ナボコフとの出会い

 人が読者として、ある作品と出会い、ある作家とめぐり会う。そのかたちは人さまざまだ。ここでは、わたしがどのようにナボコフと出会ったかを綴ってみる。それは結局、本を読むという行為はどういうことなのか、という問題を自問自答することになるだろう。
 わたしがナボコフと出会ったのは、今から三十年ほど前の話である。だんだん記憶が薄れていくので不確かだが、大学院生のときだったのは間違いない。最初に読んだのは『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』である。そしてそれから一年くらいの期間に、ナボコフのほぼすべての小説を読み尽くした。それでも飽きたらずに、折にふれて再読を繰り返しているうちに、いつのまにかナボコフが自分にとっていちばん大切な作家になってしまった。
 どうしてそんなにナボコフに入れ込むようになってしまったのか。その理由を語り出すと長くなるが、こうである。
 わたしは文学部の学生になる以前、高校の数学教師をしていた。勤務先は定時制高校だった。勤めは疲れるものだったが、その一方でやりがいがあり、働いているという確かな実感があった。
 疲れる日々の合間に小説を読んでいたのがだんだんおもしろくなり、その趣味が高じて文学部の学生に戻ってみると、そこは今まで体験したことのない不確かな世界だった。
 文学を研究するということは、娯楽のために小説を読んでいるのとどう違うのだろうか? 文学研究者と一般読者ではどう違うのか? 作品解釈という名のもとに、自分勝手な説を述べるだけの論文を生産して、それで食っていくというのはどういうことか? 今まで誰も言ったことがないような新解釈を生み出す、それが文学研究ということなのだろうか? もしそれが文学研究だとしても、わたしにそんな器用な真似が続けられるだろうか? 悩むというほどまではいかなくても、わたしの頭の中ではそうした疑問の数々がぼんやりと浮かんでは消えていった。
 実は、そうした疑問は、今でもすっかり解消されたわけではない。しかし、文学部で学んでいるうちに、次第に見えてきたこともある。その一つは、単に娯楽で小説を読んでいたときとは違って、小説について語る、その方法だ。おもしろいという言葉しか持たなかったのが、どこがどうおもしろいのか、それを語るすべが少しずつ身についてきたのだ。喩えるならば、大伽藍を作り上げる自信はまったくないが、カナヅチとクギの使い方を学んで、小さな犬小屋くらいなら自分で組み立てられるという、その程度のささやかな自信なら身につけることができたわけである。
 そしてもう一つは、わかることとわからないことが、次第にわかるようになってきたことだ。数学をやっていた頃は、わかることとわからないことの区別もついていなかった。すべてはぼんやりとした靄に包まれていただけなのだ。ところが、文学をやっていると、わかるということはすべてが腑に落ちて初めてわかったことになる、ということがわかるようになった。わからないうちは、難解な用語をふりまわして、本当はわかっていないことを塗り隠すものだということもわかった。そういう場合は、実は自分でもよくわかっていないし、自分でもよくわかっていないことが人によくわかるように伝えられるはずがないのである。
 そんなことを考えているうちに、ようやく自分なりにたどりついた結論は、次のようなものだった。つまり、文学研究とは何かを考える前に、まず作品がよくわかるようになることを目標にしよう、ということだ。言い換えれば、まず良き読者になることだ。一つの作品を前にして、少しずつわかっていく、そのプロセスを大切にしよう、ということだ。なんだかずいぶん気の長い話のように思えるが、人生とはずっと勉強を続けていくことであり、自分の頭で考え続けることだと昔から思い定めていたわたしにとっては、ごく自然な結論だった。
 結局のところ、人が本を読むその意義というものは、あくまでもその人にしか存在しないとわたしは思っている。その人にとってある本がかぎりなく豊かなものを与えたとすれば、それがたとえ他人の目から見ればどれほどつまらないことであろうが、それだけで充分な意味があるはずだ。わかるということの意義も同じである。わからなかったことが、わかるようになる。そこでわかった事実が、たとえ他人にはさほどの価値を持たなくても、それを自力でわかったというプロセスそのものに価値がある。
 それでは、どの作家の作品を取り組むべき対象にするか。もちろん、単純に好きだと言える作家はたくさんいるが、それとこれとはまったく話が別だ。取り組むべき作家としては、自分の能力からしてはるかに仰ぎ見るしかないような存在を選ぼうとわたしは考えた。そういう相手なら、局所的な理解を少しずつ積み重ねていくことじたいが大変だし、意味がある。我ながら身のほど知らずだが、どうせ自分を向上させるためなら、心から偉いと思えるような対象に取り組むのがいい。つまらないと思うような作家を相手にするのは意味がない。
 わたしが最初にターゲットにしたのは、ジェイムズ・ジョイスだった。しかし、ジョイスとの格闘は、ごく短期間で終わってしまった。その理由は、数学をやっていたときと同じで、わかっているのかわかっていないのか、その実感がつかめなかったからである。そしてジョイスの次にこれはと考えたのが、ナボコフだったわけだ。
