのもう一つは、著者の言葉を借りれば、「作品をその時代に置きなおす」配慮がされている点だ。必然的に、それは昭和の詰将棋がたどった歴史と、著者が実人生でたどった歴史を語ることになる。そういう意味で、本書は詰将棋の歩みと、詰将棋作家巨椋鴻之介、そして本名である佐々木明という一個人の歩みを綴ったものにもなっている。その本名は、最後のページにいたってようやく登場する。フランス文学者で、『新スタンダード仏和辞典』の編者であり、ミシェル・フーコーの『言葉と物』の翻訳者。そのような業績ですら、影が薄くなるほど、巨椋鴻之介が残した詰将棋の作品群と、本書に刻み込まれた言葉たちは輝いて見える。
「詰将棋創作はすばらしい遊びだが、遊びとしてはいささかキツすぎる。それは時間と精魂を吸いとり、学業、仕事、家庭——一言で言って実人生——を破滅させる危険をはらんでいる」と巨椋鴻之介は述懐する。その実人生からの要請で、一時期は捨てた詰将棋ではあっても、昔遊んだ玩具をふたたび手に取るように、こうして作品集をまとめた著者に、すべての詰将棋愛好家は感謝せずにはいられないだろう。そして作品を盤上に並べ直しながら、そこに注がれた作者の情熱を贈物のように受け取るだろう。

(初出:2008.4 毎日新聞)

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