 最初はまったくわからなかった。『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』にしたところで、読もうとして実は何度も途中で挫折している。そうして挫折を繰り返し経験したあげく、やっと読み切れたときに、自分でも何かわからない変化が起きたのだろう。そのときにおぼろげながらつかんだのは、ナボコフの小説はいわゆるゲームの規則をその内部に埋め込んでいるような作品だ、ということではなかったかと思う。つまり、ナボコフの小説は、再読を繰り返せば繰り返すほどゲームの規則が呑み込めるようになって、いつのまにかその規則に従ってゲームを楽しめるようになれる、そんな世界なのである。ナボコフがわかるようになるということは、おそらくこのゲームの規則に関係している。
 ゲームの規則に慣れると、ナボコフがここだよと教えてくれている場所を見つけることができる(それを業界では、ナボコフ的な「マーカー」と言ったりする)。さらには、ある読み方が正しいかどうかが、読者自身で判定できるという、おそらくはナボコフの作品にしか見られない現象が起こったりする。
 そういうナボコフ作品の性格は、ナボコフによる文学の定義すなわち「文学とは、科学の官能性と詩の精密性を合わせたもの」に照らし合わせれば、「精密性」の部分になる。要するに、きちんとした論理で組み立てられている部分は、ゲームの規則さえ知っていれば誰にでもわかるはずなのだ。
 当然ながら、こうした読み方に対しては、いろんな反論があっても不思議ではない。まず、そうしてわかることは、結局のところ作者の意図を明らかにしているだけにすぎないのではないか、という疑問が出てくる。それはただ単にナボコフに唯々諾々と従っているだけであり、ナボコフのゲームをプレイしているだけではないのか、という疑問だ。そう考えることはもっともだとわたしも思う。しかし、その反面で、一度このゲームを徹底的にプレイすることなしには、ナボコフを読むことにどれほどの意味があるのだろうか、とも思う。世の中でこれくらいおもしろい遊びは、そんなに数多くないはずなのに(もちろん、ナボコフ本人も楽しんで書いているのだ)。
 文学を読むのはパズルを解くことではない、とはわたしが他人からよく言われてきた言葉である。そういう場合に、おそらく精密な論理と相反するものとして考えられているのは、直観であり、さらに言うなら文学的センスというものである。文学的センスとは人に教えることができないものであり、つまりは論理的な言葉にならないものだ。先ほどのナボコフによる文学の定義に当てはめれば、それは「官能性」により近いだろう。それはよく納得したうえで言うのだが、もともと数学(それも数学基礎論)を志したことのあるわたしにとっては、ナボコフほど論理的な側面を持った文学者はいないように見えるし、それこそが魅力的なのだ。ゲームをプレイすることは、ある意味で作品解釈のための基礎工事である。そのような土台なしに、飛躍した論理で作品について語ることは、豊かな文学的センスの持ち主ならできるのかもしれない。そうではないわたしのような人間は、地道な基礎工事にはげむだけで一生かかっても終わらないような気がしているが、それでもかまわないと思い定めていることは、すでに述べたとおりである。
 『ロリータ』の翻訳については、今では遠い昔の出来事のように思える。ある作品を理解するためにいちばんいい方法は、得心がいくまでそれを翻訳してみることだ、と教えてくれたのは、文学部で学んだときのわたしの恩師である。恩師は、ある思い定めた作家の作品を一つ一つ翻訳することに生涯を捧げたと言ってもおかしくはない人で、わたしもいつのまにか恩師に感化されてしまったらしい。実際、『ロリータ』を翻訳していたときは、それまで何も気にせずに通り過ぎていた箇所が次々と気になり、なるほどとわかったところもいくつかあって、それが嬉しくて仕方がなかった。もちろん、今でもわからないところだらけであり、『ロリータ』について考えたいことはいろいろある。いつまでたっても、ナボコフは、そして『ロリータ』は読み尽くせない。
 私流の『ロリータ』論である『ロリータ、ロリータ、ロリータ』(作品社)も、『ロリータ』について語り尽くすことを意図した本ではなく、あくまでもナボコフを読むことの寓話として受け取ってほしい。文学作品について、ある人間が言っていることを、鵜呑みにしてしまうことほど危険なことはない。他人の意見を真実として受け取った瞬間に、もうそれはただの知識に堕してしまい、いくばくかの価値を失ってしまう。正しい読み方を教えてもらったと思い込めば、もうその人にとって当の作品じたいはどうでもよくなる。いったい、そんな読書に意味があるのだろうか。たとえば、「『ロリータ』って、ボウの「アナベル・リー」という詩が元ネタになっているんだよ」と言う人は、ナボコフに無縁な(そしておそらく小説とも無縁な)人である。そういう人は、『ロリータ』についての知識を他人から仕入れただけなのだ。大切なのは知識ではなく、自分で読んでみることだ。自分で読んでみて、「アナベル・リー」だけではなく他にポウがこの小説の中でどのように使われているか、それを誰にもたよらずに自力で発見してみることだ。
 他人の話はすべて、本を読むことをめぐる寓話として受け取ること。そして、文学作品を読むことで得られる喜びというものは、つねに自分の手でつかみとること。
 わたしは自分のことを、文学研究者ではなくただの小説読者でかまわないと思っている。しかし、もし文学研究者と呼ばれることがあるとしたら、それは読書で得られる喜びを誰にでもわかるような言葉で伝えるという、わたしにとっては倫理的なふるまいを果たせたときだろう。ナボコフとつきあってきて、そんなことをよく考える。

(初出:2009.5 『Apied』)

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